水野三郎右衛門元宣

  


本題の水野三郎右衛門元宣に戻って、戊辰戦争の責任を取ってここで処刑されたのですが、どうして切腹という名誉を与えずに処刑だったのでしょうか?
庄内藩は新潟で戦死した中老、石原倉右衛門に「すまないが、どうせ亡くなっているんだから、そなた一人が新政府軍に反逆したことにして、他の重臣を救ってくれ」と、石原一人が責任を取った形で決着
上杉藩も庄内と同じようなシチュエーションで、やはり新潟で戦死した色部長門をエスケープゴートにして謝罪終了
天童藩の吉田大八は、庄内や山形と同じく山形地方の藩の家老でしたが、処刑したのは新政府軍の、正反対の立場の庄内藩。薩摩、長州とちがい、吉田大八に名誉ある切腹を申し付けたのであります。
戊辰戦争の戦後処理は、どうも胡散臭い経緯が多々感じられるところです。

IMG_3693.jpg