松田甚次郎の話

 ●松田甚次郎(1909〜1943)は豪農の家に生まれたが、盛岡高等農林学校で宮澤賢治に親炙し「小作人たれ」「農村劇を演じろ」という賢治の教えを実践。農村指導者として鳥越地区の土舞台で36回の公演を実施した。その土舞台はいまも残っている。
 昭和13年、自らの回顧録『土に叫ぶ』を出版したところベストセラーとなり、次いで翌年、師・宮澤賢治の作品集『宮澤賢治名作選』を出版して、それまで無名の賢治を世に出した。 

 

 甚次郎さんのことはほとんど知りませんでした。その奥さんは子供の頃から知っていました。変酋長のばあちゃんの姪っ子です。ということは親の従兄弟ということになります。しかし、親は祖母の養子なのでそう簡単にはいかないのですが割に近い血縁です。川崎で暮らしていましたが2004/12亡くなりました。甚次郎は昭和18年に亡くなっているので、私が生まれた時はもはやいなかったのですが、なにやら昔の著名人だということは聞いていましたが名前も業績も知らなかったのはなぜなのかなどと考えてしまいます。まあ単に興味を持たなかったということでしょうが・・・
 当時は『宮澤賢治名作選』出版前は『宮澤賢治』を知らなくとも『甚次郎』を知っている人の方が多かったそうなのです。
 親父の書斎に『土に叫ぶ』がありました。引っ張りだして見てみたら『村おこし』に命をかけるまさしくそのものでした。なんとすごい人が親戚にいたのであります

2006/01/10 10年近く会ってなかった中学、高校の同窓生吉○氏がこのHP見て電話をくれました。なんと彼の家のルーツは新庄市鳥越であり松田姓の遠縁もいることから系図を遡れば甚次郎さんとも縁続きかもしれないとのこと

「小生の本家の主、吉○新平氏は、戦前に松田氏から篤く指導を受けて、演劇をはじめいろいろとしたそうです。新平伯父は、この写真の、向かって右端です。因みに、左端が、本家とも拙宅とも遠縁の松田氏。」

吉○氏は
「吉田コト」さんの店も良く知ってました。
○にあてはまるのは 田 井 野 見 美 くらいかな? さあどれでしょう

 

2005/12/11 花巻温泉の帰り道に宮沢賢治記念館に寄りました。
甚次郎さんの肖像写真とか「土に叫ぶ」など置いてはいないか探してみましたが見つからず、係の人に聞くのも二日酔いで躊躇われ、なんとなく欲求不満のまま記念館をあとにしました。


2005/07/08 昭和六十七年十月三十日胸像除幕式

                昨年(平成十六年)十二月 甚次郎氏夫人の睦子さんが亡くなりました

2003/09/16 『土に叫ぶ』写真集

2003/09/07 写真撮ってきました

 


2003/09/03
なにかの検索エンジンで枚方市の女性が下記腹快調文書を発見なさったようでメールを下さいました。
腹快調に聞いたらご主人が山形一中で同級生らしいとのこと。

2002/05/29
腹快調より
 松田甚次郎の「土に叫ぶ」の原稿を清書したり、宮澤賢治を弟清六と共に売り出した人が山形に在住してます。
「吉田コト」さんとおっしゃる方です。次男「吉田司」は文春文庫から「宮澤賢治殺人事件」なる本を出しております。長男は中学、高校と吾の同級生です。前記の本を一読されたし。  

2002/01/01 『県民のあゆみ』No.487 にデカデカと載りました

ページ@  ページA 

2002/01/28記

河北新報の特集記事にも載っていました(2001/09/17)  見れなくなったら誰か連絡ください
http://jyoho.kahoku.co.jp/spe/spe059/19991111tk.htm

