邪馬台国と秦王国

後藤利雄著
昭和56年9月22日発行


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    一世紀の倭と奴国

一世紀に入って、「倭奴国」(倭の奴国)が第一線上に登場する。後漢書に、

   建武中元二年、倭ノ奴国、奉貢朝賀ス、使人自ラ大夫卜称ス。
   倭国ノ極南界ナリ。光武、賜フニ 印綬ヲ以テス。

と記される国である。この奴国は魏志倭人伝のはじめの方に出てくる奴国であろうことは、志賀島から発見された金印「漢委奴国王」(委=倭)によっても証明される。儺県(なのあがた)、那津(なのつ)などの名で日本の史書にも記される、現在の博多付近にあった国である。ところが後漢書の撰者は、魂志・倭人伝の二十一旁国の最後に、
  次有奴国、此女王境界所尽。
とある奴国と混同し、「倭国ノ極南界ナリ」と注記したのである。(注)
 この奴国は、漢に倣って国家体制を整えていたらしいことは、「使人自ラ大夫卜称ス」の文章から想像できる。それに地の利を得ていたので、経済力も大きかったろうことが想像できる。一世紀において第一番目に名のりをあげたのも尤もと思う。
 しかし漢王朝も倭地に通じていて、奴国王を倭国王とは認めなかった。倭(委の奴国という一部分を支配する王として認め、「漢委奴国王」の金印を授与したのも、これまた尤もなはなしであったと言えよう。
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 このことは一面、建武中元ニ年(西暦五七年)ごろ、倭地に連合大国家が誕生していなかったあかしにもなる。単独の国が漢王朝に通じて、金印をもらったりした事実が、その何よりのあかしであろう。大国家の傘下に入れば、そういう勝手なふるまいができなくなることは、いうまでもない。魂志に「今、使訳通ズル所三十国」とあるのは、その反証になるように見えるが、そうではない。それは上に間接的にの文字を補って読む必要のある文である。邪馬台国時代に入って直接(監察者無しに)漢土に使者を送ることができたのは、邪馬台国しかなかったと思われる。その事は魂志のどこにも、傘下の小国が、使者を送ったりした事実が記されていないことからも知られる。
 一世紀の後半、倭地には奴国のほかに、三つほどの国が勢力を伸長させつつあった。三世紀の呼び名で言えば、邪馬台、投馬、狗奴の諸国である。そして更に大連合国家への機運も着々と熟しつつあった。漢土や韓土の政情を見るにつけ、今や小国分離の時代ではないと思い知りつつあった。
(注) 三宅米吉氏説による。

     二世紀の倭と邪馬台国の誕生

 二世紀の初頭に、大連合国が誕生した。これが邪馬台国である。武力による統一であったか、平和的な話し合いによるものであったかはわからない。とにかく大連合国が生まれた。
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  安帝永初元年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見再 (後漢書)
この安帝の永初元年は、西暦一〇七年に当る。この百六十人という巨大な数の生口を携えての請見は、その大連合国の出現を、漢王朝に告げるためのものであった。
 「倭国帥升」のところは、引用書により、「倭面上国王帥升」「倭面土地王師升」「倭面土国王帥升」「倭両国」などに乱れていて、ヤマタイコク論者の物議をかもしているところであるが(注1)、引用文より原典の文を尊重して見てよいと思う。漢王朝から見て「倭国」と称し得る国がはじめて誕生し、「倭国王」と称し得べき人物が、はじめて出現したのである。その出現が唐突であるため、引用者はとまどい間違えて、いろいろに記しているのである。「倭国王帥升等」は「倭国王の帥(すゐまたはそち)升等(ら)」と読み、「升」は、邪馬台国の官名に出てくる「弥馬升」(注2)の升ではなかったかと思われる。つまり官名と固有名詞とを混同して記したものかも知れない。
 景初二年(二三九)(注3)に、卑弥呼が現に献じた生口は「男生口四人、女生口六人」 の計十人であった。また後に壱(台)与が王となるに当って献上した生口は 「男女生口三十人」であった。それらに較べ、百六十人という生口は、桁外れのばかでかい数である。よほどの大変革がなければそのような桁外れな献上がなされるはずがない。
 そして魂志や梁書をよく読めば、その大変革が何であったかを突きとめることができる。歴史家は、文章を部分的にしか見ないので「恐らく倭国王帥升も同じ倭国の奴国の王であったであろう」(榎一排氏『邪馬台国』43p)などと言っているが、とんでもない間違いである。(国王自身が漢地に赴いた如く見ているのもおかしい。)
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    其ノ国、本亦男子ヲ以テ王卜為シ、住(とど)マルコト七・八十年。
    倭国乱レ、相攻伐スルコト歴年、乃チ共ニ一女子ヲ立テテ王卜為ス。
    (魂志・倭人伝)
と、
   桓、霊ノ間、倭国大イニ乱レ、更々相攻伐シ、歴年主無シ。
    一女子有り、名ヲ卑弥呼ト曰フ。年長ジテ嫁セズ、鬼神ノ道ニ事へ、
    能ク妖ヲ以テ衆ヲ惑ハス。是ニ於テ、共ニ丈一丁テ王ト為ス。
(後漢書・倭伝)
と、
   漢ノ霊帝光和中、倭国乱レ、相攻伐スルコト歴年、
    乃チ共ニ一女子卑弥呼ヲ立テ王ト為ス。
(梁書・倭伝)
の三文がその問題を解く鍵となる。
 後漢書の文は、後漢第十一代の桓帝(一四七−一六七)と第十二代の霊帝(一六八−一八八)の問に、倭の大乱があったことを言い、梁書の文は、霊帝の光和年中(一七八−一八三)に大乱があったのち、卑弥呼を王に立てたことを述べる。梁書の記述が何を典拠とするか不明だが、後漢書よりなお具体的になっていて、然るべき資料にもとずく文と見られる。従って卑弥呼が連合の盟主になったのは、一八三年頃と考えてよいだろう。
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 右の後漢書と梁書の文だけ見ると、卑弥呼が初代の王の如き印象を受ける。だがその前に七、八十年、男王の時代があったことを語るのが魂志の文である。歴年主なき時を何年間と見るかが問題だが、一七八−一八三(光和年中)の五年間か、それ以下であることに間違いないだろう。仮にいま五年と見て、さらに男王時代の七、八十年を加えて、一八三年から差し引くと、紀元九八年−一〇八年という数字が得られる。これが新連合大国の誕した年代と想定される。
 筆者は先に、一〇七年の生口百六十人の献上は、新連合国の誕生を漢王朝に報告するためのものであったと言ったが、右に得られた数字は大体においてそれに一致するのである。従って一〇七年より少し前に、紀元一〇〇年から一〇六年頃の間に新連合国「邪馬台国」が誕生したものと見てよいことになろう。これを年譜であらわせば、
  紀元    事項
  一〇〇
               新連合国「邪馬台国」が生まれる。男王立つ。
  一〇六

