第三章 遺骨収集


 遺骨収集 


 昭和四十八年の遺骨収集

 私は昭和四十八年十一月十三日、羽田を発ち、政府派遣遺骨収集団の一員として、それから一カ月間、ルソン島の遺骨の収集に携わった。二十七年前に「二度と足を踏み入れません」と
いう誓約書を書いて去ったルソン島であったが、国際情勢の変化が、私の入国を可能にした。
 私はルソン隊の第五班に入り、配られた名簿は、次の九名のものであった。
  吉富孝信    熊本市
  中里範清    いわき市
  一戸平次郎   青森県
  後藤利雄    山形市
  慶野三代吉   東京都
  吉原耕作    鹿児島市
  光安 勇    福岡市
  吉田芳雄    高崎市
  中山忠明    北海道
  これに、
  遺児      二名
  学生      二名
  厚生省職員   一名
 が加わり、計十四名が第五班の総員であった。遺骨収集は土方仕事なので、若い遺児と学生に負うところが大きかったのだが、追加名簿は配られなかった。ただし、遺児の一人に山形県南陽市の佐藤健児君がおり、学生の一人に体格のいい大野君がいたことは今も覚えている。厚生省職員は伊藤氏であった。
 この遺骨収集の概要を記したのが、次の報告書である。これは故落合秀正氏が、戦友会に呼びかけて資金援助を募ったところ、二十数名が応じてくれたので、その方々への報告のため書いたものである。

