与謝野寛の手紙

 だいぶ前から、与謝野寛の手紙が、私宅の居間を飾っている。二十年ほど前に、古書店から入手してものを、表装したものである。雄勁で不羇な書体が気にいって、いつでも眺められるよう、居間に掲げることにしたものである。
 こういう資料を、未発表のまま所持していると、本当に独占できたような気がして気持のよいものである。しかし研究者にとって、意味のある資料かもしれないと思うと、気が咎めないわけではない。一度は公表しておく義務があるのではないかと思い、筆をとることにした。

啓上
新年の寿詞、延引ながら申
上候。旧臘ハ計らず御一所ニ
三樹君の御墓と令夫人の御
墓とを拝し、うれしき思
出に御坐候。
さて、先日御話しの、前田
家の「土佐日記」が印刷され
しことハ正確に候や。その本
があれバ、特に前田家へ
参らずともよろしき事に
相成候ゆゑ、猶今一度御
教示奉願上候。
その中、御枉駕奉希上候。
              艸々。
   一月七日
              寛
   沼田頼輔先生
       御侍史

 (句読点など、原文のまま)

 が、その全文で、巻紙に毛筆で書いてある。封筒は「明星」の編輯所(麹町区富士見町)と、「明星」発行所(神田区駿河台)の印刷してあるものを用い、右わきに「与謝野寛」と署名がしてある。スタンプの日付は、15・1・7とあり、大正十五年一月七日受付を意味するものと見られる。
 沼田頼輔は、紋章学を起こし、著書『日本紋章学』 でそれを大成し、文学博士の学位を授けられた人。紋章の調査のため、元大名の前田家にも出入りしていたものと思われる。そして前田家本「土佐日記」は、著名な定家自筆本のことである。
 当時、寛は『日本古典全集』の筆頭編輯者でもあった。したがって、土佐日記に関する問いあわせも、その方面の必要からのものであったろうか。それともみずから土佐日記研究に着手しょうとするためのものであったろうか、判然としない。
 それから、文中に見える「三樹君」という人物についても、今のところ何もわからない。

(「形成山形」昭63・12)