八幡太郎に新説
 
 高島本『老の寝言』について、高島末香藤氏が、「やまがた散歩」十月号に記事を寄せられたが、それは貴重な発言であった。われわれは市史資料本を高島本と思ってきたのであったが、本物の高島本は、違う本であることがわかったからである。私は、さっそく高島氏に電話をし、参上して本を見せていただきたい旨のお願いをしたところ、氏は本を携えてわざわざ私の研究室まで出向いてくださったのである。
 その時の説明によると、事情は次のようなものであることがわかってきた。すなわち、本物の高島本『老の寝言』は、一時所在不明になっていた。それは父の米吉氏が、あまり大事に蔵(しま)い過ぎて、どこに置いたかわからなくなってしまったのであった。そして後藤嘉一氏が高島氏宅を訪ねていったのは、その期間中であった。そこで米吉氏は、仕方なく別に作ってあった抄出本(略記本)をお見せした。それが市史資料に、高島本『老の寝言』として紹介されることになった。

 さて高島本の原本を一見して、一驚させられたのは、雄大な義家伝説が記されていたことであった。これまでだれからも聞いたことがなく、どの本でも見たことのない義家の壮大なドラマが展開されていたことであった。これはぜひとも読者に詳しく伝えなければならない。そしてそれが史実かどうかを、多くの目で確かめてもらわなければならない。山形市民にとって、重大関心事となるべき内容の一説話を、その前半を現代語に直して記述することから、まず着手したいと思う。

 羽州東山(山形市郊外。旧高瀬村の東山)に、玉ケ入という里があります。つくづく思うに、タマガイリとはおもしろい。その名は、やさしく聞こえ、風雅で、いかにもわけありげなので、土地の者こそ覚えているはずと思い、その里の八十歳を超す老婆に尋ねてみました.すると老婆は”これはごていねいなお尋ねですが、私は女で、イロハさえ覚えておりませんので、くわしくはお話しできません。しかしながら、これまで言い伝えを聞いてきておりますので、そのあらましをお聞かせ申しましょう”と言って、次のように語ってくれました。
 ずっとずっと昔は、この東山も、今のようではありませんでした。まだろくに開けないので、人家も一沢中に、ここに一軒、かしこに二軒と、煙もまばらに立ち登る、ものさぴしい山里でした。その後、だんだんと開けて、今はこの通り、家も多く、五百軒以上になって、村号も六か村にわかれ、田畑も多くなりましたが、昔はみな、声や萱や樹木の生い茂っていた所と思われます。
 ところで、いつのころか、年号も知りませんが、奥州の国司、安部貞任、宗任兄弟が、謀叛を起こし、国中の勇士を随えて、朝廷の下知に背き、あまつさえ、籠城するという事態がおこりました。そのことが朝廷に聞こえ、都から官軍をくだして、平定してしまおうと、源氏左馬守頼義朝臣を大将軍として、その勢五百騎が奥州へ進撃し、栗谷川の城(厨川の城。岩手県)へ押し寄せ、さんざんに攻め戦いました。
 しかし、名に負う貞任兄弟は、無双の勇者であり、奥州大軍の統率者だったので、官軍は戦うたびに利を失い、攻めあぐみました。都からつぎつぎと軍勢が馳せ加わって戦いましたが、たやすくは落城しませんでした。しかしながら、天命に背いた罪はのがれがたく、九年目の戦いに、朝敵はことごとく亡び、貞任は討たれ、宗任は生捕りとなって、都へ連行されました。
 ここにおいて一国は平定したわけですが、羽州の武衝兄弟(清原家衡、武衝の兄弟)は、なおもって朝廷に伏さなかったので、またまた討手をくだすことになりました。そして前のいくさの勝利者である頼義公がよかろうということで、命をくだしましたが、頼義公は”九か年の戦いに疲れました”といって、その嫡子の八幡太郎義家公を、羽州へくだしました。
 官軍はまず、奥州へやってきて、ここで出羽の様子をうかがい、軍兵を三手に分けて、一卜手は、一万二千余騎を、鎌倉権五郎景政が大将となって、笹谷峠から討って入りました。もう一卜手は、三浦○(兵か)平大夫為次を大将と決め、銀山口から進発しました。さらにもう一卜手は、総大将の義家公で太夫光任を軍師として、その勢二万余騎が、清水峠(今の二口峠と思われる)から討って出ることになりました。三方から攻め、敵勢へ近づいて、かわるがわるに戦おうという計りごとでした。