 一〇七   漢王朝への使者の派遣。
 一六八   倭国この頃から乱れはじめる。
 一七八   歴年主なき戦乱時代に入る。
 一八三   戦乱が治まって卑弥呼が女王になる。
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と略記できるであろう。これでわかるように卑弥呼は決して初代の女王ではない。その前に何人かの男王が居り、卑弥呼は何代目かの王になるものと山られる。当時の人は長命であったことが倭人伝に記されているが、七、八十年問もー人の王が治世したということは考えられない。必ずや何人かの王が交替しているものと見てよいだろう。魂志も後漢書も梁書も、卑弥呼を、卑弥呼だけを書き過ぎている。ために卑弥呼がはじめの王の如き印象を与えられるが、仔細に検討すれば、途中の人物であることが判明するのである。

 (注1) 例えば井上光貞氏『日本国家の起源も「倭面土国」を採り、 「倭の面土国」とよむべきだと言っている。そのほかイト(伊都)と見たり、マツラ(末盧)と見たりする説もあるが、問題にならないと思う。
 (注2) 第四章の邪馬台国の官名についての考察を参看。
 (注3) 書紀所引の魂志及び梁書は三年とする。三年の誤りかも知れない。

    大乱と倭人国襲撃事件

  霊帝の光和年中(一七八−一八三)の大乱のきっかけになったのは、鮮卑の倭人国襲撃事件であったろうと考えることができる。歴史家も邪馬台国論者も、このあたりの事件については、全くと言ってよいほど無頓着だが、大事な事件と思われるので少しく詳細に述べてみたい。
 冬、鮮卑、遼西ニ寇ス。光和元年冬、又酒泉二寇ス。縁辺責ヲ被ラズトイフコトナシ。種衆日ニ多ク、丑畜射猟食ヲ給スルニ足ラズ。檀石根乃チ自ラ徇行シテ烏集ノ秦水ノ広従数百里ニシテ、
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 水停リテ流レズ、其ノ中二魚有ルヲ見テ、之ヲ得ルコト能ハズ。倭、網捕ニ善シト聞キテ、是ニ於テ東(方)倭人国ヲ撃チテ、千余家ヲ得ツ。徒シテ秦水ノ(水)上ニ置キ、魚ヲ捕へシム。以テ糧食ヲ助ク。光和中檀石槐死ス、時ニ年四十五。(後漢書・鮮卑列伝・第八十)が、その事件である。鮮卑が西に東に侵寇した姑果、種衆の数が殖え、食糧不足に陥った檀石槐が、それを補うのに秦水の魚を充てようとしたが、綱を打つ者がない。倭人が網打ちが上手だと問いて、東方の倭人国を撃って、千余家を獲得した。その倭人を秦水の水上に移して、魚を捕えさせ、糧食の助けとした、という文意である。(注)
 この東方の倭人国は、恐らくは朝鮮の南端にあったものだろうと、私は考える。水に馴れず網を打つすべも知らない鮮卑が、船で対馬や壱岐を襲ったとは考えられないからである。騎馬民族は船にも強いという人もいるが、海を知らず、魚を捕える術も知らない人種が船に強いはずがない。必ずや陛つづきにあった倭人国を襲ったものであり、陸つづきなればこそ襲うことができたのだと考えてよいと思う。
 ということは当時既に朝鮮南端に、小倭人国が存在したということでもある。「千余家」という数は、魂志・倭人伝の対馬国の「千余戸」不弥国の「千余戸」に匹敵する。全家が鮮卑に襲撃されたと見ても、小国家を形成するに足る家数であった。そしてこの時、この小国ほ壊滅したか、壊滅的打撃を受けたであろうが、それはともかくとして二世紀に既に朝鮮南端に倭人国が存在したらしいということは、三世紀以降の朝鮮を考える上に、極めて重要な事だと思う。
