米沢市芳泉町の町並み


2009/04/19

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谷地河原堤防(直江石堤)のある親水公園にたどり着きました。 天地人とまったく関係の無い絵が飾られています。 近年整備された公園のようです。 目線を追ってみたら『かなちょろ』ではありませんか。「ちょと撮らせてください」とお願いして撮影
その後も戯れているようです。あっちの子は私を不審者のまなざしで見ているようです この川は「最上川(松川)」のようですが私は松川ってしか知りませんでした。 木々の向こうに江戸時代のものらしいものが見えてきました。 この時、兼続は米沢にすでにおり、景勝を迎えることになりました。
向こうが直江石堤です。 だそうです 台風の時はここまで水が着ますかね? りっぱな石碑もあります。
さぞ重かったでしょう。 米沢市民は兼続の名をみんな知っているとのことです。 吾妻連邦がきれいです。この松川はあそこから流れてきています。 すこし南下すると赤崩分校跡がありますので、「なにか天地人の影響あるかな」と行ってみました。
分校からちょっと行ったところに石碑群です。お墓かな? 当然ながら分校跡は何年か前より疲弊したようです。 右手が赤崩山のようなので兼続はこのあたりに陣をとって治山工事を指揮(見学)したのでしょうか? そして、芳泉町へ戻りました。ウコギの塀があります。
ポツポツと茅葺屋根の家が残されています。 北向いて撮影 手前の家の屋根もトタンながら武家屋敷風です。 りっぱなお宅です。屋根の下まで昔風に残している家は少ないです。
住民の方が作ったという「ウコギうんちく看板」を私は見た記憶がありません。 この案内板で安心してしまっていたのでしょう。 それで、その場所に車つっこめるようでしたので駐車して降りてみます。 何年か前に探して発見できなかった「米沢市立南原小学校芳泉分校跡」がここでありました。
さすが武家屋敷の地区であります。廃校にその記念館が建っているのは初めてです。 高価そうな石碑です。 石が白いと読みづらいですね。平成四年廃校のような自が彫ってあります。 明治維新の騒動がおさまっていない時からの学校のようで、きっと本校よりも歴史はあったのだと思われます。
芳泉町から愛宕山山麓にぶっつかってカタクリ園からすこし北上した場所にありました。 前の写真からさらにちょっと北上した場所です。