慈恩寺
2006/04/23
クリックすると720ピクセルの写真
すぐそばの東光坊という蕎麦屋さんまで来て食ったことはあったのだけど、その時は黄門様が運転していて三重塔を見ずに戻ったので、なんと初めての慈恩寺訪問。名前は良く聞くけど行ったことのある人は少ないのでは。そこには羽黒山や山寺と肩を並べる仏閣があったのであります。日曜というのに訪問者は10人程度しか見かけず、もったいないことこのうえなしと思いましたが、かく言う変酋長も本日は拝観料払わず外の写真撮りだけ。 本堂の茅葺屋根の重厚さに圧倒され、三重塔の木組工法やファインダーに入りきらない大きさに感激してきました。神社仏閣ファンの方はなんとかたどり着いて見といたほうがいいですよ。 慈恩寺や 三重塔より 蕎麦でもち
抑々当山は神亀元年(534)僧行基が諸国巡錫の砌この地の景勝なるを見て都に帰り、聖武帝に奏上、天平18年(746)勅命によって婆羅門僧正が開基し、弥勒菩薩を本尊として、寒江山大慈恩律寺と号したと伝える。 平安時代寒河江荘が摂関家藤原氏の荘園として成立したのは延久元年(1069)以前とされるから慈恩寺は藤原氏の庇護をうけ、荘寺的性格の寺院であったと判断される。 天仁元年(1108)鳥羽帝の宣勅によって奥州藤原基衡が当寺を修営し、仁平年中(1151-1153)奈良興福寺の僧願西上人が再興諸堂造営を行った。京文化を伝える平安後期の仏像が14体を数えるのは当時の慈恩寺を物語るものである。 その後文治元年(1185)後白河院の院宣右大将頼朝の下文を帯して高野山から真言僧弘俊阿闍梨が来山し山号を瑞宝山と改めた。鎌倉以降領主大江氏の庇護をうけ、室町の末大江氏が滅亡すると最上氏がこれに代り、元和8年(1622)最上氏改易後は幕府より2812石余の御朱印を付せられ、勅願寺としてまた鎮護国家の祈祷寺として崇敬された。明治維新後御朱印が停止され、一山は衰亡した。慈恩寺の宗教は先ず法相が入り、天台真言修験の外時宗があり、最上華蔵、宝蔵の三か院48坊からなる一山寺院であった。終戦後一山は独立して慈恩宗となり本山慈恩寺として現在に至っている。 慈恩寺には国指定の重要文化財を初め、県市指定にかかる多くの文化財を有し、東北有数の巨刹としてまた霊場として人々に尊崇されている。