茂吉の未発表書簡

 斎藤茂吉の書が好きで、一つ事に入れたいものだと思いつつ、なかなか手が出なくてきたのであったが、十年ほど前にやっと手紙を一通求めることができた。青山脳病院の用箋一枚に墨書したもので、平福百穂画伯の未亡人ます子夫人に宛てたものである。消印の日付は昭和十一年六月六日になっている。
 これが全集にない、未発表の手紙だとわかったのも、ずいぶん以前のことになるが、つい公表を怠って今日に至った。蒐集家は、人のものは見たがるくせに、それが自分の手に入ると、あまり公表を急がなくなるようだが、私も多分にそういった気持に支配されていたようである。書斎に掲げて一人で楽しみつつ、十年余りも経過してしまった。
 さてその手紙の文面は、次の通りである。

 拝啓 先般は態々御光来たまはり失礼仕候、○秋田の御甥様のことにつき、岩波の主人、堤様両方に御話仕り候。さて只今はやはり欠員無之、なかなか多く、志望者ある由にて、若し欠員出来
候はゞ、その節は第一に採用のことにてもいたすべしとの御話に御座候、右の趣を秋田の方に御話しおき願あげ候、〇二回、岩波にまゐり申候が、御返しおくれ相すみ不申候、御嬢さん方皆々様によろしく御伝言願候  頓首

斎藤茂吉

  平福奥様

 青山の自宅から出したもので、封書の表書は、「市外 吉祥寺宇野田北七八四 平福ます子様」 となっている。
 昭和八年十月三十日、百穂が、秋田の湯沢で急逝され、その直前に茂吉もかけつけて、一週間つききりの看病をしたいきさつは、茂吉日記にくわしい。百穂は、アララギの大幹部の一人で、著名な日本画家。茂吉が先生扱いをし、常に礼をつくすことを忘れなかった人である。その夫人から甥ごの就職を頼まれ、岩波書店に二度も出向いたことが記されているわけである。何日に夫人が頼みに来、何日と何日にそのことで岩波に出向いたかまでは日記にも記されていないようである。
 ところで、この日付の十一年六月六日は、松山市の永井ふさ子宛に、「○手紙は二人ぎりで、絶待に他人の目に触れしめてはなりませぬ。そこで、御よみずみならば、必ず灰燼にして下さい。さうして下さればつぎつぎと、心のありたけを申しあげます。(以下略。全集、三十六巻、書簡番号八四六九)」という、有名な手紙を出した日でもあるのは、おもしろい。
 百穂の長男の一郎さんや二人のお嬢さんについては、日記にも記され面識があったことがわかるが、秋田の甥までは、茂吉は知らなかったであろう。しかし頼まれると、その就職に骨折ったことは、茂吉の百穂を重んじたことの並々でなかったあかしのように思われる。

(「山形新聞」昭56・12・15)