多賀城海軍工廠は1942年(昭和17年)海軍の銃器・火薬類の生産増大のため、現在の宮城県多賀城市に建設された。
当時約8000人弱の農村だった多賀城村に5000人近くの要員が移住してきた。同工廠は、村の面積の四分の一を占め、日本最大級の規模であった。
その土地の軍による取得は売買証明書に金額も記載されておらず、かなり強引なものであった。労働力もタコ部屋労働により、わずか2年程の間に広大な工廠が建設された
艦上戦闘機「零戦」の機銃と弾薬の製造を開始したのは1943年である。
1945年8月まで旧制中学生らが学徒動員され、1日約1万3000人に上る若者らが働いていた。
1945年には、空襲を逃れるために松島町に地下工廠「多賀城海軍工廠松島地区」の建設が始まる。しかし、その存在は地元の一部の人を除きほとんど知られていない。建設と平行して工作機械の搬入も行われ、稼動し始めたがその期間は2〜3ヶ月であったと考えられる。
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