第五章 忠勇無双のわが兵は


 戦死した兄の手紙 

 ″忠勇無双のわが兵は″と、軍歌の歌詞にあるが、兄の政蔵はその典型の如く、中城(なかぐすく)湾に散っていった。
 勤務地の朝霞町の陸軍士官学校の朝霞町の陸軍士官学校を離れて、広島市宇品町の訓練所へ移り、更に戦場の沖縄本島に移る間、筆まめな政蔵は、十通に余る手紙や葉書を書き兄弟達に送った。今、それを読むと、いずれも遺書のように思える。いや、遺書そのものではないかと思う。
 従ってそれについて、とやかく批判したりすることは、私にはできない。下手な物言いは、すべてはね退けられてしまうと思うからだ。
 よってその書簡類を生のまま、ここに掲げる。数が多過ぎる気もするが、許してもらいたい。
 なお、政蔵の生い立ちや、特攻時の状況については、随筆集の『馬の骨』(昭和60年・やまがた散歩社)に書いたので、それをそのままここに転載する。

 人間関係

○阿部五郎治 長兄。昭和十八年に召集され、終戦時に陸軍一等兵。最上町町議を六期つとめ、七十三歳の時、勲五等瑞宝章を受章。大正元年生まれで、農業に従事。
○八鍬勝三郎 姉八鍬光子の夫。故人。
○八鍬光子 五番目の姉。
○洋子 勝三郎と光子の長女。当時三歳ぐらい。現在は坂本姓となり、茨城県龍ケ崎市に住む。昨年十月、姉が死亡し遺品を整理しているうち、政蔵の手紙や葉書を見つけ、私に知らせてくれた。


 権化(ごんげ)の最期(さいご)