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 一方この事件は、統一後間もない倭国の威信をたいへん傷つける事件でもあった。隷下の一国がむざむざと異民族により、襲撃掠取されてしまったのに、施す術がない。漢を頼ろうにも、その漢が手を焼いている鮮卑である。いっそ皆殺しにあったというのであれば、あきらめもつこうが、捕虜として連れ去られたとあっては、問題が尾を引く。この事件を一体どうしてくれるのかと、中央政府への日頃の不満が高まってゆき、遂に動乱に発展したものと思う。
 そしてこの動乱の結果、男王による武力統治の時代が終って、新しく卑弥呼が女王になるのである。
(注) 魂志の鮮卑伝にも同趣の記事が「魂書日」の文中に賊っている。それにあっては「倭」「倭人国」が、「汗人」「汗国」になっている。それでも「汗人」や「汗国」は、他に聞かない名前で、全く採ることができない記述である。
 以上駈足で述べて来たことをまとめると、次のようになろう。
一、紀元前十一世紀ごろ、周王朝に鬯草を献じたのは、沖縄、種子島あたりの倭人と推測され、日本最初の文明の灯は、先ず南島にともったであろう。
一、紀元前にそれが南九州に移り、日本最初の国家が生れたのも九州の南部であったろう。そしてそれが後の狗奴国になったものと考えられる。
一、一世紀に、博多あたりを中心とする奴国が勢力を得て、国々の主導的地位にのぼったと見られるが、この頃はまだ連合国家は生れていなかった。
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一、二世紀のはじめ垣、規模の大きい連合国家「邪馬台国」が誕生したと見られる。
一、二世絶後半には、朝鮮(南端)に倭人国がすでにできていたであろう。
一、二世紀後半仲倭国の大乱は、朝那の倭人国を、鮮卑が製撃をしたことに端を発するものであったろう。
一、大乱が治まって卑弥呼が女王になるが、卑跡呼は邪馬台国の初代の王ではなく、建国後七、八十年を経て立った途中の王である。

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第二章 魏志の倭人伝と邪馬台国の比定

   魏志倭人伝

倭人ハ、帯方ノ東南、大海ノ中ニ在リ。山島ニ依リテ国邑ヲ為ス。旧(もと)百余国。漢ノ時朝見スル者有リ。今、使訳通ズル所三十田。郡ヨリ倭ニ至ルニハ、海岸ニ循ツテ水行シ、韓国ヲ歴テ、乍(あるい)ハ南シ乍(あるい)ハ東シ、其ノ北岸、狗邪韓国ニ到ル七千余里。始メテ一海ヲ度ル千余里。対馬国ニ至ル。
其ノ大官ハ卑狗卜日ヒ、副ハ卑奴母離卜日フ。居ル所絶島、方四百余里可(ばか)リ。土地山険、深林多ク、道路ハ禽鹿ノ径ノ如シ。千余戸有リ、良田無シ。海物ヲ食シテ自活シ、船に乗リテ南北に市糴ス。又南、一海ヲ渡ル千余里、名ヅケテ瀚海卜日フ。一大国二至ル。官ハ亦、卑狗卜日ヒ、副ハ卑奴母離卜日フ。方三百里可(ばか)り、竹本叢林多ク、三千許(ばか)リノ家有り。差々(やや)田地有リ、田ヲ耕セドモ猶食スルニ足ラズ。亦南北ニ市糴ス。又、一海ヲ渡ル千余里、末盧国二至ル、四千余戸有リ。山野ニ浜シテ居り。草木茂盛シテ、行クニ前人ヲ見ズ。好ク魚鰒ヲ捕へ、水深浅卜無ク、皆沈没シテ之ヲ取ル。
東南陸行五百里ニシテ、伊都国二至ル。官は尓支卜日ヒ、副ハ泄謨觚・柄渠觚卜日フ。千余戸有り。世々王有ルモ皆女王国ニ統属ス。郡使ノ往来ニ常ニ駐(とど)マル所ナリ。東南奴国二至ル百里。官ハ兄(ロは凹)馬觚卜日ヒ、副ハ卑奴母離ト日フ。二万余戸有リ。東行、不弥国二至ル百里。官ハ多模ト日ヒ、副ハ卑奴母離卜日フ。千余家有り。
南、投馬国二至ル、水行二十日。官ハ弥弥卜日ヒ、副ハ弥弥那利卜日フ。五万余戸可リ。南邪馬壱(台)国ニ至ル、女王ノ都スル所。水行十日、陸行一月。官ニ伊支馬有リ、次ハ弥馬升ト日ヒ、次ハ弥馬獲支卜日ヒ、次ハ奴佳革是(革+是)(て)ト日フ。七万余戸可リ。

