姫路城

2019/12/13
 

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始まりは、1346年(南朝:正平元年、北朝:貞和2年)の赤松貞範による築城とする説が有力 赤松氏時代のものは砦や館のような小規模なもの 1576年(天正4年)、中国攻めを進める織田信長の命を受けて羽柴秀吉が播磨に進駐すると、 播磨国内は織田氏につく勢力と中国路の毛利氏を頼る勢力とで激しく対立、最終的には織田方が勝利し、毛利方についた小寺氏は没落した。
ただし小寺氏の家臣でありつつも早くから秀吉によしみを通じていた黒田孝高(官兵衛)はそのまま秀吉に仕えることとなった。 1577年(天正5年)、孝高(官兵衛)は二の丸に居を移し本丸を秀吉に譲った。
 
1580年(天正8年)、三木城・英賀城などが落城し播磨が平定されると孝高は秀吉に「本拠地として姫路城に居城すること」を進言し姫路城を献上、 自らは市川を挟んで姫路城の南西に位置する国府山城(こうやまじょう)に移った。
秀吉は、同年4月から翌年3月にかけて行った大改修により姫路城を姫山を中心とした近世城郭に改めるとともに、 当時流行しつつあった石垣で城郭を囲い、太閤丸に天守を建築し姫路城に改名する。 あわせて城の南部に大規模な城下町を形成させ、姫路を播磨国の中心地となるように整備した。 この際には姫路の北を走っていた山陽道を曲げ、城南の城下町を通るようにも改めている。
1582年(天正10年)6月、秀吉は主君・信長を殺害した明智光秀を山崎の戦いで討ち果たし、一気に天下人の地位へ駆け上っていく。 このため1583年(天正11年)には天下統一の拠点として築いた大坂城へ移動、姫路城には弟・豊臣秀長が入ったが1585年(天正13年)には大和郡山へと転封。 替わって木下家定が入った。 1600年(慶長5年)、池田輝政が関ヶ原の戦いの戦功により三河吉田15万石から播磨52万石(播磨一国支配)で入城した。
輝政は徳川家康から豊臣恩顧の大名の多い西国を牽制する命を受けて1601年(慶長6年)から8年掛けた大改修で 姫山周辺の宿村・中村・国府寺村などを包括する広大な城郭を築いた。 徳川時代は、池田氏に始まり譜代大名の本多氏・榊原氏・酒井氏や親藩の松平氏が配属された。 幕末期、姫路城主はわれらが庄内藩の親戚の酒井忠惇
庄内藩とおなじく幕府方に属したため、姫路藩も朝敵とされ、戦争になるところだったが 庄内藩における本間家のような?豪商・北風荘右衛門貞忠が、15万両に及ぶ私財を新政府軍に献上してこれを食い止めた。 大阪城も名古屋城も見たことはない(多分)が、姫路城は広くてでかくて白い。
なにより、江戸時代のものが残っているというのが、すばらしい 1945年の終戦の年、米軍が文化遺産に手心を加え、B29の爆撃担当が、ボタンを押さなかったのか 姫路市は攻撃対象でなかったとか、諸説、頭に浮かびますが Webで、いろいろ見ると、空襲の後、お城の中から、不発だった焼夷弾が、見つかって
それを、命からがら、運び出して処理した話や 姫路城が攻撃対象になっていなかったということはなかったという話などが、書かれてあって 空襲で焼けなかったのは、奇跡的な偶然の結果だったようなのです。
三の丸から天守閣まで、ずっと徒歩で歩いたり、上ったりで、特に階段の勾配が急で、かなりの運動になりました。 これ以降、コメントは省略です