松田甚次郎 略年譜

明治42年 3月 3日   山形県最上郡稲舟村大字鳥越字駒場松田甚五郎長男として生れる
大正 4年 4月 1日   新庄町立日新尋常高等小学校に入学
大正11年 3月   卒業
大正11年 4月   県立村山農学校に入学
大正14年 3月   村山農学校卒業
大正14年 4月   盛岡高等農林学校実料入学
昭和 2年   旱魃に苦悶する岩手県柴波郡赤石村を見舞う。同日午後賢治先生を訪ね生涯の教訓を受け感激して帰る
昭和 2年 3月   盛岡高農卒業
昭和 2年 4月   五反歩の小作農民となる
昭和 2年 4月25日   鳥越倶楽部を結成す
昭和 2年 9月   土舞台を作り農村劇「水渦れ」を実演。貯水池築造の気運をつくる。
昭和 3年   友部の日本国民高等学校へ入学
昭和 4年 1月   日本国民高等学校卒業
昭和 4年 3月   鳥越倶楽部女子部結成す
昭和 4年 7月   土舞台の前広場で盆踊する。
昭和 4年    夏街頭で禁酒運動演説開始
昭和 4年    冬青年学校夜学の教学の任を擔う
昭和 5年   母の会を結成、母子の保健厚生にのり出す
昭和 5年 9月   農村劇の実演を許される。
昭和 6年   大日本聯合青年団指導員養成所、第一回生として入る。
昭和 6年 8月   小野武夫先生を招き村民と共に農村問題を聴く
昭和 7年 5月10日   北村山郡横山村寺崎效太郎次女睦子と結婚、村風改善の為、甘酒で神前で式を挙げる。
昭和 7年 8月   麹室を作り醤油、味噌麹を部落内を一手に引受ける。
昭和 7年 8月14日   元営林署の番小屋で最上共働村塾を創立二週間の青年修養講座を開く
昭和 7年12月   全国篤農青年大会に山形県代表として出席
昭和 8年 1月   東京に小野武夫先生を訪ね農村問題と人生問題について教示を仰ぐ
昭和 8年 1月   有栖川宮記念厚生資金第一回拝受の栄を賜る
昭和 8年 3月   間宮氏と共に、塾生5名と共に、塾舎建設にのり出す
昭和 8年 4月   塾舎落成
昭和 8年 5月   農繁託児所開設
昭和 8年 8月   京都府中郡上野久野寺院 自治大学の講師として招かる
昭和 8年10月   鳥越記念隣保館落成
昭和10年 6月   農繁期共同炊事を始む
昭和11年 4月
日本スキー発達史撮影隊ファンク博士一行に協力し農村劇の効果を堆賞さる
昭和11年 6月   共同浴場建設、利用開始
昭和12年 1月   新庄町平和館で農村社会事業資金造成の為、「映画と演劇の夕」を開催す
昭和12年 8月   都合のため塾一時休止す
昭和13年 5月   肋膜炎を再発
昭和13年 5月   「土に叫ぶ」出版 中央社会事業協会より文献賞を受ける
昭和13年 8月   有楽座で上演する
昭和13年 9月   義民刈谷翁の追悼式挙行す
昭和14年 1月10日   「土に叫ぶ館」落成
昭和14年 3月 7日   「宮沢賢治名作選」出版 文部省推選となる
昭和14年 5月27日   「土に叫ぶ館」燃失
昭和14年12月 3日   塾舎再建落成す 全国同志の後援に感激す
昭和16年 1月 1日   「村塾建設の記」出版
昭和16年 3月12日   山形より全国放送す 「新しき生活の建設」
昭和16年 9月28日   最上共働村塾十周年記念式挙行
昭和17年 3月   「野に立て」出版
昭和17年11月   朝鮮記行
昭和17年12月   「続土に叫ぶ」出版
昭和18年 7月 9日   雨乞祈願八ッ森登山、病床につく、再起不能
昭和18年 7月27日   新庄町楠病院に入院
昭和18年 8月 4日   午前9時楠病院で死亡 行年三十五オ
昭和18年 8月 6日   佛式にて葬儀を行なう 法名「鳳祥院園通共働居士」
昭和18年 9月 5日   最上の会主催追悼会行なう
昭和18年11月26日   最上共働村塾閉塾式挙行

 