カナ→かな(原本にはなし)

倭人は帯方の東南大海の中にあり、山島に依りて国邑をなす。旧百余国。漢の時朝見する者あり、今、使訳通ずる所三十国。
郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国をへて、あるいは、南しあるいは東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里。
始めて一海を渡ること千余里、対馬国に至る。
その大官は卑狗と日い、副は卑奴母離と日う。居る所絶島、方四百余里ばかり。土地は険しく深林多く、道路は禽鹿のみちの如し。千余戸有り。良田無く、海物を食して自活し、船に乗りて南北に市糴す。又南に一海を渡ること千余里、名づけて瀚海と日う。一大国に至る。官は亦卑狗と日い、副を卑奴母離と日う。方三百里ばかり。竹木そう林多く、三千ばかりの家有り。やや田地有り、田を耕せどなお食足らず、亦南北に市糴す。又一海を渡ること千余里、末盧国に至る。四千余戸有り。山海にそいて居る。草木茂盛して行くに前人を見ず。好んで魚鰒を捕え、水、深浅と無く、皆沈没して之を取る。 
東南陸行五百里にして、伊都国に至る。官を尓支と日い、副を泄謨觚・柄渠觚と日う。千余戸有り。世々王有るも皆女王国に統属す。郡使の往来に常に駐(とど)まる所なり。東南奴国に至る百里。官は兄(ロは凹)馬觚と日い、副は卑奴母離と日う。二万余戸有り。東行、不弥国に至る百里。官は多模と日い、副は卑奴母離と日う。千余家有り。
南、投馬国に至る、水行二十日。官は弥弥と日い、副は弥弥那利と日う。五万余戸可リ。南邪馬壱(台)国に至る、女王の都する所。水行十日、陸行一月。官に伊支馬有り、次は弥馬升と日い、次は弥馬獲支と日い、次は奴佳革是(革+是)(て)と日う。七万余戸可り。

 巻頭部分を掲出したが、邪馬台国関係の諸問題は此処に集約されている感がある。そのうち主要なものについては、後に取り出して考察することとし、今はその他の二、三の問題について注釈的説明を施しておきたいと思う。
○倭人ハ……在リ
 前漢書の燕地の条に、
 楽浪海中有倭人、分為二百余国。以二歳時来献見云。
とあり、魏略逸文の顔師古注の前漢書に、
 倭在帯方東南大海中、依山島為国。
とある。「倭国」と書き出せば、統一された一国の感があり、そう見るには抵抗があるので「倭人」
で書き出したものであろう。
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○対馬国
 対馬という文字が問題になる。これはツシマという音を現した文字ではないようである。「対」は、対(む)きあう二つの島(上島・下島)を指示し、「馬」は大を意味すると見られる。(韓国の学者、李夕潮氏の直話による。)属蜩(中国)、馬韓、馬川池(朝鮮)などの馬である。対馬島で「二大島」の意味になり、漢人もしくは韓人のあてた文字であろう。それを日本でもそのまま用い、ツシマと読んでいるが、慣例によるものである。

  つしまのねは したぐもあらなふ  かむのねに たなびくくもを    みつつしめのも
  対馬能禰波 之多具毛安長南敷 可牟能禰尓 多奈婢久君毛乎 見都追思怒波毛   (巻十四、三五一六)

は、万葉集の東歌であるが、やはり「対馬」の文字を用いている。日本語のツシマは「津島」で、航海の途中に寄港する島の意だとする説がある。そして日本語で、「馬」を大の意に用いた明確な例を探しにくい。「其ノ地ニ牛・馬・虎・豹・鵲無シ」と、魏志に記されているのであるから、それも尤もなことだと言えよう。そのような事もあるが、対馬は三世紀の頃もツシマと呼ばれていたことは、間違いのないことと見てよいと思う。

