長瀞城跡
2006/03/04
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寛政10年(1798年)7月6日、米津通政が長瀞に入ったことから立藩した。通政は武蔵国・下総国・上総国・常陸国にそれぞれ所領を持つ大名であったが、武蔵の所領を出羽村山郡に移されたことから、 |
長瀞藩が立藩することとなったのである。しかし1万石少々がやっとの小藩だった上、所領が5ヶ国にも散在していたため、城持大名にはなれず、長瀞に陣屋を置くだけであった。 |
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第2代藩主・政懿は日光山の祭祀奉行や大坂定番を歴任し、嘉永6年(1853年)12月に死去した。その後、家督は養嗣子の米津政易(酒井忠器の十男)が継いだが、嗣子が無く、 |
弟の米津政明(忠器の十一男)を養嗣子として迎えて万延元年(1860年)5月9日に隠居した。後を継いだ政明のとき、藩内で攘夷討幕を叫ぶ声が高まり始める。 |
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政明にはこれを抑える力が無く、慶応元年(1865年)12月11日に子の米津政敏に家督を譲って隠居してしまった。 |
吉田大八が天童焼き討ちの仕返しに薩長軍と長瀞を襲撃した時、政敏は江戸暮しで長瀞は政明ご隠居の生活の場であった。 |
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ご隠居は農民を兵として取り立てて農兵を組織し、軍事改革を進めるなど、手腕を見せていた |
天童襲撃の最高責任者庄内藩家老酒井兵部の兵は長瀞陣屋で一泊することになるのだが、当然目と鼻の先の天童藩の逆襲を予測 |
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ご隠居様はじめ長瀞藩兵ひっくるめて鶴岡へと疎開。たった一人残されたという門番の心細かったこといくばかりか |
人格者の大八は無人の陣屋に火をかける時も米や農作物に危害がおよばないように配慮したという |
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