龍  山



龍山の古い地図あったので紹介します
瀧山の略図  石沢甲一原図  昭和47年10月8日作

国民宿舎【西蔵王山荘】からしばらく行くと牧場の左手にペンション(喫茶店)【三百坊】(そば黄門漫遊記にでてくるのとは別物)があり、つきあたりに西行歌碑、牧場の入り口になります。そこが駐車場になっています。
西行歌碑からまっすぐ登るのが《前滝コース》
牧場の中に舗装道路を入っていってしばらく歩くと
《うがい場》の案内板がありそこから《姥神コース》《大滝コース》で登れます。
なんといっても登っておもしろく景色も楽しめるのは《前滝コース》です。
その他にも蔵王温泉、ドッコ沼、馬見ヶ崎川上流の不動沢の車止めからの登山道もあります。

そばを食べたついでに龍山登山でもいかがですか




西行と「たきの山」の話

又のとしの三月に出羽の国に超えて、たきの山と申(す)山寺に侍(り)けるに、櫻の常よりも薄紅の色濃き花にて、並み立てりけるを、寺の人々も見興じければ

たぐひなき思ひいではの桜かなうすくれなゐの花のにほひは

以上の西行が残した文書と歌によって、山形の歴史学者や民俗学者の先生方は『たきの山』は「西蔵王だ」 「いや長谷堂だ」と長年にわたって論争をしていました。
長谷堂説を唱えていた先生が亡くなってからは「長谷堂だ」という人は静かになっているそうです。

 「たきの山」がどこかはともかく平安時代から鎌倉時代にかけて西蔵王には慈覚大師が開いた龍山寺を中心に三百を越す数の坊が存在していて1251年北条時頼により破却されるまで栄えていたのだそうです。

今まで北条時頼が三百房を破却したという資料は見たことがないのですが、下記資料など参考になります。山形にも時頼は来たのかなあ。ちなみに慈覚大師は天台です。三百房が破却されたならやはり天台の山寺はなぜされなかったのだろうか?

佐々木馨氏は、東国の多くの寺院が、時頼の廻国によって臨済宗や真言宗に改宗したとして、廻国を史実そのものであると述べておられる(参照:佐々木馨「執権時頼と廻国伝説」)。
鎌倉幕府が宗教政策として、鎌倉の鶴岡八幡宮を中心とし、臨済禅と真言密教の布教に取り組み、従来の公家中心の政治体制の反映であり、僧兵を抱え強い勢力を持つ天台宗を目の敵にしていたことは、よく知られていることである。
天台宗の影響下にある日蓮の「立正安国論」を北条時頼が無視し弾圧を加えたことも、当然これと無関係ではないだろう。
廻国伝説についての佐々木氏の見解を強引にまとめると、時頼は没後にも多くの追慕と愛惜の情を集めていたため、生前は秘密であった東国を中心とした宗教政策としての廻国が公然のものとなり、それが南北朝時代に入ると美化され、多くの人々の心の中に再生したのだろう、というものである。

2001/03/25

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