 報告の手紙

 おそくなりましたが、先般の政府派遣遺骨収集団の第五班(厚
生省一、戦友九、遺児二、学生二、計一四名)の活動のあらましを報告いたします。
  第五班の収集した遺骨数    二、八一九柱
 ルソン、ミンダナオ両島の八つの班(一三○名)で収集した総数が一四、三○一柱で、ルソン班のうち最高の数になります。それはバギオの修道院のシスターをしておられるウンノさんという東京出身の方に負うところ大。我々の行く前に付近の二世の方々と連絡をとり、遺骨のある場所を数カ所探しておいてくれました。その中に旧陸軍病院の埋葬地が二カ所(バギオ東南十三キロにあるアトック鉱山とバギオ市のmines view hill の大統領別荘付近で、この両所からだけで、約二○○○柱を収骨)含まれていて、一部分は既に掘り起こしておいてくれました。この陸病跡二カ所の収集に数日を要しましたが、その後トリンダットの二世の所有地から五柱収骨、つづいて工兵隊に縁の深いCamp4、Camp3、四八八高地などに赴きました。Camp4、Camp3、およびその中間の部落にはそれぞれ三度ずつ行って、計三四七柱を収集しました。ここでは落合さんから紹介されたCamp4 小学校長のDispo氏とCamp3 小学校長Molano 氏およびその中間部落氏no氏およびその中間部落の独身の男が、それぞれ収集してくれたもので、我々も山の中腹(Camp3のもと青山と呼んだ山)まで登りましたが遺骨は収集できず、二度目でやっと一九柱を収集することが出来ました。北村中隊のいた四八八南側高地、およびその背面の峡谷、Camp3への転進路までは日程の都合で、手が及びませんでした。
 十二月十九、二十日頃、サイタンの農家に泊まって、シソン、ダモルテスなどの町長に会い、協力を頼むと同時に日本兵の遺体の処置について尋ねました。親切にいろいろ教えたり、紹介したりしてくれましたが、「私の兄弟も戦争で死んだが、その遺体も収集できませんでした」というダモルテスの町長の言葉を聞いてからは、あまりしつこく聞くべきでないと反省させられました。この頃、ロザリオ、サンファビアン、モングロ、カバルアン丘等で慰霊祭を行いました。カバルアンは大森支隊全滅の地ですが、住民の話ではここには遺骨はなかった。ボーローヒルにはたくさんあったという事なので、その丘にも行きましたが結局一柱も収集できませんでした。
 二十一、二十二日は長駆シアシオ(リンガエン湾南端、独立車輌隊の全滅したところ)に赴き、雨の中を作業して、この地区では初めて一○柱の遺骨を収集しました。支隊の転進経路なども聞きましたが、湾から十キロ位山の中に入ったところにシアシオという部落があります。
 帰路平野部の各地の町長、部落長などに会って聞くも要領を得ず、結局平野部での収集はほとんど不可能であることを知りました。二十五日にアトック鉱山わきの二世の加藤さんの芋畑で、第一回の焼骨をしました。石油が少ししか手に入らず、中々燃やすのに難儀しましたが、加藤さんの所にさいわいコレマツの柱が数本あったので焼骨できました。薪その他加藤さんが寄付してくれました。
 その後、ボントック道90Kのダダという所まで行き、北の方から、カバヤン峡谷に入る予定でしたが、橋が落ちてジープが入れないことがわかり、再びアンブクラオの方に引き返しました。途中武装解除を受けた56K地点(いま54K)の斜面を逆に行ってみましたが、当時の道は今は使用していない為、崖崩れがひどく遠くまでは入れませんでした。この斜面で私は転倒してカメラをこわしました。
 アンブクラオ周辺の遺骨は全部ダムの底に沈められた由
ですが、一時兵站(へいたん)病院のあったインチカク(intaykak インタイカクが正しい)から数十、ボコドから一○柱ほど、終戦時集結したカバヤン及びその北東部落グサランからも二日がかりで数十柱収集しました。ここでは小学校や警察署などに宿営しました。プログ山東側峡谷の未開地へは結局比島官憲の許可が得られず入れませんでした。
 十二月三日、バギオにひき上げた晩、私は猛烈な腹痛におそわれ、戒厳令の外出禁止令が解ける午前四時、医師の注射を受けるまで随分苦しみました。ために三日四日は絶食をして休みました。四、五日はトリンダットで第二回の焼骨、ここにもアトックと同様、残灰を埋めたあと(二世のカトーさんが奥さんになっている家)に記念碑を建ててくれることになりました。六日、マニラに引きあげてからはモンテンルパの処刑者の碑、山下将軍終焉の地、カレリヤ霊園等を巡拝、コレヒドールの戦跡を見学して帰国しました。
 最後にこれから戦跡訪問や遺骨収集をされる方の為に参考までに所感を記します。
(1) 比島人は、日本人が地面を掘掘るのを″宝さがし″と見て、異常な注意を注ぎます。遺骨収集は必ず市町村役場に連絡をとった上、案内人をつけてもらった上でなされるのがよい。
(2) 三十年の年月は山の地形まで変えてしまったりしています。樹木や民家は全く目標になりません。せっかちに場所を認知して
失敗することがあります。(Camp3で私はあぶなく父殺しと焼き打ちの犯人にされかけました)
(3) 世話になった比島人でも必要以上に金銭や物品をあげないようにされた方がよいと思います。日本人から物を貰って駄目になった人を何人か見てきました。彼らは働くよりも、日本人に物をねだった方が手っとりばやく収入になると考え、たかり屋のようになってしまいます。靴みがきの少年でもただで金をやると、翌日から味をしめて乞食をするようになります。大人も同じことです。物をあげて駄目な比島人を作らないようにしたいものです。
(4) 比島に何らかの貢献をされたい方は、前記のシスター、ウンノさんが、三世の奨学金を募っておりますが、これに参加なさるのも一法です。年間二万七千円送金すれば三世の一人を大学に通わせることができるそうです。二世は財産を没収されたため生活は苦しいが、三世の素質はすばらしくよく、これをのばしたいというのが、ウンノさんの念願です。私も一人引き受けて来ました。ウンノさんの住所は、
   Sister・Theresia Unno
   St. Francis Convnt Gov Park Road Baguio City Philippines です。
   なお、私の出発に際し、十六人の方々から多大の御援助をいただきました。いろいろ資料をお寄せくださった方にも感謝申し上げます。今回はとりあえず簡単なメモをお送りしますが、今後も記事がまとまればお送りいたします。
  昭和四十九年一月                        後藤利雄

