館林藩・高擶陣屋跡・漆山陣屋跡


2018/06/17

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高擶の中心部のここに何回か来ていて、そのたびに館林藩高擶陣屋跡の碑を探していましたが、どこにあるか不明でした。 天童市役所のMさんから聞いて、GoogleMapで確認して、その場所にようやくたどり着きました。 この碑には1845から明治維新までと書いてありますが、他の資料では1846〜1849となっています。 文豪・田山花袋は群馬県館林市の出身で、母「てつ」はここ高擶陣屋で生まれていることから、花袋はこの地を訪れたりしているそうです。
天童市の舞鶴山の周辺は戊辰戦争で、庄内藩から、焼け野原にされたので、茅葺だったとわかる家や、江戸時代からの建物などの痕跡は見当たりません。 しかし、その戦火を免れた高擶は、10数年前までは、茅葺屋根の家が見られたし、粋な黒塀の大きい屋敷が、多数残っていて、古いもの好きな人には、すばらしい町並みです。 あの門の内側が『あかつき公園』で、このようなスペースになっています。 高擶の道は、どれも城下町らしく、狭くて、入り組んでいます。したがって、車で、走り回りにくいし、チャリがお勧めです。
かなり年代ものの消防用具格納庫 そして、1849から秋元藩の高擶陣屋は漆山陣屋に、その役割を移していきます。写真は、秋元家の菩提寺の浄土院です。 館林藩内では.勤王と佐幕派に分れて内紛のため容易に参戦が定まらなかったが、慶応四年二月に勤王派につくことになったので、漆山陣屋に於てもその対策をしました。 そして、山形藩や、天童藩の味方として、戊辰戦争春の陣に出兵し、庄内藩と、蔵増あたりで、戦いました。この戦で大砲隊長梶塚勇之進及び郷軍2名が戦死したそうです。
そして、その戦いの後、奥羽越列藩同盟が成立するあたりで、本藩は倒幕派、漆山陣屋は佐幕派の中に取り残され、孤立状態のようなことになって しまいました。 庄内藩を筆頭に、米沢、山形、天童ら、まわりはすべて佐幕派ばかりで「本領の館林が倒幕なので、薩長にしたがいます」などと言おうものなら、あの強い庄内の酒井家から、徹底的にやっつけられてしまうムード そんな中、陣屋での倒幕派藩士、森谷留八郎は、館林の秋元の殿様に、やむをえず列藩同盟に従わざるを得ない旨を報告に行くことにしたのでありました。 森谷留八郎とは、反対の立場だったのが、館林藩の江戸留守居役であった勝沼精之允。会津藩士と交流があり、佐幕派だったので、高擶にて、謹慎させられてい ました。
勝沼は勝沼で、漆山陣屋のおかれた情勢(庄内藩が強い情勢)から、また会津と仲が良かったので、旧幕府軍のほうにくみすべきと、8月に脱走し、上山の民家に潜 みました。
30才、倒幕派森谷留八郎が館林へ出発したのが6月下旬、35才、佐幕派勝沼の脱走は8月中旬。現在にその名を残す二人に、なにか交流とか確執はあったの でありましょうか・・・
森谷「奥羽越列藩同盟のおかげで、わしらの藩は官軍というのに、庄内藩から『兵を出せ!米を出せ!』と、威張られて、大変だ大変だ。館林まで、ちょいと行って列藩同盟 に従わざるを得ない説明を申してまいる」 森谷は館林からの帰路の9月7日、二本松藩領土湯の山中(現福島市)で二本松と仙台の敗残兵により、殺害されてしまう。
森谷さんは、蔵増の戦争で戦死した梶塚勇之進と並んで、浄土院にお墓を作ってもらえましたが、勝沼さんのは、そこには作ってもらえなかったようです。 勝沼精之允については、高橋義夫さんが『吹きだまり陣屋』という小説を書いているそうです。小説の主人公になるような資料を残すくらいの侍だったのでしょう