雪の長谷堂城

2006/02/11

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風雲畑谷城

慶長五年(1600)九月十五日、直江兼続が本陣を敷いた菅沢山は右の丘
その左の大森山にも布陣

長谷堂城山から同方面
900人の上杉軍が北から迫ってくる

西の大手口と北の八幡崎口に押し寄せる
最上軍は城の外に出て田んぼでの死闘が繰り広げられる

義光は弟の楯岡甲斐守光直と三男清水大藏大夫義親に兵八百で須川方面から上杉の背後を襲わせる

どっこいそうはいかぬと川中島で揉まれている上杉の軍監、水原親憲、夜襲を察知し須川を渡渉中の最上軍を待ち伏せ銃弾を雨のように浴びせかける。最上勢被害大

しかし、城内はふんばり、これから約二週間押したり引いたりの長谷堂攻防戦が繰り返される。業を煮やした兼続は二十九日総攻撃を命ずる
写真は八幡崎口

攻める上杉軍
上島泰綱・前田利太・中津川秀国・倉賀野元綱・青柳長忠・篠井泰信ら

迎え撃つ最上勢
志村高治直属の長谷堂衆、小国大膳の小国衆(最上町)、坂紀伊守の成沢衆、

佐々木綱知の鮭延(真室川町)、後藤将監の山野辺衆、草刈志摩守の天童衆、旗本組や杉下党

激しい戦闘で上杉武将、上島主水泰綱が討死

この時大局観の優れた兼続は戦い続け城を落とすか転戦するか迷っていたという

戦いもクライマックスにさしかかったその日の夕刻、会津からの書状が兼続に届けられる。上杉景勝からであった

「むむっ・・・三成敗北なり・・とな」
兼続と石田三成はなぜか気が合い仲がよかったのである

徳川家康を挑発し上杉の会津に攻めさせて、その間に三成が中央において天下奪取をする密約を交わしていたのだ

三成を倒したら今度こそ家康は上杉に向かってくるだろう。南の国境を急ぎ固めなければいけない

戦は継続しつつも兼続は十月一日撤退を開始
前田慶次郎利太のしんがりでの活躍であまりダメージを受けずに脱出成功

こうして長谷堂の合戦は幕を閉じたのであった

紙面が余ったので最上家余談、閑談、梯子談

水戸黄門と最上家について

水戸黄門が里帰りした時、苦言を呈する家老が登場する。高松英郎、丹波哲郎などのそうそうたる役者さんが演じている

山野辺兵庫、その人はなんと最上義光の実の孫なのだったのだ。山辺町民はその辺の話知っている方多いようだが一般的にはあまり知られていない

熱烈な黄門ファンであるおらいのそば黄門様も知らなかった。
義光は四男の義忠を山野辺城主として一万九千石を預け、西の守りを固めた

それが最上家改易の時まで続いたのだが、義忠自身も改易の原因となっているため池田忠雄に身柄を預けられて備前に流された

1633年、徳川家光の命により家光の叔父・徳川頼房にその身柄を預けられ、後に罪を許され、水戸徳川家において一万石の所領を与えられ、家老となった。そして、徳川光圀の教育係も努めている

そのせがれ山野辺義賢は山野辺兵庫を名乗り、徳川光圀つまり水戸黄門の家老となった。そして丹波哲郎を仮の姿として歴史に再登場するのである。

時が流れること240年、元治元年(1864)水戸の藩主はあの菅原文太の演じた徳川斉昭のせがれ慶篤である。水戸藩重鎮として山野辺家は数回に渡り、水戸徳川家と縁戚関係を結んだ。斉昭の側室も山野辺の女である。

その時の家老は助川城主である山野辺義芸。おりしも尊皇攘夷の嵐が水戸藩を台風の目として吹きまくっていた。井伊直弼の安政の大獄により蟄居させられた斉昭の恨みを晴らし、幕府を倒そうとする天狗党の誕生である。

 最上家改易の後、山野辺義忠とともに水戸徳川家に仕官した最上家家臣がいた。里見八犬伝で有名な里見家の傍流、里見四郎左衛門親宗である。主従共々雇ってもらったのである。山野辺ほどの重鎮ではなかったが槍奉行とか旗奉行の職を担っていた。元治元年の当主は里見親賢、親父の親長は71歳の隠居じいさんであった。これが歳も考えないで天狗党の挙兵に一族を率いて参軍するんだ。じいさんの時代の藩主、徳川斉昭はそれほどまでにカリスマ性をもっていた人物なのか。斉昭と一心同体で尊皇攘夷を唱えた山野辺義観への義理だったのか。とにかく山野辺、里見ともに維新派として幕末を迎える。