 集骨数と地点

 遺骨収集の模様は右の報告書の通りであるが、序でに収集地点と収骨数(人数)を示せば、
 一、十一月二十七日までの収骨
  アトック金鉱          一、五○○(注1)
  Mines view hill          七○○(注2)
  トリンダット                 五
  サブラン                  四
  サントトーマス               二
  Camp4                  七○
  Camp3                 一五○
  Siasio                    一○
  イリサン                   六
  アトック(現地人)             三
  ランタン(トリンダット)           九
              小計  二、四五九
二、十一月三十日以降の収骨数
  タクボ峠                  二
  シソン                  一九
  Camp3                 三二
  中間                    九五
  Camp4                 一七
  B班のつけおとし分        二○四
   (うち31K、アトック 九○体)
  インチカク、カバヤン
  第五班収骨遺体数      二、八一九体
          (厚生省・伊藤氏のメモを写す)
 であった。勘定と計算は厚生省の伊藤氏に委せ、吉富氏が点検した。
(注1)兵站病院の埋葬地より。
(注2)陸軍病院の埋葬地より。なお陸軍病院の埋葬地は、もう一カ所あったが、そこは副大統領官邸になっていて、収骨できなかった。
〈補記〉先頃、加藤三千子さんから、武藤俊子さんの『私の比島従軍記』という手記が送られてきた。その中に、私共が収骨したMines view hillの埋葬について書かれてあった。

 何日かかかってバギオに着きました。忘れもしません一月二十三日の大空襲に会ったことでした。それまで小さな爆撃はありましたが、その時は丁度昼の飯時です。何時も朝飯がすむと患者は三々五々山中に逃避していたのです。昼食をたべに帰ってきた患者が病室に着くやいなや、グラマン、ロッキード、B29の絨緞爆撃にあったのです。患者七百何十人、埼玉班の看護婦長、自分達仲間の深野、福島、渡辺看護婦が戦死しました。
 田辺とトタン板を持って死体収容にあたり、生き残った人も皆そうでした。細い溝に埋めたのです。深野さんもあのときはまだ比島人が深く掘ってくれた中に何十人かを一緒に埋めました。(後略)

 右は手記の一部であるが、これによってMines view hillの埋葬者は、一月二十三日の空襲による戦死者であるこであることが分かった。収骨時には、どうして一列に長く埋められているのか理由がはっきりしなかったが、その訳も分かった次第であった。


 キャンプ3慰霊祭の祭文

 昭和四十八年十一月の末に、キャンプ3の元一軒家跡で慰霊祭(祭主は吉富氏)を行った。その時に私的に奉呈した祭文(追悼文)の下書きが出てきたので、左に記す。参加者は吉富孝信氏、吉原耕作氏と私。他に通訳とPC。

 昭和二十年四月、キャンプ3のこの地に果てられた上村軍曹、野添兵長ほか後藤小隊所属の諸霊に対し、また稲泉中尉の率いた小隊全員の霊に対し、また少しく上の尾根に果てられた北村大尉、久保田中尉及び工兵一中隊の諸霊に対し、また右方台地に斬り込み的攻撃を敢行して相果てられた綾部大尉ほかの諸霊、及びこの地に果てられた諸々の諸霊に対して黙祷したいと存じます。
 私も当時、この地に野ざらしの屍をさらす運命にありましたが、奇しくも生命を永らえて日本に帰り、二十八年目の今、再びここに立っております。政府派遣団の遺骨収集隊の一員として、皆様方のすべてをお連れしたい気持ちで参りましたが、充分にそれがかないませんことが残念でなりません。
 皆さん方は本当に勇敢にこの地において戦われました。当時の武器、戦力の差から見て、米軍陣地を二つも突破して、この丘をわずか一日でも占領し得たという事実は、気力精神力の賜物であり、戦史に残らなくとも、我々生存者、遺族、学生らの胸に永く生き続けるものと考えます。
 戦争は負けましたが、日本は立派に復興致しました。それも生命を賭して公に奉じた皆さんのような方々があったればこそと痛感されます。このフィリピンも今は立派な独立国で除々に繁栄に向かって進み、親日的国家へと変貌しつつあります。そのこともまた皆様方が土台をおつくりになったといっても過言でないと思われます。回向や供養にも訪れることなく今日に至りましたことを深くお詫びして、諸霊に捧げる言葉に致したいと存じます。

