深沢不動尊・
鬼越

写真 2004/12/19
文字 2006/01/21

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  この何年かで3回くらい深沢不動に行こうとして一本南の道路に入って行っては「おかしいな」と思いながら引き返すことを繰り返してきました。一回は芋煮会の時ババチャリで挑戦。下り坂で猛スピードを出し濡れ枯葉のためスリップ、頭からの一回転でかなりの打撲をしたものだった。
 この誤認識は多分中学のころからのような気がする。その時は道路の行き止りまで自転車で行き少し歩くと石塔やら石仏があり、それが不動様だと思っていたのだ。だけどこのごろはそれすら発見できず、むやみに藪コキをしていました。そこもまたちがう場所だったのかも・・・
 このたびみごとに正解の道を進みお不動様までたどり着けました。来たことがあるようなないような感じで、ひょっとしたらはじめての訪問なのかも・・・と思いました。
 12月ということもあり他に訪れる人はなし。石仏たちは密やかに佇んでいたのでありました

車止めから少し歩くと拝殿が見えてきた 来たことがあるのかないのか確証ないのだけど遠足があったはずだと人は言う
南北朝のころ山伏修験者の道場として開かれた 青銅の不動明王が門番で睨みをきかしている
如来様もおいでになる
一明院の別当として不動明王が祀られ、眼病治癒、縁結び、学業成就の神様
10分くらい登ると確信部の奥の院が見えてくる
明治の神仏分離令により一明院が別当を放棄、以来金勝寺の所管
などとある本にあるが「一明院」が何なのか現在不明
石仏達の手前の石塔
八大童子 
昭和七年の建立 
石造のものは大変珍しいそうである
清浄比丘は石駒四代目松田駒蔵の若き日の作
しかし、どれがそれやら・・・
他に島村克明と秋葉富蔵の三人の作になる
不動明王の右(向かって左)に制多迦童子、左に矜羯羅童子を配置するのが普通である。 矜羯羅童子は童顔で、合掌して一心に不動明王を見上げる姿に表わされるものが多く、
制多迦童子は対照的に、金剛杵(こんごうしょ)と金剛棒(いずれも武器)を手にしていたずら小僧のように表現されたものが多い。 黄門様とつねづね話題になる700mピークへの山道ないか少し登って探したが不明

金勝寺の南側から深沢への参道の峠部分に

鬼越の切通し
鬼越の切通しは、昭和十三年に表宿・川原宿・浦宿の三宿で工を起し完成した道で、 それまでは急で難儀な鬼越坂を超えて深沢に行ったものである。山頂には石鳥居や不動尊の石仏などもある。(案内板そのまま)
工事により高原側や山家側はだいぶ道路が広くされ 自動車でも楽に通れるようになった
高原町から山家町へ行く近道のようなものであった 現在は山形自動車道を潜る道路で結ばれているが交通量は少ない
この鬼越の地の名前のでき方は鬼が片方の道から片方の道へと 飛び移ったという伝説があったので鬼越となったのである
と解説を見つけたがこの切通しは一つの山だったのでは? そうするとその語源はあやしいのでは・・・

ほとに