 山野辺義観と共に徳川斉昭の後ろ盾であり安政の大地震で圧死した水戸学派の儒者、藤田東湖のせがれ藤田小四郎が長州の桂小五郎らからの援助と多くの尊攘派から持ち上げれ天狗党大将に就任。その誕生は前途洋洋たるもののはずであった。しかし、新撰組の土方歳三ように軍の引き締めをちゃんとやらなかったのだろう。来るものは拒まずで集まった兵士の中に今でいうスキンヘッド軍団、ザンギリ隊という一隊も入り込んでいた。天狗党の悲劇はザンギリにより開始される。なんと栃木町で町民とのいざこざを起こし、町民を斬り町に火を掛けてしまったのだ。この暴挙により天狗党の株は暴落し、無法者の印象を世間に与えてしまったのである。 
 天狗党の栃木町焼き討ちの報を受けた幕府は、天狗党追討の令を発布。水戸藩では、尊壌派と対立する門閥諸生派の市川三左衛門を執政に登用、市川は水戸藩邸の尊壌派を退け、六月十四日、諸生派の兵三百を従えて出陣し、幕府軍と合わせ五千、七月七日下妻に布陣。これに対する天狗勢八百、数を頼みに酒盛りをしていた幕府軍に奇襲をかけて勝利。
 水戸城に逃げ帰った市川三左衛門は、城内の尊壌派の一掃を図り、天狗党に好意を寄せる藩士を投獄し、一種のク−デタ−を強行して、藩主とは別に城内の実権を掴んだ。勢いに乗った天狗勢は水戸に迫ったが、待ち構えた諸生派と戦って敗北。
 われらが最上の家臣の子孫、71歳の隠居じいさん里見親長は
 「わが里見一族、せがれは正式な天狗党員としてご奉公している。わしも隠居の身なれど、ご恩多き徳川
斉昭様、山野辺義観の意思を継ぎ尊皇攘夷のさきがけとならなくてはならない」
と決意しボランティア参戦、一戦におよんだが味方の敗北となり落ち延び栗崎村の民家に隠れていたが、諸生党の追手に探知され、切腹して果てたのである。・・と思われる
 江戸にいた水戸藩主慶篤は、藩内の乱れを鎮める為、宍戸藩主松平頼徳を名代として水戸に向かわせた。頼徳は中立の立場なはずなのに道中、天狗党員らが加わわっていきその数は三千を越した。頼徳一行が水戸近くにさしかかるころ市川三左衛門よりの使者「一人で参られよ」頼徳「それはないじゃろう」押し問答の結果、両軍は城下の備前堀の近くで対峙。諸生軍から突然の発砲があり、両軍の戦闘が開始された。天狗諸生の争いに巻き込まれる事になってしまった頼徳は那珂湊に布陣、戦闘は膠着。
 「こりゃだめじゃわしの力量じゃことを治められん。ご家老、義芸殿に話をしていただこう」
と、助川城主である山野辺義芸に事態沈静を依頼。
 「このような事態にわしが出て行っても解決するのは難しい。もうしばし様子を見るわけにはいかんかのう」
この殿様多少優柔不断なとこもあった。そうしているうちに水戸城中の故斉昭夫人、芳春院からの事態収拾の仲立ちの依頼の書状
 「かかる藩士同士の戦いを斉昭様はけっして望んではいなかった。この状態を解決できるのはそちしかおらぬ。なんとか双方の話を聞いて水戸藩のとるべき道を開いておくれ」
ここまで頼まれて腰をあげないのは男がすたる。八月二十三日、水戸へ向けて出発。しかし、そうはさせじと青柳で待ち構えていた諸生軍が発砲してきた。と同時に「諸生軍が助川城を攻めようとしている」との伝令からの報。反転して助川城に駆けつけようとしている途中またしても諸生軍の反撃。偶然その辺にいた天狗党、大津彦之丞の部隊が義芸勢に加勢。ようやくのことで助川へ帰城することが出来たのである。
 そもそも中立であるべきはずの松平頼徳、山野辺義芸双方共に心情攘夷派である。天狗党とのはからずもの共闘を諸生派が義芸追い落としの材料にしないわけがない。市川三左衛門は、幕府軍総督田沼意尊に告げ口。助川城は天狗党とみなされ幕府軍に包囲されてしまう。「これまでか」義芸は、九月六日、幕府軍に降伏。付き従う家臣二名 「補佐するわれらの責任、義芸様には何の罪も無し」として、その場で自刃したのである。山野辺家はここにおいて家名断絶となるのだが、時の流れは義芸を明治元(1868)年三月に復権させ、藩内の諸生派を一掃させることになる。明治十九(1886)年十二月没、享年55。 
 義芸の降伏とともに松平頼徳の軍も幕府軍に降伏。この時、前述じいさんのせがれ里見四郎左衛門親賢は天狗党の大将、榊原新左衛門のもとにあり頼徳とともに幕府軍に降伏。古河藩に預けられ、慶應元年四月に切腹となったのであった。享年51。
 このように我が山形をルーツとする最上家の明治維新があったのであった