『土に叫ぶ』

恩師宮澤賢治先生

 先生の訓へ 昭和二年三月盛岡高農を卒業して帰郷する喜びにひたっている頃、毎日の新聞は、旱魃に苦悶する赤石村のことを書き立てていた。或る日私は友人と二人で、この村の子供達をなぐさめようと、南部せんべいを一杯買い込んで、この材を見舞つた。道々会う子供に与えていった。その日の午後、御礼とおいとまごいに恩師宮澤賢治先生をお宅に訪問した。
 先生は相変わらず書斎で思索にふけっておられた。宮港先生は明治二十九年の生れで、同県花巻町の豪家の長男であった。盛岡高農の逸材で、卒業後花巻の農事校に教鞭をとる傍ら、生徒に農民詩の指導等をやって居られた。故針あってそこを辞されて自ら鍬取る一個の農夫として、郊外下根に『羅須地人協会』というのを開設して、自ら農耕に従った。毎日自炊、白耕し、或は音楽、詩作、童話の研究に余念なく、精根の限りを尽された。そして日曜や公休日には、農学校の卒業生や近隣の青年を集めて、農村問題や肥料の話などをしながら、時にはレコードやセロを聴かせて、時には自作の詩を発表した。或る時は又農民劇の脚本を書いて農民劇をやらしたりした。土壌学の研究では高農の教授が教えを受けに来る程まで造詣が深く、徹夜して険阻な山を登破し研究されたこともある。「百姓に石灰肥料を安く供給したい」と、石灰岩の地質の研究に志し、愛のため真理探究のため、二年間石灰岩の採掘に従事されたこともあった。實に熱心で、実践家であった。三十八歳で夭折されたのも、芸術と科学の真理の前に身命を賭した為かとも思われる。極めて謙遜な、質朴な、しかも厳粛なところもある宮澤先生の前には、誰でも敬虔の念を禁ずることは出来ぬ。
 赤石村を慰問した日のお別れの夕食に握飯をほお張りながら、野菜スープを戴き、いいレコードを聴き、和かな気分になつた時、先生は厳かに教訓して下さった。この訓へこそ私には終生の信条として、一日も忘れる事の出来ぬ言葉である。先生は「君達はどんな心構えで帰郷し、百姓をやるのか」とたづねられた。私は「学校で学んだ学術を、充分生かして合理的な農業をやり、一般農家の範になり度い」と答えたら、先生は足下に「そんなことでは私の同志ではない.これからの世の中は、君達を学校卒業だからとか、地主の息子だからとかで、優待してはくれなくなるし、又優待される者は大馬鹿だ。煎じ詰めて君達に贈る青葉はこの二つだ−−

  一、小作人たれ
  二、農村劇をやれ」

と、力強く言われたのである。語をついで、「日本の農村の骨子は地主でも無く、役場、農会でもない。實に小農、小作人であって将来ともこの形態は変らない。不在地主は無くなつても、土地が国有になっても、この原理は日本の農業としては不変の農組織である。社会の丈化が進んで行くに従って、小作人が段々覚醒する。そして地位も向上する。素質も洗練される。従って土地制度も、農業政策も、その中心が小作人に向って来ることが、我国の歴史と現有の社会動向からして、立証できる。そして現在の小作人は、封建時代の搾取から、そのまま伝統的な搾取がつづけられ、更に今日の資本主義的経済機構の最下層にあつて、二重の搾取圧迫にあえいで居るのだ!この最下層の文化、経済生活をしのぴつつ、国の大道を躬行し、食糧の産業資源を供給し、更に兵力の充実に貢献して居るではないか!なんと貴く偉大な小作農民ではないか! 日夜きゅうきゅうとして、・・・・・・

鳥越八幡宮の紹介ページより

ブロンズ像 「土舞台」

 鳥越八幡神社は、旧新庄城跡から東南約5キロ、羽州街道の面影が残る高台にあります。
 社の左を少し登ると、森が開けて広場となります。正面に一段高い平らな土盛があり、自然の舞台を構成しています。これが有名な「土舞台」で、近くの旧稲舟村出身の篤農家、松田甚次郎が昭和初期から第二次大戦までこの舞台を利用して演劇活動を展開しました。彼は盛岡高等農林で宮沢賢治に師事し、その影響から農民啓蒙の一環として農村演劇運動を起こし、この土舞台で数々の名場面を演じました。昨年、彼の没後五十年祭を記念し、喜多敏勝作のブロンズ像が設置されました。