細井平洲と高所恐怖症 唐松観音

 今は亡き歌友、森谷善郎氏から、唐松観音のご本尊について話を聞いたことがあった。三十年近く前に、荒れ果てた旧御堂を探訪した時であった。
 ここの本尊は掌に隠れるほどの小さな金造仏だが、磨滅して表情も輪郭もはっきりしなくなっているそうだ。そうなったのは、まだ懸崖造りのお堂のできる前の話だが、心掛けのよくない人間がいて、崖を上っていって、ご本尊を盗み出したんだそうだ。小さな堂が崖の中腹にあって、その奥の窟に収められていた金造仏を、泥棒は盗み出して、しめしめとばかりに懐に入れて、馬見ヶ崎川の丸木橋を渡りはじめたんだそうだ。そして川の中央部にさしかかったころ、急に鉄砲水が寄せて来て、橋もろとも泥棒が流されてしまったんだそうだ。泥棒は溺れ、仏像は川に流されて行方がわからなくなってしまった。そして何年も何年も過ぎてから、近所の農夫が河原で光るものを見つけ、掘ってみたら、唐松観音のご本尊だったんだそうだ。だが長い間、川砂に揉まれたために、磨滅してしまって、表情もよくわからないくらいになっていたそうだ。そしてその事があって以来、霊験のあらたかな観音様として、つまり仏罰のてきめんな仏様として近隣の一層の信仰を集め、大きな御堂を建てられるようになったのだそうだ。
 というのが、森谷氏の聞かせてくれた内容であった。それ以来、私はここのご本尊には関心を持ってきた。一度実物を拝みたいものだと思ってきた。
 その願いが昨年かなえられた。最上三十三観音のご開帳年にあたった昭和六十二年に、ここのご本尊も晴れがましく新御堂へお出ましになって開帳された。聞きしにまさる小ささで、目鼻も衣服も輪郭はぽんやりしていた。しかしそのニヒルな表情は読み取ることができた。視線はやや左下方に流れ、動への構えのようなものを体中にみなぎらせていた。素朴な姿体のなかに、言い知れぬ気品さえただよわせていた。不思議な仏像だなと私は思った。輪郭がぽんやりしているのは、磨滅によるものでなく、もともとこのように造られたものではないのか、もしそうだとしたら、その仏師はただ者ではなかったろうとも思った。
 唐松観音の縁起は、横川啓太郎氏著『唐松観音とその周辺』によると、平安の昔、宝沢の里に炭焼藤太という人が住んでいたが、そこへ京の一条殿の豊丸姫という美女が清水観音のお告げによって嫁になるためにやってきた。その姫が守護仏として持参した弘法大師作一寸八分、金無垢の聖観音像を唐松山の岩窟に祀ったことに始まるという。そしてそれは承久元(一一一三)年のことであり、二人の間にはやがて金売吉次ほかの子どもが生まれたとするスケールの大きい説話である。
 やがてここに、懸崖造りの堂宇が建造されることになったわけだが、それは寛文元(一六六一)年のことで、山形城主松平忠弘によって京の清水寺を模して造られたものであった。そのためか、笹谷道を看視する山形城の出城の役目を果たしたとも言い伝えられている。このお堂は川風にさらされているために、荒れ方も早く、元文二 (一七三七)年には早くも再建された。
 そしてそれから三十四年後の明和八(一七七一年に細井平洲がここを訪れた際には、またしても堂宇は荒れていた。その荒れ様は平洲の紀行文「をしまのとまや」 に克明に記されている。昭和五十一年に、横川啓太郎氏、鈴木伝六氏等の努力で、第三次の復元がなされたが、ここに至るまでの唐松観音堂の歴史は荒廃のくり返しであったといってよいだろう。
 その荒れたお堂に入って、平洲は高所恐怖症をひきおこした過程を「やがて目もくるめきて胸つぶれ、脚わななき、身の毛に立ちにたり」と記したが、私も荒れていた堂内で高所恐怖症にかかったことがあった。そして平洲が書き記しているのと同じような恐怖感に襲われたことがあった。最初は、なんだこれしきの高さかと甘く考えていたのだが、板敷の隙間から下の流れなど見ているうちに、身がふるえ出してとまらなくなったのであった。だから平洲の文を誇張だとも文飾だなどとは思わない。それのみか高所恐怖症を記しとどめたたいへん珍しい文章だと思っている。
 どんな名所旧跡も伝説の旧さだけでは引き立たない。文人の筆にかかって、はじめて歴史も伝説も風景も生かされてくる。平洲は万松寺に寄って扁額の文字を残したが、そこで見聞したことを長文に綴ることはしなかった。それに較べて、唐松観音堂には名文を残した。これは何よりもありがたい置きみやげであったと言ってよいのではないだろうか。
(「山形新聞」昭63・10・24)

2006/02/04UP