 私はここで、動物たちの行動に精通した三番目の兄の、その後の生涯について語っておきたいと思う。
 彼は高小卒後、家業を手伝っていた。農業が好きであったし、周辺には生き物たちも豊富で、充分に満足できた。町の人ごみに出てゆく気など全くなかった。昭和十四年に私が村山農学校に入学した時も、羨望の気配すら見せなかった。家郷を後にしなければならない私を、むしろ憐れむような目で見ていた。しかし夏休みに私が一番の成績の通信簿をもって帰り、長兄の称賛を浴びた時には、はじめて感情を動かした。俺もこのままでは取り残されると思ったのか、この時から彼は勉強をはじめた。廂(ひさし)の小部屋にこもって、夜遅くまで蝋燭の灯で本を読むようになった。
 そして翌年に上山(かみのやま)国民高等学校(のちの上山農業高校)に入学した。二年間の乙種中等学校で、内ケ原の加藤寛治の影響を強く受け、開拓精神を叩きこむ学校であった。三兄は、休暇には内ケ原の講習に参加したりして、色々な経験を積んで家に帰った。そしてすぐに軍人を志願して関東軍に入った。
 軍人になった三兄は、水を得た魚のように、持っている能力を存分に発揮したようであった。特に銃剣術が強く、昭和十六年の春には関東軍の代表になり、内地代表と対戦するため一時帰国をしてきた。私は山形高等学校の二年で、後藤家に養子になったばかりであったが、そこへ不意に訪ねてきた。「関東軍といえば、何万も何十万もいるんだろうが、試合で勝って代表になったわけか」と聞くと、「そうだ」とすずしい顔で答えた。私は入学時から柔道部に入っていたが、一度も試合に出してもらえなかった。従ってまだ人に勝ったためしもなかった。それだけに三兄との運動神経の差の大きさを認めないわけにはゆかなかった。その時の彼の階級は伍長であった。
 翌十七年十月に、私は繰り上げ入学で、東大の文学部に入った。養母が医者の未亡人で、医学部進学を強く望んでいたが(当時は医学部進学希望者が少なく、文科からでも無試験で簡単に入学できた)、しかしあくまで私の文学部進学に反対することもしなかった。そして時を同じくして三兄も、陸軍予科士官学校の助教になって、埼玉県の朝霞町に赴任してきた。その時の階級は軍曹であったが、一カ月も経たないうちに曹長になった。軍曹から曹長になるには五年も十年もかかるのが軍隊の常識とされていたが、三兄
の場合は異例のスピード昇進であった。まだ童顔で、私の方が兄貴と間違えられるような三兄に、曹長の襟章と長い軍刀は似つかわしくなく、借りのように見えた。
 戦局がいよいよ険しいものになり、訓練も多忙になったためか、三兄と東京で会う機会もなくなっていった。そしてたびたび手紙をくれるようになった。その手紙は国情を憂え人心を案ずる内容のもので、軍人精神に凝り固まっていた。陸軍省のお偉方が見たら満点をつけたであろう内容の手紙を貰うたびに、私は返事に窮した。
 当時の陸士関係者は、東大を誤解していた。天皇機関説を生んだということだけで、敵視する人さえいた。日本精神を消滅させようとする皇国滅亡の教育を施している――その元凶は東大だと公言する軍高官もいた。そして三兄の思想もそれに近いものであった。次代を担う軍人のエリートを教育する仕事について、その思想はますます強固に磨きがかかってゆくようであった。一学生の私の弁明などに耳を藉(か)す余裕はなかった。
 昭和十八年に、文科系の徴兵延期が停止になり、十二月に私は盛歌工兵隊に入隊した。そして幹部候補生になり、翌十九年の五月に松戸の工兵学校(予備士官学校)に移った。それから九月に、訓練途中の身で、南方軍に転属になった。輸送の困難さが強まる一方なので、卒業を待たずに残りの教育を現地で受けさせるための転属であった。九月十四日、われわれ二百名ほどの者が、工兵学校をあとにして、輸送船の待つ門司へ向かった。
 丁度そのころ、三兄は海上挺身(ていしん)隊を志願し、予科士官学校を離れた。戦況が日毎に傾くのを座視できなかったのであろう。長年培った軍人精神を、実践にうつす決意のもとでの志願であった。そして海上挺身第二十七戦隊に所属し、戦隊本部付となった。戦隊長は陸士五十二期の岡部少佐であり、三箇中隊で総員百四名をもって編成ぎされていた。うち九割までが下士官であったが、三兄はその最右翼に位置して、戦隊長を補佐した。
 江田島で訓練を重ねた戦隊は、十二月末に沖縄の中城(なかぐすく)湾に入港し、与那原(よなばる)に本部をおいて作戦準備に入った。沖縄には既に第1、2、3、4の四戦隊が配置されていたが、それに新たに第26、27、28、29の四戦隊が追加配置されたものであった。四月一日、ついに米軍は沖縄に上陸を開始した。日本側の大方の予想した東側中城湾からの上陸ではなく、本島西海岸からの上陸であった。
 大艦隊をもって上陸した米軍は、攻撃をつづけ、わが軍の主陣地帯においてさえ、一日百メートルの割で前進した。そして一カ月経つころには、前線師団の兵力が半減するほどの損害をわが軍に与えていた。軍司令官牛島中将の憂愁も深刻なものがあった。このままの推移にまかせれば、戦力は次第に消耗し、やがて組織的な作戦が不可能になるであろうと判断した牛島中将は、ついに全軍攻撃を決意した。五月四日が、攻撃の予定日であった。
 じりじりしながらその日を待っていた挺身隊員たちはふるい立った。そして攻撃の先駆として、五月三日の午後十時に、米艦船をめがけて発進した。長さ五・六メートル、幅一・八メートル、厚さ○・九ミリのベニヤ製モーターボートに、二百四十キログラムの爆雷を搭載しての玉砕肉迫攻撃であった。同時刻に発進した二十七戦隊の艇は、本部四隻九名、二中隊三隻六名、三中隊八隻十六名の、都合十五隻で隊員数は三十一名であった。三兄は戦隊長と共に本部の一艇に乗りこみ、発進して散華した。軍人精神の権化(ごんげ)と化していた三兄にはふさわしい壮烈な最期(さいご)であったと言えよう。
 そのことは、その攻撃に加わり艇故障のため海岸に泳ぎついて辛くも生還した第三中隊長の伊藤正氏(中尉、陸士57期、湯沢市在住)から、兄の三十三回忌の折に知らされた。その手紙には「阿部曹長(三兄のこと)とは幸之浦の訓練基地で初めて一緒になりましたが、予科の助教からの転属ということもあって、私たち、戦隊長、中隊長等陸士出身者にとっては、恩師として親近感があり、いろいろとお世話になりました。また人格識見共に秀で、戦隊員の中でももっとも人望のあった方でした」という文言が記されていた。それから五年経って、今回いただいた手紙にも「阿部政蔵さんには随分とお世話になりました。温厚篤実な人柄は、優れた才能とともに戦隊の要として重きをなし、予科士官学校の区隊長より転じた岡部戦隊長の片腕として信頼も厚く活躍しておりました」と、三兄を賞揚する言葉が記されていた。
 ちなみに五月三日夜から四日にかけての攻勢は、事前に敵から察知されたものか、したたかな反撃にあって、逆上陸軍も壊滅的な打撃を受け、軍も一歩も前進ができなかった。のみならず主力をあっという間に失う結果を招き大失敗であった。第二十七挺身隊も、当初は海上で集合した上、一斉攻撃に移行する予定であったが、米軍は発進地に連続して照明弾を打ち上げて集合を不可能にした。そのため単艇行動を余儀なくされたものであったが、にもかかわらず駆逐艦一隻、大型上陸用舟艇及び大型輸送船それぞれ一隻を撃沈したと、戦史は伝えている。
 戦局の起死回生を夢みた若武者たちにとって、敵の壁は余りに厚く、かつ強靭であったことを嘆ぜずにはおられない。