○瀚海と一大国
 「瀚海」になると、文字も読みも向うのものになる。倭人は、この海に名をつけなかったものであろう。よって倭の領海ながら、先方の名で記されることになったわけである。「名ヅケテ」の主語は、もちろん倭人ではない。それから「一大国」であるが、魏略逸文に「一支国」とあることから、大を支の誤字とされているが、必ずしもそうともいえない。ツシマを二大(島)の意で対馬(島)と書いた筆法からゆけば、イキを一大(島)と記すことはあり得ると見られる。一支も単にイキの音をうつすためならば「伊支」と記されたろう。伊都国、伊邪国など、イは伊の字を用いるのが通例だからである。従って後世の「壱岐」の壱にも、一つの意味が生き残っていると見るべきである。

○邪馬壱国
 邪馬台国の誤りと見る説を採る。その理由については、諸家が述べ尽しているので、くわしくは立ち入らない。「壱与」も「台与」が正しいのかも知れない。また、

  掖邪狗等壱拝率善中郎将印綬。

の「壱拝」も「台拝」かも知れない。(壱拝では意味が採りにくいが、台閣にて拝する意で台拝と言ったかも知れないことは考えられなくない。)

    榎教授の伊都中心の放射線説批判

榎教授は、伊都国以前の諸国については、
  方位・距離・地名
の順に記すのに対して、伊都国から後の国々は、
  方位・地名・距離

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の順に記されている事に注意し、それまでの直線状に見る説を否定して、伊都国中心の放射線説を唱えられたことは有名である。私もはじめにこの説に接した時は、日を見張る思いがし、必ずやそうでなければなるまいと思ったものである。しかしその後いろいろ考えてみると、榎説にはかなりの無理があって従い難いと思うようになった。その無理と思われる点をこれから列挙して検討してみよう。
一、東を先に、南を次に記す方針と矛盾する点があること。
 魏志倭人伝の撰者が、東を先に、南を次に記す方針で筆を進めていることは、
         ヽヽ
  倭人在帯方東南大海之中
  ヽヽ
  東南陸行五百里、到伊都国
  ヽヽ
  東南至奴国百里

などの例から知られる。これをひっくり返して南東と記すことはない。この精神からいけば、条件が同じ場合は、
  東
  東南
  南
の順に筆を進めるはずである。
 しかるに
 東南陸行五百里、到伊都国……東南至事奴国百里…東行至不弥国百里

の奴国と不弥国の部分は、向じ百里ずつで条件が同じなのに、東南を先に、東をあとに記したことになる。榎氏は、

上図の如き関係を想定するわけだが、それなら両国の順序は逆に記していなければならないはずである。奴国の方が大国で戸数も多いが、国の大小は今の場合、関係がないものと見られる。
二、奴国と不弥国との距離が近過ぎてくること。
 奴国は戸数「二万余戸」を有する大国である。榎氏の言われる如くであるとすると、奴国の北々東七十余里のところに不弥国があり、西北百里の所に伊都国があることになる。如何にもせま苦しい感じで、「二万余戸」の大国を想定するには不都合を来たす。
三、奴国の比定地が狂ってくること。
 奴が後の儺県(なのあがた)、那津(なのつ)で、今の博多付近であろうということは、論者の等しく比定するところで、榎氏もそれについて異存はないと言っている。しかるにその北方に不弥国があることになれば、その比定に不都合を来たすことはいうまでもない。のみならず奴は海岸線から後退せざるを得なくなり、那津(なのつ)(津は港の意)の地名が何から出たかわからなくなる。榎氏はこのようなくいちがいを、著者の知識の不正確さに帰そうとしているが、榎氏の論の方に矛盾があるのではないかと考えられる。
四、伊都からの水行は考えられないこと。
 榎氏は「南至投馬国水行二十日…南至邪馬壱(台)国……水行十日陸行一月」も、伊都を基点として考えているが、末盧で船を降りて陸行に移った人が、どうして伊都から船で投馬国へ行ったり、邪馬台国へ行ったりできるのか理解できない。若しも末盧まで戻って、船に乗るのであったら、何日間かの陸行が必要で(注)、投馬国のように水行だけ二十日ということはあり得ない。

P31
 (注) 一日五十里の計算で逆戻りすれば十日の陸行が必要になる。

    末盧基点説の提唱

 右のような矛盾や欠陥があっては、伊都中心の放射線説は採ることができないと思う。それよりもむしろ旧説によって、

上図の如く、直線状に考える方がよいと思う。不弥は宇美に比定される国であるが、放射線説ではその比定が全く難しくなるのに対し、直線説では大体の正当性を得てくる。また伊都からは奴が近く不弥が遠くなるので、記述方針との矛盾も解消することになるのである。
 では
  方位・距離・地名(伊都以前)
  方位・地名・距離(伊都以後)
の違いは、何によって起ったのかと言えば、前者は経験をふまえての文であり、後者は伝聞に基ずく文であることによるものと思う。便者などになって伊都までは来たが、奴や不弥には足をふみ入れなかった人が、伝え聞いた知識を、方位・地名・距離の順に記したものと思われるのである。
 次にそれでは、不弥以下も 

