清川口の戦い

  


4月20日に新庄藩士塙左近右衛門が澤為量副総督より松山藩への使者に立った際、

あの有名な清川合戦詳細を清川八郎の親父(雷山)が記録していたのだ

 


「凌霜史」 編集者 武山省三氏(この方も知人の親父でした。松ヶ岡開墾場の理事長をやっており、酒井の殿様らからの依頼により本の編集をしたのだそうです。数年前にお亡くなりです) より引用 

慶應四年(1868)
4月10日 会津庄内両港同盟が成立
4月14日 沢副総督は大山参謀を従え、薩長筑三藩の兵約200を率いて岩沼を出発し上ノ山に着陣
4月16日 討庄の命をうけた秋田藩は先発隊600余が大沢口に向けて進発
4月19日 庄内藩は対策を練り清川口 大網口 羽黒山 吹浦口に守備隊を派遣
4月19日 沢副総督の政府軍は上ノ山を出発、山形−天童を経て
4月23日 新庄に到着、直ちに清川口の攻撃を命じた
4月23日 午後6時薩長兵二個中隊と新庄兵一個小隊は新庄を出発、本合海より乗船して清川口上陸を企図したが西風強く、やむなく草薙温泉近くの土湯に上陸
4月24日
未明、立谷沢川の東岸腹巻岩に到着した。それを清川村の農婦が発見して清川口守備隊に急報、間もなく開始された薩長軍の攻撃に防戦。敵は高所より陣射しまた立谷沢川を渡河して戦況有利に展開していたが、狩川村の農民数百人が西山に登り、村内の社寺より持出した幟等をうち振って敵の背後から閧の声を挙げて援軍と見せかけ、また事実松山から鶴岡からと増援部隊が到着して敵は敗退し午後二時頃この戦は終わった

雷山翁筆「清川合戦実録」より引用(雷山翁は清川八郎の親父)

前略

4月15日 新庄より5、6人が腹巻山へ登り、川に石を投げて距離を測ったり御殿林外の土手などを調べていったのを聞いたので鶴岡に報告した
4月24日午前6時頃村人が「官軍が襲ってきた」と騒ぎ村中太鼓を打ちながら駆け回った。我が家にいた弓隊はまだ起きないうちなので、大いに驚きて敵はどちらから来るかという。敵は腹巻岩より山を越えて間近まで来たから早く起き給えと申せば、すぐに起きて支度し、戦場に向かった。私も支度して家中の子供たちを狩川まで立ち退かせ、弟の順次郎を農兵に加勢させた。それから家の用意をして兵糧米を出して、二つの窯に焚かせ、陣中に運ぶ用意をした。
 そうしているうちに、官軍総勢四百人早朝に押し寄せ、奇兵を四五人裏山に登せ、又片倉道不動堂前の杉林の中にも奇兵をおいた生繰沢村の橋の手前川除普請の陰にも奇兵を穏して十分に作戦を定め、正兵は生繰沢の川原に押し出して来た。味方の先陣朝比奈長十郎が真先に立って北楯水門の橋を渡って川原に進み、これに続いて士大将水野弥兵衛、総大将松平甚三郎も同じく橋を越えて生繰沢道に十間ほど進み、杉林の中に陣を取った。官軍は腹巻岩の山上で、合図と思われる長さ三尺位の白と黒の旗を振ると一斉に発砲する。これに応じて味方も発砲し、双方の打合いとなった。官軍の奇兵は此の合図を見ると不動堂前の杉林より横から鉄砲を打ち、又普請場の陰よりも打つ。裏山の敵は山上より味方を眼下に見おろして発砲するので荘内軍は非常な苦戦であった。敵味方の銃声は天地に響いて、その激しさは言いようのない有様であった。

中略

藤島や狩川で只今荘内は勝軍になったから、早く武具でも何でも持って清川の裏山に登れと駈け廻ったという。その為に狩川村の百姓大勢歓喜寺により、猿ケ馬場の後より登って鯨波(とき)の声をあげ、敵に向かって襲った。此の時、風は西に変って味方の為に良く、敵の為には悪くなった。五所王子神社の神風であろう。
 官軍は、これをみて肝を潰し山を逃げ、不動堂附近から山を下って三十人ばかり川を渡って逃げた。杉林の辺からも七、八十人川を越えて逃げた。橋を渡るものあり、又水に溺れて流れるものもあったという。狩川の百姓たちは山上よりこれを見ていたが、鉄砲も無いので打つことも出来ず、残念なことに只空しく見ているはかりであった。敵兵は難なく腹巻岩をさして生繰沢山を蟻のように続々登った。
 清川の農兵は片倉山に登り、狩川の百姓と一緒になり、敵兵めがけて車台付の百匁砲を打ったら驚いて散乱して引き退いた。この為に味方は大いに英気を増し、敵兵を散々に悩ました。服部正歳は組の足軽をつれて七ツ時頃(午後四時)柏谷沢村に廻った。松山勢も廻って柏谷沢に放火した。官軍の残兵やや気を奮われ、土湯をさして取るものやとりあえず敗走した。

後略

以下2006年に書いたものです

 「藤島や狩川で只今荘内は勝軍になったから」の文章が気になりましたが藤島や狩川で合戦が行われたという記録はいまだ探せずです。清川ばかりでなく庄内入り口の多地域で戦闘が勃発していたのでしょうか。
 また雷山翁の文章と合戦図の関連がいまいちはっきりしません。
 官軍は長州の戦争で奇兵隊での戦いに味をしめていたので、今回もやたらめったらの奇襲攻撃をすれば簡単に勝利できると思っていたのではないでしょうか。沢副総督が新庄に着いてから清川に攻めるまでの期間が短すぎると感じるのであります。
 尊皇攘夷の清川八郎の親父殿が兵站ながら庄内藩側で戦闘に加わり、官軍のことを敵としてしか書いていないのはせがれのやっていたことをあまり把握していなかったのか、対立してたのかこれからなんかの本を読んで知ることになるでしょう。
 記念館には戦いで雷山翁が手に入れたと思える鉄砲の弾なども展示されていました。また、古文書の他清川八郎についての本などたくさん保存されていました。新撰組が悪役だった時代には八郎さんは善役でいろんな作家がその業績を美化する文書を書いたのだと思います。大昔見た映画などでは鞍馬天狗とか怪傑黒頭巾の良き仲間だったような・・・。最近は新撰組がカッコよく扱われその反動として八郎さんは悪役的に扱われていると思います。坂本竜馬を暗殺した黒幕は西郷隆盛だというのが定説になっているようですが、佐々木只三郎がどちらにも関与しているところから八郎斬殺の後ろにも隆盛の影が漂うと感じるのは多分飛躍のしすぎなのでしょう・・・。
 

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