  雨と風と

 今年(昭和五十九年)の春、三月末から四月初めにかけて沖縄に旅行した。三月いっぱいで学部長の任期二期が満了し、四年ぶりに繁忙さから解放される、その記念の旅行であった。
 旅先に沖縄を選んだ理由の一つに、戦死した兄の慰霊があった。昭二十年に、兄が中城(なかぐすく)湾で戦死してから三十九年もたつのに、まだ足を運んだことがなかった。日航のストのため、途中の足どりが乱れたが、二十九日夕刻に私と妻は、沖縄空港に立つことができた。
 翌三十日、まっ先に中城湾へ向かった。そして兄たち海上挺進隊(陸軍のボートによる海上特攻隊)の出艇した与那原(よなばる)の浜辺で供養を行った。米、灯明、線香、酒(ワン・カップ)など山形から持参したもののほか、途中で買った生花を岩の上において、掌を合わせた。それから、生前の兄を知らない妻がワン・カップの蓋を取り、「それ、山形の酒です。あがってください」といって海に向かって撒いた。
 その時である。一陣の強い風がこちらに向かって吹き、白く泡立った波が三メートルも伸びて砂浜の上を岩に迫ってきた。「あっ、風が出て来たな」と私はつぶやいた。海岸では珍しくない現象なので、その時はたいして気にもとめずにいたが、後になって奇妙に思えてきた。
 その強風は一回しか吹かなかった。従って白い泡の波も一度しかこちらに向かって来なかった。しかもその波は、慰霊をした岩の近くにだけ長く伸びてきたのであった。そしてその日の沖縄は、それ以降全く無風状態であった。″念が通じたのかな″とひそかに私は思うようになった。そして思い出したのが、須藤英夫という東京の人の書いた『或る少年兵達の死』の一節であった。
 須藤さんは、昭和四十九年と五十年に二度、フィリピンのルソン島を訪ね、戦死した兄の最期の地を探した。執念深い探索の末に、交戦相手の比島軍将校を見いだし、二度目にやっと最期の地をラグナ湖の水の中に見いだした。彼の兄は、海上挺身隊員の少年兵であった。
 ところが……この瞬間!! 全く偶然だったのか一天俄にかき曇り大音響とともにすさまじい雷鳴が轟き、間髪を入れず我々をたたきつぶさんばかりの勢いでスコールが襲って来た。驚いたのは私ばかりではなく、レスリコン氏(日本少年兵たちと戦った元比島軍大尉)は、
「あなた方の声が天に届いたのだ!」
 と言うが早いか真剣な顔付で奥の方へ飛び込んでしまった。
 と、彼はその時の模様を記している。ラグナ湖はマニラからたいして離れていないが、その日のマニラには、一滴の雨も降らなかったことが書き添えられている。それを思い出したのであった。
 私の兄は、五月四日を期しての沖縄反撃作戦に、その先駆として、ベニヤ製ボートに二百四十キロ爆雷を積み、敵艦に肉迫攻撃して戦死した。五月三日、二十二時の発進であったという。兄の肉体はおそらく中城湾に飛び散ったであろう。しかしその魂魄は、四十年近くたった今も、中城湾にとどまっているのだろうか。魂魄の存在について語るほど、私はその方面の知識をもち合わせていない。須藤さんの記録を読んだ時も、私は凄い偶然だと思っただけであった。
 しかし、今春の自分自身の体験と合わせ考えると、ラグナ湖畔の雷雨と、中城湾の強風の二つの現象は、単なる偶然とだけは言い切れないものをもつように思えてきた。精神を一点に集中して散った挺身隊員の霊は、その集中度の濃密さのゆえに、平和の世の現在にまで感応する、何かを残しているのではなかろうか。