 参会者は日本人のわれらとPCだけと書いたが、いつの間に現れたのか、木蔭からこちらを窺っている現地人の男一人がいた。近くで父親が日本兵から殺されたという男で、その犯人つまり仇が私だと思っている人であった。彼に見つからないようにこっそり登っていった積もりだったが、いつの間にか見つかっていたわけだ。その間の事情は『ルソンの山々を這って』に詳しく書いたので併読してもらいたい。その日から数日経った十二月のはじめ、私は単身でキャンプ3とキャンプ4の間を歩いたが、一軒家の主が後を従けてくることはなかった。


 苦節十年 バギオのウンノさん

 昨年(昭和五十八年)の卒業祝賀会の折に、私は「苦節十年」という話をしました。その大要を次に記し、足りなかった点を若干補って今年の卒業生におくる言葉にしたいと思います。
 十年前に私がフィリピンに行った時、バギオのホテルに、一人の修道女が訪ねてきました。東京出身のウンノ(海野)さんで、当時六十歳とのことでした。そして私に、フィリピン青少年のための、なかんずく日系三世のための、奨学金をはじめたいという話をしました。優秀な頭脳を持ちながら、家が貧困なため、進学できずにいる人が多い。それを救ってやりたいということでした。私は(別にクリスチャンではないが)、それはたいへんよいことだから、ウンノさん、ぜひやってくださいと返事をしました。
 私はルソン島の戦争に参加し、フィリピン人の作った芋や米に助けられて、やっと生きのびて復員した一人です。それで何かの形で個人的にも償いをしたいと考えていました。ウンノさんの話は、それに恰好の機会を与えるものだったので、その事業を助けてやろうという気を強く持ちました。
「私にも金のかかる子どもがいるので、多くの援助はできませんが、最低一人は引き受けましょう」と約束しました。それから、
「異国で、新しい事業をはじめるには、お金が要るでしょう。さいわい私の旅費が残りそうですので、これを使ってください」
 といって、私はなにがしかのお金(たぶん、日本円にして四、五万円程度のものだったと思うが)を差し出しました。
 ウンノさんは、すぐにそれを受け取ることはしませんでした。しばらく沈思したのち手を出しましたが、その時「よし、奨学金制度をはじめよう」と決意したそうです。それまでウンノさんは、何十人もの日本人に呼びかけましたが、賛同者が少なかったのです。私で三人目だったことや、金を出したのは私がはじめてだったことも、あとで知らされました。その後、さらに一人が加わり、賛同者は四人になりました。
 四人の日本人出資者をバックにした四人の奨学生、これがウンノさんの奨学金協会の当初の姿でした。しかもその四人に対してさえ、強制できるお金ではありませんので、じりじりしながら日本からの送金を待っていなければならないのが実態だったろうと想像されます。
 それから十年経った今年の二月、私はフィピン移民八十周年式典に招かれて、バギオに行き、ウンノさんと再会しました。そして奨学生の数が、八十人から百二十人を超えていることを知りました。はじめ日系三世のみを対象としていたが、フィリピンの貧しい学生にも手を伸ばし、徐々にその輪が拡がりつつあることを知りました。そしてこの話を聞き、この事業に共鳴した元皇族の竹田氏が、今年に入って東京に会員数三千人の協会を作りあげ、資金面の援助をすることになったことも聞きました。こうしてウンノさんの育英事業は、経済的にゆるぎのない基盤を得ることになったわけです。
 六十歳という年齢は、新しく事業をはじめるには遅すぎます。しかしウンノさんは、六十歳で事業をはじめて、十年がかりでそれを稔らせたのです。私の手を両手でしっかり握って歓迎してくれたウンノさんが、数百人の参会者に入って甲斐甲斐しく指図していたが、寄る年波は防ぎようがなかった。その姿を見て、私は「苦節十年」という言葉を思い出しました。これこそ、その言葉にぴったりな、輝かしい典型であると思ったのです。
 卒業生諸君、諸君に対して私はこの「苦節十年」という言葉を贈りたいと思います。これから出てゆく社会は、きびしい荒々しい所かもしれません。快適そのものといった職場は少ないと思います。困難に出あった場合や辛抱が足りないと思った時には、どうかこの「苦節十年」という言葉を思い出して下さい。
          (「山形大学人文ニュース」昭和59・3・23 随筆集『馬の骨』より転載)