   水行二十日    水行十日
              陸行一月
不弥 −−−− 投馬 −−−− 邪馬台

の如く、直線状に見てよいかどうかということだが、これはそうはゆかない。水行には船が必要だが、その船は不弥にはなく、末盧に繋留してあると見られるからである。船に乗るためには末盧まで戻らなければならない。
 ここにおいて、基点になっているのは、伊都ではなく末盧ではないかという考えが生起してくるはずである。そして
      ヽ ヽ
 ○東南陸行五百里、到伊都国
              ヽ ヽ                       ヽ ヽ
 ○南至一投馬国水行二十日、…南至邪馬台国……水行十日、陸行一月

の「陸行」と「水行」が、対照的な形で記されたものではないかと知られてくるのである。つまり末盧から陸行すればかくかくであり、水行すればかくかくであると、両文の間には段落のちがいがあるものと見られる。現行の魏志の文は紙を節約するためか、すべて一つづきに書かれているが、原本の段階ではきっとここに段落があったものと思う。
P33
 末盧が基点になっているであろうことは、航行の実際に別して考えても、言えることと思う。仮に伊都国や不弥国の北岸(博多湾かその東西付近?)に、船を曳航してもらい、それに乗る場合について考えても、かなりの長距離を西進するか東進するかしなければ南進はできない。それは「南……水行」と省筆できるていの距離とは思えないのである。
 港からストレートに南進できるところは、末盧以外になく、水行の基点が末盧であることは、先ず間違いないと思う。魏志における末盧国の記述が簡単なため、この国は軽視されやすいが、よく読めば重要な拠点になっていることが知られる。
 次に投馬国と邪馬台国の関係だが、二通りの場合が考えられる。投馬国の先さらに水行十日、陸行一月を要する場合と、末盧から水行十日、陸行一月を要する場合とである。これも両者の間に段落の違いがなかった場合は前者、違いがあった場合は後者の可能性が強くなる。現伝の魏志は一つづきに書かれているため、文章の上からは何れとも決し難いと言わなければならない。
 しかし幸いなことに他の事から、その区別が可能になる。すなわち帯方郡から邪馬台国への総距離が記されており、それによって区別がわかってくる。

  自郡至女王国万二千余里 (魏志)
  其大倭王居邪馬台国。楽浪郡徼去其国万二千里、去其西北界拘邪韓国七千余里 (後漢書)
                                 ヽヽヽ
は同じことを言った文と見られ(帯方郡の建置は遅れたので、後漢書では楽浪郡徼としている)、狗邪(拘邪)韓国まで七千余里とする点も両書同じである。それで狗邪韓国から邪馬台国までの距離は、一万二千里から七千里を引いた残りの五千里ということになる。が、狗邪韓国から末盧国まで、すでに三千余里あることが記されているから、末盧から邪馬台までは、残りの二千余里になる勘定になる。
 その二千余里の内訳はどうなるか。私見を述べる前に、榎教授の見解を見ておこう。氏は伊都を放射線の基点と見るので、末盧から伊都までの五百里を除いた千五百里を問題とする。そして唐六典巻三戸部の条に
  凡陸行之程、馬日七十里、歩及驢五十里、車三十里……
とあるのを参考にして一日行程を五十里と見て、歩行一月の行程を千五百里と計算する。そして「水行十日陸行一月というのは、水行すれば十日、陸行すれば一月の意に解するのが正しいであろう」
(『邪馬台国』49p)と考えられるのであるが、これは間違いであると思う。
 氏が歩行の一日行程を五十里と見たのはよいと思う。しかし水行をその三分の一と見た根拠は何か。唐六典にも「水行之程、舟之重者、泝河日三十里、江四十里、余水四十五里、空舟泝河四十里、江五十里、余水六十里、沿流之舟、則軽重同制、河日一百五十里、江百里、余水七十里」とあることは、氏の掲げる如くであるのに、どうして歩行の三分の一という数字がでてくるのか。河をまっすぐ船でくだる場合は日に「一百五十里」で、たしかに三分の一になる。しかしそれには伊都国から南の方に、まっすぐ舟行できる千五百里以上の川が流れていなければならないだろう。
 ところが実際はどうかというと、糸島郡の南は、背振山系にさえぎられていて、そういうあつらえむきの川は流れていない。東進し更に南進して筑後川に達すれば舟行もできたろうが、それにはかなりの歩行の日程を見込まなければならない。三分の一と計算できる根拠はどこにもないのである。
 そこで倭人伝の撰者の、頭の中にあった歩行一日、舟行一日の距離が問題になるが、私は共に五十里であったろうと推定する (いわゆる短里説が成立しがたいことは、後に述べる)。五十里は唐六典では、空舟で江を遡る際の距離だが、しかし倭地まで来る船は最も重い船と考えなければならない。その辺の里数を目安にしたであろうと思われる。それに撰者が距離を考える場合は、百、五首、千というような概数でとらえている。細かく言えば四十五里、五十五里であっても、概数の五十里にしてしまったであろうと見て、間違いないと思う。
 とすると、水行十日は五百里、陸行一月は千五百里になる。合せて二千里、末盧から邪馬台国までの距離と一致する。郡から邪馬台国までの距離「万二千余里」は、そのような計算において出された数値であつたろうことを知ることができるのである。
 従って倭人伝の原本にあっては、投馬国の書き出しのところに段落の切れ目があったろうことがわかり、邪馬台国の書き出し部分にも段落の切れ目があったろうことがわかった。末盧から陸行する際の国々を、一つづきに書き、戻って水行する際の国を二通りにわけて書いたものであることが知られたものと思う。と同時に港の国の末盧が基点になっていることが極めて明瞭になったものと思う。図示すれば次の如くである。 投馬国は、水行二十日であるから、末盧から千里はなれた南の方にあると、考えられていたものであろう。
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     邪馬台国の比定

