新徴屋敷・松ヶ岡開墾場

2006/04/29

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松ヶ岡開墾場の入り口にある近代的な建物のところに
「庄内の米作り用具」収蔵庫
と書いてある
新徴屋敷とは?
障子の剥がれているところから中を見たら4〜6畳の部屋が4つくらいある蝉しぐれの屋敷に較べれば大きい屋敷である
鶴岡に造られた新徴町と新徴屋敷

 明治二年九月二十九日庄内藩は、最上川南だけの大泉藩となった。翌三年春となり藩では現在の鶴岡市大宝寺と道形の間、羽越本線の南北に亘って、新徴組の家屋を建てた。一戸当り宅地一二〇坪畑地三〇坪の計一五〇坪の土地に長さ六間幅三間半、押入付六畳三重と板敷を加えた二十一坪 石屋根の平屋。これは三十一坪であった足軽屋敷よりも小さい。しかし藩財政としてこれ以上大きくはできないので、せめて門だけは士分の門としたと言う。
 この地域は旧藩の煙硝蔵(火薬庫)があった処で、一番丁から六番丁までに区分され、その中に役所と道場があり、棟数は一三六棟であった。
 当時の町割りの道路は現在も存続しており、千五百分の一任宅地図によって、当時の全域を確認することができる。その形は概ね矩形で東西約一八〇メートル、南北約三四〇メートルの六へクター余、明治の人々は家屋を新徴屋と呼び、敷地を含めて新徴屋敷、一三六棟の全域を新徴町と呼んでいた。
 この町の当時の略図が現存しており、それには各棟の世帯主名が記載されている。その中には二世帯同居が一棟ある。家屋は戊辰戟争戦死者の遺族にも割当てられ、同三年八月下旬には大体でき上り、九月より十月にかけて、湯田川からこの新徴町に移住した。

凌霜史(武山省三氏編)より引用

 松ヶ岡開墾地は、明治5年旧庄内藩士3000人が開いた広大な畑地のある一帯です。
 維新戦争後、明治新政府は諸藩の武士団を解散させようとしていましたので、大泉藩中老菅実秀は、廃藩置県・藩兵解隊に先んじて、大規模な養蚕製糸事業の創設と、開墾による桑園造成を企画し、士族集団を挙げてこれを実行することとし、松ヶ岡開墾が行われました。
 松ヶ岡では、明治7年までに311ヘクタールの桑園を造成、明治10年までに大蚕室10棟(明治8年4月に4棟、9年4棟、同年冬に2棟)を建設して養蚕事業を開始し、鶴岡に明治20年、製糸工場を、昭和10年に絹織物工場を建設しました。これらは、旧西田川郡役所や旧鶴岡警察署等の設計施工にあたった棟梁高橋兼吉の作で、上州島村の田島家の蚕室(上州島村式)を模したものといわれています。
「昭和天皇行幸記念碑」
昭和21年に行幸された
「貞明皇后行啓記念碑」の案内文
「貞明皇后行啓記念碑」
貞明皇后は大正天皇のお后様
昭和25年においでになられた
「蝉しぐれ資料館」
入ってみた 「撮影禁止?」
「この辺はいいですけど中はダメになっております」
でセットのミニュチュアなどを撮影
中はいろんな資料やら海坂藩の実態、撮影資料
映画好きな人にはいいかも
「庄内農具館」
「庄内農具館」A 「庄内農具館」B
これらの昔懐かしい建物はほとんどが明治初期に建てられて現在に至っているとのこと 「庄内農具館」の中盗撮
「松ヶ岡開墾記念館」
「松ヶ岡百二十年史」などはここで販売している
開墾場の入り口
「本陣案内」
「本陣」向かいの斜面から月山が顔を出す
萱の屋根 帰る際、「蝉しぐれ」セットへ立ち寄り、屋根と月山の撮影
今日はすぐに立ち去った