北京の城壁
2002/06/07


 北京は昔大きな城壁に囲まれており、毛沢東が全部ぶっ壊したと話には聞いていましたが、その証拠写真がありました。
 歴史は語るシリーズ第2弾。 


 
箭楼正陽門(前門)。正陽門から北京の内城と外城を分ける城壁が東西に伸びていた。現在は門と一部の城壁のみが残るのみ。正陽門の右のほうが天安門広場になり、毛主席記念堂や人民大会堂などがある。また、この辺りはペキンダックレストランが建ち並んでいる。


 前の写真と同じなのだが道路と河川かなり整備された。1年以上は経過した写真と考えられる。そして写真右上城壁と沿っている屋根は多分当時の北京駅と考えられる。現在の北京駅はやはりこの城壁の線上だが、かなり左下、3km地点あたりにあるようだ。
 上の写真から下の写真にかけて華北交通で鉄道を建設したのだろう。


 正陽門(前門)に登って西にまっすぐ続く城壁を撮ったもの。


 1953年にスターリンと毛沢東により「北京都市計画草案」がつくられ、北京城の解体が決定された。
  1954年から門などが取り壊されていったが、はじめ十年あまりは本当の危機は訪れなかった。城門があまりにも大きいため、一つの城門を解体するのに相当の時間がかかったからである。
  城壁の本格的な解体は、文化大革命の中で行なわれた。 文化大革命の十年間、過去の遺跡は封建的・反革命的として徹底的に破壊された。当然北京城も例外ではなく、革命の熱狂的興奮のもと、取り壊しは驚くべきスピードで進められるようになった。
  1969年にはいって、毛沢東の「防空壕を掘れ」という大号令のもと、城壁の解体が始まった。ひとびとは城壁のレンガを持ちかえって、防空壕作りに利用した。そして、たった5、6年で北京城壁をほぼ完全に解体してしまった。
  今では、城壁のあった所には環状道路が通り、もはやかつての面影を見ることはできない。

志波に ほとに