丸橋忠弥の秘密


2021/01/15
 


山東サッカー部の納会が開催されるN島商店の東、その二次会の会場、壽屋さんの北側に『旧百姓町』の道標がありました。
 

「備荒田(凶作等に備えて耕作する田)の管理をする百姓が集住していたところという。六日町の内にあった。」
 


この道標は、最上時代の城下町の旧町名を示しているもので、秀蔵寺の前に建てられています。
 


同じく、向かって左手には、あの有名な『丸橋忠弥』さんについての案内板
 


長曽我部氏は、四国の戦国大名で、最盛期には、四国全土を支配下においた殿様で、羽柴秀吉の四国攻めから、土佐藩主だけに格下げ、その後、関が原の戦いで、西軍に組し、敗北、改易となったようです。
忠弥さんは、その殿様の子供なのだから、当時としては、なかなかの有名人だったと思われます。
それにもまして興味を引かれたのは、Wikiに「新選組隊士で御陵衛士でもある篠原泰之進は、忠弥の血筋」という記述があったことです。篠原は新選組で、近藤勇、土方歳三グループの敵になる伊東甲子太郎グループのエースでありました。土方が伊東グループの皆殺しを計画し、まずは伊東を甘い言葉で呼出して、酔っ払わせて暗殺、死体を油小路に放置して、グループ全員をおびき出し、殲滅する作戦を立案し、行動に移しました。土方は十数名の御陵衛士全員を討ち取りたかったようですが、成果は三名だけで、篠原泰之進以下十数名は生き残り、近藤勇、土方歳三らを付け狙うことになっていき、その年の冬、伏見街道にて近藤を襲撃し、大怪我をさせることになります。以降、いわゆる西軍兵士として戦い続けますが、なんと明治44年まで生きたのだから、すごいものです。ちなみに新撰組の斎藤一と永倉新八は大正四年まで生きました。これまたすごい。
 


長曽我部と似通った姓で、K曽我部さんが、山形市の今塚あたりにいらっしゃいます。何年か前のS間S子マネージャーのお母さんの実家の姓が、K曽我部で「苗字だけで四文字なんて、ひどくねぇ!試験の時、名前の記入だけでハンデが付いてしまうし、名前が『三郎左衛門』とかだったら、目も当てられない〜 !!」などと話していたのが、思い出されます。
そして、山形市渋江の真福寺には丸橋忠弥の墓や、石柱遺跡があるというので、行ってみました。
 


長曽我部とK曽我部について、苗字辞典で調査したところ、全国で長曽我部は300名、K曽我部は200名程度のシェアで、かなりのレア苗字であります。前者は山形にはいないようですが、後者は山形市が全国一になっています。そのどちらもルーツは同じで、ある時点で、兄弟の姓が『長』と『 Kウ』に分かれたとの記述がありましたので、遠い親戚のようであります。
そして、丸橋忠弥が子供のころに暮らした渋江と、K曽我部の多い今塚は、わりに近い場所にある七中学区、そこで、仮説ではありますが、丸橋忠弥のご母堂様には、 K曽我部姓のだれかにつてがあって、遠い出羽までやってきたのではないでしょうか?・・・根拠となる資料皆無のトマトケッチャップ脳みその遠吠え
 


この石柱に『丸橋忠弥遺跡』のような文字が書かれているようですが、はっきりとは読めません。
また、ここには『丸橋忠弥』の墓といわれている墓石もあるようなのですが、この雪の中をズボズボ長靴で、探し回るのも、なんか不審者みたいで、気がとがめたので、入口だけ撮影して深入りはしませんでした。