米沢市東沢地区 旧須貝邸
2026/09/22(火)
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Googfle_Mapで、どうやって訪問するのか道順を研究しましたが、米沢から大峠に向かう国道121号線から山形県道244号線に入って、すぐ行けるようなので、気楽に考えて出発しました
アイフォンのGoogfle_Mapナビで進みましたが、県道244号に進入するところにさしかかり、『川西方面』の案内のある道路が、とにかく急坂で狭すぎ、どうやっても対向車とすれ違い不可能としか思えませんでした
20年以上前なら、それでも「なんとかなるさ!!」と、行ってみたかもしれませんが『年よりは安全に安全に』の鉄則を巡視し『川西町東沢地区交流センター』あたりまで北上し、そこから南下しようと切り替えました
しかし、交流センターあたりからの道のりは遠く、ポツン、ポツンと建っているのは茅葺をトタンで覆った改造民家ばかり。20年も前なら、それらがほとんど茅葺民家で、すごく嬉しかったのでしょうが、やはり現存茅葺を見たい
ナビが「到着しました」と言うので、あたりを見回すと、右手の草むらの中に、写真の『旧須貝邸』が、静かにたたずんでいました
東沢ガイドマップから『須貝邸』の部分を引用させていただきます
・・・須貝久左衛門家は越後鮎川にいた館主。上杉の米沢移封に従ったとみられ、代々鳥屋触を勤めた。
上杉景勝夫人の甥にあたる公卿山浦玄蕃光則は京都から米沢に移り、家臣団の筆頭に列し藩政を補佐した。
キリシタン禁制が強化されると玄蕃にキリシタンの嫌疑がかかり、
正保元年(1644)12月から5年8ヶ月の間須貝家に匿われたが、承応2年(1653)
幕府の命令により処刑。我が国唯一の公卿切支丹殉教者といわれた。・・・以上引用終わり・・・
文章を読むと、この屋敷の伝説の主人公は屋敷名の須貝久左衛門ではなく、その親戚の公家、山浦玄蕃光則のようで、キリシタン公家だったようだが、この石像も仏様ではなくて、キリスト関連に見えてきます
壷の家来のように、家の前に並んでいる石像も同様で、斬首された怨念が感じられるようです・・・まさか!・・・
キリスト教弾圧は徳川家康によって1612年に始まったとのことで、天草四郎の島原の乱は1637年、徳川家光の時に起きました
山浦玄蕃が斬罪されたのは1654年とのことだから、島原の乱の20年後くらいの死没になります
徳川幕府からやっつけられた高位の勤皇の公家が、米沢藩上杉家に縁のあるある方だったのだから、現在、もうちょっと歴史的評価されてもいいと、ちょと思いました
屋敷の前の庭には蓮の池があって、近寄ったら鴨?が数匹飛び立ちました
須貝邸を後にして、県道244号線を北上して帰途につきましたが、20〜30年前は茅葺だった民家やお寺が、トタン葺に改造された建物がポツリ、ポツリと建っていて、豪農の集まった集落だったことがうかがえます
帰って、山形県道244号線の国道121号線との分岐点の書込みがないか調べましたが、狭い道をかなりのスピードで走る動画を2つ見つけました
実際走行するのは10分足らずのようでしたが、対向車とすれ違い出来ない狭さで、そうなったら10分以上かけて、退避可能場所まで(動画では存在しませんでしたが)バックしなければならないようでした
須貝邸に着くまで、北上する車、数台ありましたが、須貝邸のちょっと南にソーラー発電所を建設中のようで、そこからの車と推測します・・・県道管理事務所がなんか対策をしないかぎり、通行はしないほうがいいです・・・旧須貝邸了