〔解説〕 旧高瀬村の東山地内にある、玉ケ入(たまがいり)という地名にまつわる言い伝えを、土地の老婆から聞いて書き記した体裁になっている。前九年の役から説きはじめて、後三年の役に及んでいるが、前九年の役については、ここに記しただけの簡単な記述で終っている。しかし後三年の役については、史書等に書かれていない内容が、これから展開されてゆく。奥州から羽州への進攻は、笹谷峠、清水峠(二口峠)、銀山口(銀山超え、あるいは鍋越越(なべごしごえ)か)の三手にわかれて行なわれたというのは、史実めいている。それぞれの大将の名まで記されていて、簡単に作り話と言ってしまえない内容になっている。

  ”雁の乱れ”は二口峠

 今回は前回のつづきになる。
 官軍が三手にわかれて、出羽進攻を企てていることが、出羽の国にも聞こえて、清原武衡兄弟もいろいろと対策を工面しました。なにせ、官軍の大軍を国中に引き入れては、ゆゆしい大事である。三(笹谷峠・清水峠・銀山口)に伏勢を出して、嶮難な地形のところで進攻をくいとめて戦ったならば、敵は遠方からやってくる疲れ武者たちである。そこへ味方の新手が加わって斬り立てたら、勝利を得ること疑いがない。まず”根を絶って柴を枯らせだ”とばかりに、清水峠(ニ口特)のこちら側の、八房(はちぼう)河原でくいとめようと、すなわちこの難所に待ち受け、一騎討に討ち取ろうと企て、軍勢五、六百人の勝れた若者たちを選んで、八房河原に伏せて置きました。
 一方、義家朝臣は、大軍を率いて、清水特の麓まで進み給う際、出羽から奥州へ飛んでゆく雁が、出羽の方の峠の麓とおぼしきあたりで、さんざんに列を乱しました。このありさまを軍師の光任がとくと見て、”帰雁が列を乱した時は、伏兵有りと、大公の軍書にもあります。これは怪しい事です”と申し上げ、”大方これは伏兵がいるに決まっています。それならば、この方から、勝れた若者を百人ほどえらぴ出して、隠密裡に敵方の伏兵の様子を偵察させましょう”と評定して、百人の勇士を下山させました。すると案のごとく、ずっと遠くに火の光が見えました。その近くに来るとやはり、伏兵たちが集まっていました。そして”官兵どもが今日来るか、明日来るかと待っているに、そのけはいもない”と、皆退屈して酒肴をもうけて飲み暮らしていたが、その夜も酒盛をして、酔い伏した兵たちが数多くいました。
 官軍の百人は、このありさまを見て、「スハヤ能キ幸イ」と、そろそろと近づき、百人もの兵たちが、一度にどっと鬨(とき)の声を上げました。敵は「それ夜討ぞ!」と、さわぎわめいたが、飲みすごしたよろめき武者たちで、足も立たず、座わったままで大刀を握り回したり、あるいは投げ鑓(やり)で突こうとしました。官兵は”得たり”とばかりに斬り込んで戦い、討ち取る者は百四、五十人に及びま
した。そしてその外はほうほうのていで逃げ失せました。官兵は、いよいよ大々勝利を得て、本陣へ引き上げましたが、義家も”さても光任の明察に狂いなかったことよ。それにしても合戦の事始めとして、たいへんさい先がよい”といって喜ばれました。そして「さらば、時刻移さず、峠を越せよ」と、総軍一度に、出羽の国へと打ち越えられました。

