第4回学校法人ノースアジア大学理事長杯サッカーリーグ戦


2013/05/06

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連休最終日、どうにも血が騒ぎ、秋田まで長距離ドライブをしてしまった 高速から降りて大学の場所探しに途方にくれるかなと思ったが、秋田市街が展望に入ると、その一番手前左にドーンとキャンパスが出現
ノースアジアとなれば日本で何番目かの大きい地域を指し示す大学の名前ではないか? ヨウタのこの両手はなんだ?「ボール行け!」なのか「ボールよこせ!」なのか
到着時10時40分、天候は花曇り、米兵が追いかける ヨシタカキャプテンの2年ちょっとの集大成写真、日立商選手のユニフォームを全体重をかけてヒッパルマン なんだ!なんだ!オトウトがAチームでやっている アネはウトウト・・・!?
持ち込まれてシュートされるがセーフ この段階ではグランドちょっと湿り気ありいいコンディション 日立はJ1のどのチームになったのかあまりに昔のことなので思い出せず 柏になったことをGKコーチから聞く
日立には山口選手と言う局長よりちょっと上の全日本代表がいた 日立の話になったので日立市の話 安達峰一郎の出身地、山辺町と日立市が姉妹都市なのを知っている人はいますか? なぜか真実なのです。それはなぜかと言えば最上義光と水戸黄門が関係してくるのです
水戸黄門が里帰りした時「黄門さま、あまり方々へ行っていろんな藩に迷惑かけちゃいけませんよ」 高松英郎、丹波哲郎などのそうそうたる役者さんが演じている水戸徳川家、家老、山野辺兵庫 最上義光は四男の義忠を山野辺城主として一万九千石を預け、西の守りを固めた
それが最上家改易の時まで続いたのだが、義忠自身も改易の原因となっているため池田忠雄に身柄を預けられて備前に流された
その後、義忠は徳川家光の命により家光の叔父・徳川頼房にその身柄を預けられるが、後に罪を許され、水戸徳川家において一万石の所領を与えられ そのせがれ山野辺義賢は山野辺兵庫を名乗り、徳川光圀つまり水戸黄門の家老となり、丹波哲郎を仮の姿として歴史に再登場するのである
時が流れること240年、元治元年(1864)水戸の藩主はあの小泉コウタロウ演じる最後の将軍慶喜の兄、慶篤である その時の家老は助川城主である山野辺義芸。おりしも尊皇攘夷の嵐が水戸藩を台風の目として吹きまくっていた
山野辺義観(義芸の父)と共に徳川斉昭の後ろ盾であり安政の大地震で圧死した水戸学派の儒者、藤田東湖のせがれ藤田小四郎が長州の桂小五郎らからの援助と多くの尊攘派から持ち上げれ天狗党大将に就任
しかし、新撰組の土方歳三ように軍の引き締めをちゃんとやらなかったのだろう。来るものは拒まずで集まった兵士の中に今でいうスキンヘッド軍団、ザンギリ隊という一隊も入り込んでいた。天狗党の悲劇はザンギリにより開始される なんと栃木町で町民とのいざこざを起こし、町民を斬り町に火を掛けてしまったのだ。この暴挙により天狗党の株は暴落し、無法者の印象を世間に与えてしまったのである 天狗党の栃木町焼き討ちの報を受けた幕府は、天狗党追討の令を発布。水戸藩では、尊壌派と対立する門閥諸生派の市川三左衛門を執政に登用、市川は水戸藩邸の尊壌派を退け
六月十四日、諸生派の兵三百を従えて出陣し、幕府軍と合わせ五千、七月七日下妻に布陣。これに対する天狗勢八百、数を頼みに酒盛りをしていた幕府軍に奇襲をかけて勝利 水戸城に逃げ帰った市川三左衛門は、城内の尊壌派の一掃を図り、天狗党に好意を寄せる藩士を投獄し、一種のク−デタ−を強行して、藩主とは別に城内の実権を掴んだ 江戸にいた水戸藩主慶篤は、藩内の乱れを鎮める為、宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に向かわせた。頼徳は中立の立場なはずなのに道中、天狗党員らが加わわっていきその数は三千を越した 頼徳一行が水戸近くにさしかかるころ市川三左衛門よりの使者「一人で参られよ」頼徳「それはないじゃろう」押し問答の結果、両軍は城下の備前堀の近くで対峙
そうしているうちに水戸城中の故斉昭夫人、芳春院から山野辺義芸に事態収拾の仲立ちの依頼の書状 義芸、八月二十三日、水戸へ向けて出発。しかし、そうはさせじと青柳で待ち構えていた諸生軍が発砲してきた。と同時に「諸生軍が助川城を攻めようとしている」との伝令からの報
