致道館

2005/10/28

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酒井家は戊辰戦争の引き金だったのだ

 慶応3年、西郷隆盛の命を受けた相楽総三らは幕府軍を挑発するため、江戸市中で暴行や略奪を繰り返した
 まんまと西郷の策にはまった庄内藩は、上山藩とともに江戸の薩摩藩邸焼き討ち事件を起こし、新政府軍による徳川家武力討伐の口実を作っってしまうことになる。
 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟の中心勢力の一つとなり明治新政府に抗し、新政府側の新庄藩、秋田藩領内へ侵攻。清川口では攻め入る新政府軍を撃退。その後新庄を落とし、秋田へ攻め入ったり連戦連勝、新政府軍を圧倒。
 明治元年9月26日(1868年11月10日)東北諸藩が続々と新政府に降伏していくのを見て、庄内藩もほぼ無敗のまま恭順したのであった

 

東村山郡役所 2004/10/31

ちょうど去年の同じ頃同じような写真を撮っていたのであった


酒井家と織田家(庄内藩と天童藩)の因縁

明治元年(1868年)

 1月 7日

 

新政府が鳥羽・伏見の戦いに勝利
徳川慶喜の征討令を発し、同時に諸藩に対して率兵上京を命じた
天童藩にも命令がきて従うことになる
時の藩主織田信学は病気のため、嫡男信敏が上京

 3月19日

織田信学が隠居し、信敏が第3代藩主となる

 3月23日

 

 

仙台に入った新政府の奥羽鎮撫総督九条道隆が「織田信長以来の名家の故」をもって天童藩に奥羽鎮撫総督軍先導役を命じる
信敏は、大坂から九条総督に随行してきた天童藩中老吉田大八に自分の代理役を命ず
大八は和平工作を活発に行ったが、奥羽鎮撫総督軍と庄内藩の板ばさみのためうまくいかず

閏4月 4日

庄内藩が天童に攻め込み、城下はことごとく焼かれる

閏4月 8日

吉田大八の主導で長瀞藩(現東根市)を襲撃する

閏4月20日

奥羽鎮撫総督府参謀世良修蔵が仙台藩士に暗殺され、それにより奥羽の形勢は一気に佐幕に傾く

 5月 3日

奥羽越列藩同盟が成立。わずか2万石の天童藩も従わざるを得なくなる

 6月17日

吉田大八は庄内藩との戦などの責任を一身に引き受けて切腹