広福寺


2020/11/15

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以下、故人情報保護の観点から、正確な氏名等は、適度にアルファベット入りにしてみました。 2007年にサイクリングで最初の門だけ写真を撮っていますが、その後、いろいろ知識を得て、N関G雄先生に由緒のお寺だと知りました。 「広福寺」「N関G雄」の二つの言葉で検索しても、関連付ける資料は見つかりません。 「広福寺」の名前を暗記してない時、このお寺を話題にする時「若木の竜宮城のような山門のお寺」と言っていました。
2019年2月24日の山形新聞「山形再発見」でK山H先生の「N関G雄」の紙面で、その関連を知った次第です。 N関先生は、山形大学人文学部で、カメラマンの親父の5年先輩で、親しくさせていただき、薬師祭りの時、フランス人の講師の方を連れて、我が家を訪問し 「○□君、フランス語話せますか?」「話せません」「教えてあげます。ボジュール、ボンソワール、コマンタレブー」などと、歓談していかれたのが思い出されます。
カ紙面の文中に、T中K太郎さんが登場し、写真やN関先生との会話なども載っていますが、K太郎さんとは、それこそ何回も何回も会っています。
T中K太郎さんとは、カメラマンの岳父も実父も親しくしており、特に岳父とはテツマンならぬテツ碁(徹夜でやる碁)ライバルでした。 それこそ70台半ばの岳父が碁で、徹夜ですぞ。マージャンなら利害関係、愛憎関係があるので、徹夜も理解できますが、なにもかかっていなくて、大石(タイセキ)をハメ手で一挙に奪ってしまう快感のためだけに、岳父は碁をやっていたような・・・ 実父のほうも、碁きちがいで、こっちは近所の燃料店の社長さんと、テツ碁していました。双方とも全員愛煙家で、一晩で、でかい灰皿に吸殻が入りきらなくなってしまったり、畳に焼け跡をつけたりすることも多発していました。 カメラマンの岳父の名が、N関先生とおなじG雄で、K太郎さんからしてみれば、あっちのGさん、こっちのGさんと、まぎらわしかったようです。
前述の「山形再発見」を読むまでは、N関先生は「広福寺」の住職をやりながら、大学の先生をしていたものとばかり思っていました。 しかし、二股は厳しいとか、いろいろあったようで、住職としての在位期間は一年だけで、フランス文学に人生をかける道を選んだのだそうです。 まあ、お寺の境内に居があったとのことなので、「広福寺」の住職と理解していた人もいたのではと思います。 N関先生には、数回お会いしているだけなので、エピソート的なものはこれくらい・・・
あじさい参道で有名なやはり村木沢の「出塩文殊堂」にN関G雄先生と、その教え子E口B四郎氏の文学碑があります。 後は古刹「広福寺」の写真だけで、よろしくお願いします。
りっぱな石垣。すぐ脇に城跡、若木館があることを、いろいろ読むうちに知りました。写真右手の奥が、もしかしたらその跡かも 古刹「広福寺」およびN関G雄先生レポート了