 ここまで判明すれば、投馬国や邪馬台国をどの辺に想定するか、大体の見当をつけることができよう。倭人伝の撰者は、水行の場合は、末盧からの南進のことしか言っていない。その事は今まで述べたことから判明したはずである。
 末盧からの南行ということは、九州の西海岸を南に航行することである。それ以外について、例えば関門海峡を通って瀬戸内や周防灘に抜けるような航行については全く触れていないと見てよい。末盧(松浦)が基点であることが分れば、そこまで判るはずである。
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 従ってヤマタイ国畿内論は、この時点において断念すべきものと思う。新井白石その他の学者は不弥国の先に投馬国があり、投馬国の先に邪馬台国があるという、全部を直線的に見る見方をしたために、畿内大和を想定する誤りへと導かれた。魏の船は、末盧の港にあることを忘れていたからである。魏の使者が伊都まで行こうが、或いは不弥まで行こうが、船は一里も東へ進んではいない。港につながれたままになっていて、動き出すのは投馬国へ行く際と、邪馬台国へ行く際の南進の時である。それを恰も、歩行する人間のあとを追っかけて船が不弥国までいっているものの如く誤解して、畿内論は生れた。たいへんな誤解であったと言わなければならない。
 これまで何人もの学者が指摘しているように、方角については、魏志・倭人伝の記述に、かなりの誤差を認めるべきである。しかし東と南を全く取り違える程の誤差はないといってよい。九州の西海岸を南に航行するのと、北の海岸を東へ航行するのとでは、たいへんな違いである。そんな大きな違いを混同して書くようなことは絶対になかったと断言してよいと思う。
 かくてわれわれは、末盧(松浦)の港から、船で西海岸を南下し、二十日航行した先に投馬国を想定し、同じく十日航行して、その先一ケ月の歩行を経た先に邪馬台国を想定してよいことになった。共に九州の中にあることはいうまでもない。しかも九州の北部地方は除いて考えてよく、中央部よりは南に想定してよいことになった。かなり範囲が狭められたというべきである。
 そして考えられることは、投馬国は多分西海岸沿いにあった国であったろうということである。舟行だけで陸行を必要としない国だからである。もっとも船は川を遡ることもできるから、その行政府が必ずしも海岸沿いにある必要はないだろう。ともかくも大きな船で行きつける西海岸地方に投馬国はあったと見てよいように思われる。本居宣長以来、投馬を日向の都万(つま)に比定する人も少なくないが、大隅半島を大きく廻って、日向の都万まで二十日で行くのは無理であろう。又そうすれば必ず敵地である狗奴国の沿海を通らなければならないわけだが、そのあたりでは沿海の航行が妨げられることがあったろうことも考慮に入れなければならない。
 そんな事から投馬国は、西海岸沿いの九州の中央部よりほ南に寄ったあたりにあったろうと、私は考えている。そして先ず、投馬は拘馬または救馬などの誤写でクマ国(球磨国)こそ、魂志に言う投馬ではないかと考えてみた。熊本県球磨郡には、球磨川の上流に球磨村があるが、このあたりが、国の中心地としてくさいのではないか。野呂邦暢氏が調査してくれたところによると、球磨村あたりまでは、大型船が遡上できたろうということである。とすると松浦から歩行なしに到達することができる。二十日の舟行という点から見て、かなりの可能性があるのではないか。しかしそれには誤字説が前提に立つ。魏志だけでなく梁書なども投馬と記しているのに、簡単に誤写だと決めるわけにはゆかない。
 そこで考え直したのが薩摩国薩摩郡説である。これまでも投馬を殺馬または設馬のあやまりとする薩摩説(吉田博士など)はあったが、私見はそれと違う。薩摩はツマの「好字二字」令による宛字ではなかったかという考えである。和銅年間の好字二字令によって(注1)、ツの国は摂津と書き、セッツの音が生れ、キの国は紀伊と書き、キイの音が生れた。それに類した宛字から生れた新しい呼び名ではなかったかという考え方である。倭名抄によると、鹿児島郡に「都万郷」があったことが知られるが、それは投馬国の版図が、薩摩郡を越えて、鹿児島郡(の一部)に及んでいたあかしとも見られよう。その他の確たる傍証を見出すに至っていないが、一つの考え方として提示し、批正を待つ次第である。
