朝日町立西五百川小学校 三中分校


朝日町大字大三中甲232

2007/06/25

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平成2年 学級数 1 児童数 8 教員数 1

この地域は明治8年に能中村、八ツ沼、西船渡の3つの村が合併され「三中村」になったのだそうです。だから三中分校があるだけで一中分校もニ中分校もありませんし、三中は「さんちゅう」ではなく「みなか」なのです

先生    「この問題わかる人手上げてください」
児童たち 「ハイ」「ハイ」「ハイ」
先生    「な〜んだ!みなか」

 棚田百選で有名な「椹平棚田」の近くに竜宮城のような白亜の分校がありました。宮宿から朝日自然観へ向い最上川を渡り信号を右折しトンネルの手前から八ツ沼方面へ登っていきT字路のような場所から右手におなじみ学校フェンスがチラッと見えますので右折するとすぐわかります
 朝日町の他の本校も分校も閉校時に学校の歴史が彫られた碑が多くありますがここでは昭和50年の記念碑だけしか見つけられませんでした
 建物までは、冬に車で登るの楽でなかったろうなと思わせるけっこうな坂道があります。なんか古いんだか新しいんだかよく判らないデザインですが外壁は割に近代的、木枠の窓などは古色蒼然という感じです。3階建のようですが3階は狭すぎるようなので飾りなんですかね。3階の窓が丸で2階の窓が花丸?ってのも設計者ががんばった(?)んだなと思いました。また、撮影時は気にならなかったのですが、外壁は壁なのかモルタルなのか木造に塗装したものなのか気になり始めました。
左から2枚目、道路から登る坂 3枚目、近くの八ツ沼 ついでに棚田の写真も掲載
近所に友人の実家がありますのでここの卒業生かもしTれません。詳細の調査は追って
この校舎こそ山形県内でも最古の建築物でありました。町のHPを引用させて頂きます

三中分校は明治15年(1882)に建てられた近代建築です。建物は木造3階建て、寄棟、金属板葺、外壁は越までは板張りでその他は白漆喰で塗られています。所謂、明治初期に見られる洋風や儀洋風とは一風異なり、1、2階の容姿からは昭和初期のモダニズムの走りのような印象を受けます。1階玄関上部の曲線は洋風建築の要素を取り入れていますが、2階の雲形の虫籠窓や3階の丸窓などは明らかに日本の書院建築の要素であり、当時、何故洋風建築に走らず、このような形態を選択したのか設計者、あるいは棟梁の苦悩を感じられます。旧朝日町立西五百川小学校三中分校舎は朝日町指定有形文化財に指定されています。