〔解説〕 帰雁の列の乱れを見て、伏兵あるを知った八幡太郎義家の話は有名である。しかしそれは、秋田県仙北郡の金沢城の近くでの出来ごとと説かれてきた。平安未に成るかといわれる「奥州後三年記』にも、 
(口語訳)義家は、秋九月に、数万騎の軍勢を率いて、金沢の館に赴(おもむ)くこうとして、出発の日に、伴わないで国府にとどまることになりました。 大三大夫光仕は、八十歳の老齢だったので、伴わないで国府にとどまることになりました。光任涙をぬぐいながら「年が寄るということは、情ないことでございます。生きていながら、今日わが君が進撃なさいますさまを見ることができないなんて」と言いました。傍で聞いていた人たちは、哀れがって涙を流しました。
 義家将軍ら軍勢は、すでに金沢の柵近くに到着しました。それは雲霞が野山を隠すようなありさまでした。その時、一つらの雁が上空を過ぎてゆきました。ところがその雁の列が、たちまち乱れて四方に飛び散りました。将軍はこのさまを望見して怪しみ驚いて、兵たちに命じて野辺を探索させました。すると案の定、草むらの中に敵兵三十余騎を見つけ出しました。これは敢が隠しておいた伏兵でした。将軍の兵たちは、一人残らず、それを射ち殺すことができました。
 とあって、金沢柵に接近してからの事件として記されている。しかしよく見ると、この記述には、簾念が残る。まず金沢柵は敢の本拠地であるから、その近くにいる敵は、伏兵などでなくて防衛兵であろう。予測しなかった場所に障れていてこそ、伏兵であるはずである。当然いるであろう所にいた敵を問題にしている点が第一おかしい。それから官軍の軍勢が「雲霞のごとく」いるのに、たった「三十余騎」の伏兵に動顛するのも変である。敵の本城に近づき、勢いづいた大軍にとって、三十余常は蹴散らして進み得るごみみたいなものである。『奥州後三年記』は、古い書であるといっても、その内容には、幾多の虚偽があるように思えてならない。
 そこへゆくと、高瀬の義家伝説には、真実味が感じられる。まず京からの大軍が、奥州へ入ったとしている点がよい。長途の疲れを癒し、体勢を立て直す場所として、奥州の国府(多賀城)あたりが適当であったろうし、そこから三手に分かれて、出羽国に侵攻したとする点もよい。そして帰雁の乱れによる伏兵事件が、戦役の初期の段階におこったとしている点もよい。
 当時の山形県は、公領で清原氏の領分ではなかった。しかし清原領のすぐ南に位置した公領であった。清原兄弟としても、官軍の大軍を国中に引き入れないためには、ここで食いとめる必要があった。そこで伏勢を三峠付近に派遣したとするのが、高瀬の伝説であるが、史実に合った言い伝えのように思われる。なお八房河原は、高沢(もと高野(こうや))から清水峠(二口峠)へ至るほぼ中間点にあつて、八房岩(はちぼういわ)ともいう由、高瀬の斎藤留三郎氏(下東山)や大沼義一氏(高沢)から聞いた。

  「後三年役」後日談

 高瀬の玉ケ入(たまがいり)という地名のいわれを説く老婆の話は、なおもつづく。

 さてこの夜襲の際、義家公の家臣で岡村太郎重房という侍が、真先に攻め入ったが、伏兵の突き出した投げ鑓に、左の膝口を突き通されました。命に別状はなかったが、大疵ゆえに足が立ちませんでした。やっと東山の入口まで連れて来ましたが、義家公はふびんに思って、村長を招いて”この手負いを汝の家に連れていって、平癒するまでかくまってくれ”と言って、金子五拾両を与えました。外に重房にも五拾両を与えて”これで疵の養生をし、直ったらわが本陣へ戻りなさい”と言いました。重房も村長も義家公の思し召しをありがたくお受けして、重房を村長の家に連れて帰りました。
 ところで養家朝臣は、三方にわかれた軍と連携を取りながら、北方へと軍を進め、金沢の城に攻め入りました。そして三年がかりの戦いで朝敵がことごとく亡び、羽州一円の動乱を平定しました。これを「後三年の戦」と申します。頼義公の前九年と、義家公の後三年を合わせて、十二年の戦役で、奥羽がことごとく相治まり、万民の喜ぶこと限りがありませんでした。