 さていよいよ邪馬台国を比定する段階に至ったが、私はそれを日向の国すなわち宮崎県と想定する(注2)。それには二つの大きな理由がある。
 先ず末盧港を西海岸沿いに南下した船が、十日の航行ののち繋留される。それは西海岸の何処かの港であることに間違いない。そこから歩行に移るわけだが、その方向は東と考えられる。南へ行ったり北へ行ったりすることは考えられない。仮に南へ行くのであったら、船をもっと先へ進めてから上陸すればよいからである。で、西海岸から東方へ、どんどん一ケ月も歩けば、到り着く先は日向の国しかあるまい。はなはだ素朴単純な考え方だが、それだけに強力な理由となり得るものと考えられる。
 次に日本古代史に伝わる伝承が、日向を天皇家発生の地とすることも見逃せない。疑えばきりがないが、それを素直に受取れば、やはり日向の国ということになる。発生の地については余り異伝らしきものはないのであるから、日向が第一候補地になるのが当然である。われわれはまだ邪馬台国の王家と天皇家とのつながりを吟味していないが、記紀の伝承は、日向に強力な王権が生まれかつ存在した理由に転換して見得るものであると思う。
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 邪馬台国は伊都国より南にあった。その事は「女王国ヨリ以北ニハ、特ニ一大率ヲ置キ、諸国ヲ検察ス。諸国之ヲ畏憚ス。常ニ伊都国ニ治ス」とある文によっても強調されている。しかしだからと言って直南にこだわる要もないと思う。日向の国ならば、南といっても当っていると思われるからである。
 では西海岸から、どういうコースを取って日向の国に入ったのか。以下はすべて野呂邦暢氏に負うものだが、仮に宇土あたりに上陸したものとして、いったん熊本平野を北上し、阿蘇外輪山の西側にある鞍部から、火口原の平野を横断し(この鞍部は野呂氏も通ったことがあるという)、東南の高森で外輪山を越え、五ヶ瀬川上流を下れば、高千穂に到達する。このコースが可能性が濃いように思われる。もう一つのコースは、球磨川を遡行し、人吉あたりから陸行して(昔は今より川が深かったろうから人吉まで舟行可能だったと推定する)、水上あたりで九州山地をこえ、児湯郡へ出て、米良川、一ツ瀬川ぞいに下るものだが、可能性はほとんどないように思う。太古からこの両コースがあったにしても、「王、使ヲ遣ハシテ京都、帯方郡、諸韓国ニ詣リ、及ビ郡ノ倭国ニ使スルヤ、皆津二臨ミテ捜露シ、文書、賜贈ノ物ヲ伝送シテ女王二詣」(魏志)るのには、やはり近道を選んだろうと思われる。そして近道は阿蘇外輪山越えの方であったろうと想像されるのである(注3)。
 そして日向の国の何処に都があったかが、次に問題になるが、私はそこまでは考え得ていない。これからゆっくり考えてみたい問題である。婢千人を侍せしめた「宮室・楼観・城柵ヲ厳カニ設ケ」てあった都の地は日向の何処なのか。興味ある問題だが、大変な難問でもあると思う。それに卑弥呼は何代目かの王であることは前述の通りであるが、代々の王が一つの王城にいたという証拠もない。大和において天皇が代るたびに都が代ったように、王の交替毎に都の位置が変っていたとしたら、都の探索は尚更困難な問題になるであろう。
(注1)続日本紀の和銅六年五月二日の条にある「畿内七道諸国郡郷名著好字」をさすが、国名についてはこれより前から、好字二字が要求されていたろうと言われている。
(注2)和銅六年四月三日に、日向国の四郡を割いて、大隅国が建置されたが、ここでも大隅国は除外して考える。大隅国なら、遠回りしても舟行に頼るのが便利だったろうと考えられるからである。
(注3)机上の想像で、もちろん実地踏査をしたわけではない。