口之宮湯殿山神社
戊辰戦争『入間森畑の戦い』


2018/11/24

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寒河江ダムの直下に『本道寺』という集落があります。そして、国道112号を走行していると、『湯殿山神社』があります。 『本道寺』というのは、単なる集落名と思っていましたが、この『湯殿山神社』が江戸時代まで『本道寺』という名前のお寺だったのです。 そして、いろいろ資料を読むと、150年前の1868年、ここも戊辰戦争の舞台となって、すばらしい寺の大伽藍が焼けてしまったのです。 寒河江川の手前が、本道寺で、あっち側が月岡集落です。
山形の戊辰戦争と言うと、庄内藩対天童藩、庄内藩対新庄藩などが、有名ですが、ここ、西川町でも、戦闘が繰り広げられました。 史跡の案内板が、ここ以外あまりないので、その戦闘は、現在、かなりマイナーです。 以下、西川での戊辰戦争が『入間森畑の戦い』というタイトルでWikiに載っているので、引用します。 「明治元年閏4月11日、酒井吉之丞率いる庄内軍が本道寺に布陣した」
「前夜、吉川村(西川町吉川)に宿泊した新政府軍はこの日のうちに沼山(西川町沼山)に進んで、休憩した後に、入間境、岩坂、松ノ木平で水沢の庄内軍と交戦した。」 「新政府軍から戦死者2名が出て、龍源寺に仮埋葬した。 」 「庄内軍は横岫に陣営して、新政府軍は寒河江川を隔てて、吉川村に布陣した。」 「閏4月11日入間村字森畑に進出して、辰の刻から砲撃戦を始めた。昼過ぎに、庄内軍は渡河して水沢村字宿下に進み攻勢に出た。」
「また、本道寺にいた庄内軍の一隊が、寒河江川を渡り、月岡から山越えして小山道を通って、森畑の新政府軍を背後から奇襲した。」 「この結果新政府軍は甚大な損害を蒙り敗走した。その際に、綱取付近にいた庄内軍の伏兵の待ち伏せで、新政府軍は損害を出している。 」 「夕暮れに、新政府軍300人が綱取から進撃して字山崎に着たので、庄内軍は退却した。その時、新政府軍は庄内軍の営所である横岫 を焼払った。 」 「庄内軍が本道寺から引き上げる時に、新政府軍が追撃して、本道寺伽藍および月岡の12軒の民家を焼討ちした。」
「しかし、本道寺集落は、名主ら三人の懇願によって焼討ちを免れた。その後、新政府軍は沼山に戻った。一方庄内軍は六十里越を通って庄内領に退却した。 」 「明治元年閏4月10日-5月初め 戦場になった、六十里越えの西川地区の集落は大きな損害を受けた。」 「周辺の村、水沢村、綱取村、入間村の住民は米の炊き出しを命じられて、閏4月10日より5月初めまで、」 「薩摩藩、長州藩、新発田藩、尾張藩、および、山形藩、天童藩に12,277食(29石)を提供した。 」
「西川地区の大半は、それまで幕府領であり、庄内藩は2月まで管理を命ぜられていたので、西川地区の損害に対しては、その後手当米を支給している。 」 庄内藩が勝ち戦をしながら、鶴岡へ引き上げた時期の、閏4月20日、福島に滞在中の悪名高き長州藩士、世良修蔵が、仙台藩士、姉歯武之進らに襲撃され重傷を負った。 そして、奥羽の諸藩は、切られるまでひどい言動だった世良に対して、怒り心頭「長州の言うことなど聞いていられるか」 と、それまで薩長の味方だった天童、山形、新庄など、ほとんどの藩が参加し、奥羽越列藩同盟が成立したのが5月6日
中には、あまり参加したくない藩もあったようだが、これまでの庄内藩の強さを見せつけられて「参加しないと、天童のように焼け野原にされてしまう」と、諦めた。 そこで、天童藩、吉田大八の悲劇はやってくる。 鬼玄蕃「前の戦いでわが藩に挑んできた織田殿、いかが、責任を、おとりになる所存か」 庄内藩も、無罪放免で許してやればよかったのにねえ
ちなみに、庄内藩は、薩長に降伏時、ほとんど犠牲者を出していません。これはものすごい金額の保釈金を本間様が出してくれたかららしいです。 70万両などと書かれていますが、現在の価値として1両、10万円とすると、700億円ということですね。大金じゃ!! 明治初頭までは、神仏習合の修験道(羽黒派修験)の山、出羽三山湯殿山派の別当寺4か寺の1寺である月光山本道寺であった 「神社の由来によると、本道寺は、大同4年(809年)に、湯殿山に参拝した空海によって開基された。」
「ここは、湯殿山大権現へと通ずる本道である。汝は私の代わりにここを守り、湯殿山への日月の代参を行うべし。」 「明治7年(1874年)に神仏分離令が発せされると、本道寺は寺号を廃して口ノ宮湯殿山神社となった。」 「戊辰戦争の際に焼き払われた伽藍は、浄財により明治22年(1890年)に拝殿や本殿として再建されたが、その規模は、往時に比べて大きく縮小された。」 「1877年(明治10年)、山形県初代県令三島通庸により、口ノ宮湯殿山神社から分霊され、県庁守護として山形市旅篭町に県社湯殿山神社が建立された。」
戊辰戦争ついでに、大河ドラマ『西郷どん』が終わって、岩倉具視や薩長の嘘が、チラチラと公開し出されていって、東北人としては、なかなかいい傾向だと思っています。 先日も、山形市立図書館での講演会で『異貌の西郷どん』で、岩○さんが、西郷以下、薩長をケチョンケチョンにやっつけていました。 戊辰戦争時、西川町で、かなりの戦闘が繰り広げられたのに、あまり、案内とか碑がないので、学芸員様方の、いい研究題材のような感じがします。よろしくお願いします・・・