舟形の戦い


2019/11/01 (写真2019/07/13)

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尾花沢福原から舟形町に入る手前の最上川 猿羽根山トンネルに入ります
猿羽根山トンネルの北の入口の鳥居から猿羽根山に登ります 戊辰戦争の時はトンネルはなかったでしょうから、酒井吉之丞は尾花沢から登って、ここに下って来たと思われます。
猿羽根山の展望広場から尾花沢市 第二大隊がここを通ったのは、旧暦1868年7月11日の真夜中だったので、この景色は見れなかったようです。 舟形口攻撃の庄内勢は、加勢のために、急拠楯岡から馳せ参じた酒井吉之丞を隊長とする二番隊である。七月十一日、二番隊は舟形町に入り、山形・岩手山藩とともに小国川南岸に布陣した。 酒井隊長は村の南東八幡山に日章旗を掲げさせ、自らは問屋大泉にあって、後から川端の諸隊を指揮した。一方、官軍側は大砲隊などを含め、続々と新庄を発し、鳥越・四ッ谷・柏木台・欅坂等に陣を構えた。
本格的な戦闘は十三日に開始された。即ち、この朝、庄内勢の一隊が一の関の下手で小国川を越え、屋敷野から山の神・欅坂に向かい、官軍を急襲した。 不意をつかれた官軍は太いに驚き、白刃を振ってこれを迎えうった。
 
この乱戦の中で、新圧藩の堀隊長・小屋春五郎・伊藤亀助等が山の神の山上付近で、激しい斬合いの後に戦死した。 この間に、庄内勢は続々と渡河、欅坂辺の官軍を攻撃した。この勢に押されて、柏木台の方に退く官兵もあった。
山の神の麓附近の銃砲解散では、新庄痛斎藤竹蔵・大野坂次郎・白塚藤吾・川上雅右衛門などが戦死した。 この他、加々尾台次郎・岡田作太郎、佐藤友治・斎藤勘左衛門が負湯、舟生源右衛門の従者中鉢多吉は銃丸に当たり、二十五日関屋村で亡くなった。薩長二藩もそれぞれ七人の負傷者を出した。 右の山の神山上附近で戦死した堀・小屋・伊勝三人の遺体は舟形に運ばれ、首を晒された後、定泉寺境内に埋葬された。 また、銃撃戦でうたれた白塚・川上・斎藤・大野の四人は、首を別ねられて柏木台に上る旧道上り口付近に埋められた。
それぞれの勇土の庭が、いまも右の二ヶ所に残っている (川上の墓は後舟形に移された) 一万、四ッ谷村端れに陣をとり対岸の庄内勢を砲撃していlた新庄兵は、山の神の山上から襲ってきた庄内勢を味方の薩摩兵と見誤り、散々に打ち破られた。川端の薩摩兵も背後の急変に驚き浮き足立った。 敵将酒井吉之丞はこれをみて一斉に渡河を命じた。薩摩勢は一たまりもなく、小倉・肥州兵等とともに鳥越方面に逃れ新庄に入った。この夜、酒井隊は柏木原(今の沖の原集落)に宿営した。 また、肥州藩は鳥越庚申塚から沖の原村を通り、小国川北岸段丘上に布陣した庄内勢と打ち合ったが、四つ屋の官軍が敗れたのをみて二つ屋方面に引揚げた。
長沢・大平万面においては、十三日、瀬川内匠の率いる新庄勢約五〇人が大平道より内山に進み、一部は川を越えて長沢村に入ったが、間もなく引揚げ、二つ屋付近の激戦に参加した。 また、鳥越にいた肥州兵も、十二日夜、大砲二門をひいて大平から内山に至り、十三日長沢村に入ったが、同村権現山にあった庄内勢に銃撃きれて間もなく逃げ帰った。