〔解説〕 ここまでが、後三年の役に関する説話である。以下は重房のその後と相長とのかかわりあいに話が移るが、筋を追って要点だけを述べることにする。

 重房は、村長の家で養生をし、疵は間もなく直ったが、しかし歩行はできなかった。それである時、村長に”このような体では戦場への復帰は叶わないし、いつまでもそなたの厄介になっているわけにもいかない。ついては一つ頼みがあるが聞いてはもらえまいか”と言って、子供の一人を養子にくれるよう頼む。村長も哀れがって、家族とも相談をして、次男夫婦を重房の養子にした。そして屋敷を山際の一段高い処に造った。
 村長は、斉藤嘉右ヱ門といって、先祖は武家の出であった。そして嘉右ヱ門の倅だから、息子に嘉太郎という名をつけていた。それが重房の養子になったので、そこの家名も加太郎と呼ぶことになった。その後、数年経って養父の重房が空しくなり、加太郎夫靖は追善供養をねんごろにしながら、家業の農業に励んでいた。
 しかし屋敷が高台で、水の便は悪かった。屋敷の隅の涌水を頼って家を建てたのだが、しかし日照りの夏はそれも涸れて一滴の水もなくなり、一丁も離れた大川(高瀬川)の水を使わなければならなかった。そんなところへ、夜中に光り物が飛んで来て、加太郎の屋敷にドウと落ちた。驚いた加太郎が翌る朝さがしてみると、水のない井戸の中に落ちて、三尺ほどの穴をあけていた。取り上げてみると、丸い形の鏡のような面をした、照り輝く珍しい玉だったので、持ってきて仏壇にあげておいた。ところがその玉を取り出した穴から、清水がとうとうと湧き出て、豊かな水はいくら汲んでも減ることがなかった。こうして水の便がよくなったので、だんだんと人家が増えて、今のような繁盛を見るようになったのである。
 これというのも、古井戸に玉が入って、水を得たためだとして、里の名を玉ケ入と呼ぶようになつた。そしてその井戸というのは、いま村岡氏の屋敷にある井戸であろう。その事と言い、この事と言い、(文字不明なため、ここの一句の意味が明瞭でない)として、耳に入るのは、村岡家は、当地の根元であって、村岡太郎重房の末孫でもあることになるだろうと、老婆が語ってくれた。その物語りを聞いて、その書き手である私もいたく感心したことである。

〔解説〕 結びの文句が「…老婆之物語り、此書者も甚感心せり」とあるところから見ても、この説話は、書者の創作ではなく、聞き書きと見られる。そしてその書者は、海谷空針であろうかと堆定される。他本になく、高島本にのみあって、空針の述作と見られる説話群中にこれもまじっているからである。
 なお村岡家は、玉ケ入から同じ下東山地内の一本杉に移り、その屋敷跡は空地(斎藤俊一氏所有)になっている。そしてその屋敷の東北隅には泉が今でも豊富に湧き出ている。
 とまれ、これまで中央の記録にのみ頼ってきた義家伝説は、地元の言い伝えによって、大きく見直す必要があるのではなかろうか。高瀬には、休石の八幡神社にちなんで、もう一つの義家伝説が伝えられているが、これもおもしろい。義家が、貞任・宗任と戦い、作戦功なく一時退却してきて、休石に百余日帯在して作戦を立て直した。その時、現在の八幡社境内に経塚と称する所があった。
そこで義家が、八幡大菩薩を本専として祭事を行ない、戦勝を祈願し、再び奥州征伐に出発した。そして勝利を得たので、その地に村民が八幡神社を建立したとする伝承(山形市高瀬の伝承「見たり聞いたり」による)であるが、これも一顧の要があろう.こちらは前九年の役の時の言い伝えになるわけだが、後三年の役とは逆に、戦場は奥州(宮城県がわ)にあったことになる。その時も義家が、清水峠を越して逃げて来て、またそこを越して攻めて行ったとすると、義家と清水峠(二口峠、ただし故老たちは清水峠は二口特の少し西寄りにあるとして区別していう)とは、たいへん縁が深かったことになるであろう。私はこれを半分以上、史実に近い伝承と考えるものであるが、読者の皆さんはいかが判断なさるであろうか。(両戦役と関係があるかどうか不明だが、八房の手前四、五キロの地点にある口憑(くちかけ)のあたりを掘ると、古い刀や馬の蹄<蹄鉄か>が出ると言い伝えている由、斉藤留三郎氏から開いた)。