反転して助川城に駆けつけようとしている途中またしても諸生軍の反撃。偶然その辺にいた天狗党、大津彦之丞の部隊が義芸勢に加勢 そもそも中立であるべきはずの松平頼徳、山野辺義芸双方共に心情攘夷派である。天狗党とのはからずもの共闘を諸生派が義芸追い落としの材料にしないわけがない
市川三左衛門は、幕府軍総督田沼意尊に告げ口。助川城は天狗党とみなされ幕府軍に包囲されてしまう 時の流れは義芸を明治元(1868)年三月に復権させ、藩内の諸生派を一掃させることになる。明治十九(1886)年十二月没、享年55 まあ、なにがなんだかわからない話であるけど、あの明治維新にも最上義光の子孫は水戸徳川家の重臣として、深くかかわっており そして 山東OB、安達峰一郎の江戸時代初期の親戚も何家族かが最上義忠に付き従っており、そのご子孫たちは、現在も最上家のご子孫と同じくご活躍中とのこと
イギータのピントの合った写真が少ないのを考察してみた・・・ 日立と同じような真紅のユニフォームだが、相手は男鹿工業高校に代わっている
男鹿と言えば八郎潟の西にあたる市
ニッチモとサッチモの大型一年生コンビがCDF・・・ニッチモはうそで正しくはタイチ
男鹿市は秋田市からはちょっと北になるが秋田市のベッドタウンと言ってもいいくらいの距離 ひそかに得点王を狙うレスラーとリンタロウ ジェットサチクは秋田の殿様と親戚? レスラーここから丸い体を右に反転させ
空振り・・・絶対得点と見えたが失敗 めげずに狙い続ける コーナーキックにちっちゃい選手しかいない。「長身CDFになんで狙わせないんだ!!」お叱りの声がとぶ
レスラースタイル
全校駅伝大会でなにか挨拶していた米兵 チョマキック
サッチモドリブル 万歳攻撃
チョマ競り合い 秋田の桜、現在満開? 男鹿のコーナーキックを守るチク 変な顔になったレスラー@
久保田藩の殿様が疾風開始 ってことはヤマちゃんの次の体育委員長? 一年生、まだ名前と顔一致せずまちがったらゴメン・・・のタイチ? 特にサッチモ、タイチ、コウタロウ、サブロウあたりがなんかみんな似たくさい顔
足をおネエっぽくしてみました イギータ逃げのドリブル エディット・ピアフ・・・1915年12月19日 - 1963年10月11日)、フランスのシャンソン歌手 なんかかっこ良く写っているチクテツ
競り合いの時のフィジカルと俊足?が売り物 ピアフ・・・ピラフ・・・ヒラク 気取った米兵 疾風中のサチク
リン転機・・・一昔前はテスト問題などを作成していた機械・・・まだ使っているのでしょうか ハーフボレーのシマヌキ こうやってボールとの距離を測定してシュートのキックの蹴り方を決める イギータが曲がるとマギータでマギー審司になる
「低音の魅力〜〜、あ〜ぁ、やんなっちゃった〜〜」の牧伸二さんご愁傷様です 子供のころからファンでした チェイスするシマandジュンヤ そろそろ自宅付近が植木であふれかえるドイちゃん。左端タロウ
サチクandユウダイ ドリブルジュンヤ もちまえのキープ力を秋田人に披露 いつも顔面ヒット瞬間狙っているが、こんなのばっか
コーナーキックを直接ゴールインさせたサブちゃん ケーシが攻めた 寄せるケーシ なかなかビシッと決まれない
寒ぶサブキック
イギータ、パスを通してしこを踏む ここらから雲いきが怪しくなりだす 二人して突進を止めろ!
舞台は明桜Cとの対戦に けっこうポツポツきています オオノキック ユウダイのパス
明桜高校はノースアジア大学の付属高校のようです ユウダイがジュンヤへパス サブリンコンビ。マロンが加わるとサブマリンも実現可能 タロウがジュンヤ網に追いこむ
危険地帯でかわされようとしているのは ヒデアキ足でのセービング 追うドイちゃん 左選手の顔面に当てたのか
レスラーがシュートを決めた場面だったか・・・なんだかんだ言っても着実に実績を積んでいる
チョマの後ろ寝ながら主審のコックリク おぅ!止めたヒデアキ 変な顔レスラーA
ほらなんとなくボケる このころになるとかなりの雨が降っています やられた場面だったか? 目つむりドリブル
PKを与え方向違い方面へ飛ぶオオノ ヨウタ、もみ上げ長くなったな 4試合連続ってのもけっこうハード クリロンの腰で勝負
ジミケンがPKを撃つ 雨の中みごとゴールイン
グランドはびじょびじょ状態 これ以上いたらシューズでグランドの上へ行けなくなる・・・のでここらでノースアジア大学とおさらば