長谷堂合戦絵巻


2006/02/11 2020/05 Update

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慶長五年(1600)九月十五日、直江兼続が本陣を敷いた菅沢山は右の丘
その左の大森山にも布陣
長谷堂城山から同方面、900人の上杉軍が北から迫ってくる 西の大手口と北の八幡崎口に押し寄せる。最上軍は城の外に出て田んぼでの死闘が繰り広げられる 義光は弟の楯岡甲斐守光直と三男清水大藏大夫義親に兵八百で須川方面から上杉の背後を襲わせる
どっこいそうはいかぬと川中島で揉まれている上杉の軍監、水原親憲、夜襲を察知し須川を渡渉中の最上軍を待ち伏せ銃弾を雨のように浴びせかける。最上勢被害大 しかし、城内はふんばり、これから約二週間押したり引いたりの長谷堂攻防戦が繰り返される。業を煮やした兼続は二十九日総攻撃を命ずる
写真は八幡崎口
攻める上杉軍、上島泰綱・前田利太・中津川秀国・倉賀野元綱・青柳長忠・篠井泰信ら 迎え撃つ最上勢、志村高治直属の長谷堂衆、小国大膳の小国衆(最上町)、坂紀伊守の成沢衆、
佐々木綱知の鮭延(真室川町)、後藤将監の山野辺衆、草刈志摩守の天童衆、旗本組や杉下党 激しい戦闘で上杉武将、上島主水泰綱が討死 この時大局観の優れた兼続は戦い続け城を落とすか転戦するか迷っていたという 戦いもクライマックスにさしかかったその日の夕刻、会津からの書状が兼続に届けられる。上杉景勝からであった
「むむっ・・・三成敗北なり・・とな」
兼続と石田三成はなぜか気が合い仲がよかったのである
徳川家康を挑発し上杉の会津に攻めさせて、その間に三成が中央において天下奪取をする密約を交わしていたのだ 三成を倒したら今度こそ家康は上杉に向かってくるだろう。南の国境を急ぎ固めなければいけない 戦は継続しつつも兼続は十月一日撤退を開始
前田慶次郎利太のしんがりでの活躍であまりダメージを受けずに脱出成功
こうして長谷堂の合戦は幕を閉じたのであった 紙面が余ったので最上家余談、閑談、梯子談

水戸黄門と最上家について
水戸黄門が里帰りした時、苦言を呈する家老が登場する。高松英郎、丹波哲郎などのそうそうたる役者さんが演じている。 山野辺兵庫、その人はなんと最上義光の実の孫なのだったのだ。山辺町民はその辺の話知っている方多いようだが一般的にはあまり知られていない。
熱烈な黄門ファンであるおらいのそば黄門様も知らなかった。
義光は四男の義忠を山野辺城主として一万九千石を預け、西の守りを固めた。
それが最上家改易の時まで続いたのだが、義忠自身も改易の原因となっているため池田忠雄に身柄を預けられて備前に流された。 1633年、徳川家光の命により家光の叔父・徳川頼房にその身柄を預けられ、後に罪を許され、水戸徳川家において一万石の所領を与えられ、家老となった。そして、徳川光圀の教育係も努めている そのせがれ山野辺義賢は山野辺兵庫を名乗り、徳川光圀つまり水戸黄門の家老となった。そして丹波哲郎を仮の姿として歴史に再登場するのである。
時が流れること240年、元治元年(1864)水戸の藩主はあの菅原文太の演じた徳川斉昭のせがれ慶篤である。水戸藩重鎮として山野辺家は数回に渡り、水戸徳川家と縁戚関係を結んだ。斉昭の側室も山野辺の女である。 その時の家老は助川城主である山野辺義芸。おりしも尊皇攘夷の嵐が水戸藩を台風の目として吹きまくっていた。井伊直弼の安政の大獄により蟄居させられた斉昭の恨みを晴らし、幕府を倒そうとする天狗党の誕生である。 最上家改易の後、山野辺義忠とともに水戸徳川家に仕官した最上家家臣がいた。里見八犬伝で有名な里見家の傍流、里見四郎左衛門親宗である。主従共々雇ってもらったのである。
山野辺ほどの重鎮ではなかったが槍奉行とか旗奉行の職を担っていた。 元治元年の当主は里見親賢、親父の親長は71歳の隠居じいさんであった。これが歳も考えないで天狗党の挙兵に一族を率いて参軍するんだ。 じいさんの時代の藩主、徳川斉昭はそれほどまでにカリスマ性をもっていた人物なのか。斉昭と一心同体で尊皇攘夷を唱えた山野辺義観への義理だったのか。とにかく山野辺、里見ともに維新派として幕末を迎える。 山野辺義観と共に徳川斉昭の後ろ盾であり安政の大地震で圧死した水戸学派の儒者、藤田東湖のせがれ藤田小四郎が長州の桂小五郎らからの援助と多くの尊攘派から持ち上げれ天狗党大将に就任。その誕生は前途洋洋たるもののはずであった。 しかし、新撰組の土方歳三ように軍の引き締めをちゃんとやらなかったのだろう。来るものは拒まずで集まった兵士の中に今でいうスキンヘッド軍団、ザンギリ隊という一隊も入り込んでいた。