連隊長からぶん殴られる

−  終   戦  −

 「将校を殴るのは、はじめてだッ。」
と言いながら、連隊長の水野中佐はいきりたって、私の頬を思いきり二度殴った。終戦の詔が出てから一ヵ月位経った頃の事であった。
 私が終戦を知ったのは、八月十五日から二週間程過ぎた八月末であった。ブログ山東方で、師団長の壕掘りをしている時であったが、小野上等兵を連れて、野豚射ちに出かけると、すぐ下の民家で兵隊と米搗きをしていた高橋見習士官が、
 「おい後藤、戦争が終わったぞ。」
と教えてくれた。冗談だろうと言うと、冗談なものか、ついさっき連絡が入ったのだ、だから伝令を出すため、いま米を搗いているのだと真面目な顔で言った。 二週間もの日数を要したのは、各部隊問の連絡が、すべて徒歩に頼る以外方法がなくなっていたことによるものと思われた。軍司令部から旭の司令部までは、一週間くらいかかるし、師団司令部から我々のいる所へは四、五日を要した。
 高橋の言葉が嘘でないことを知って、私はこれで壕振りを続けなくとも済むと思って、先ず安堵した。司令部づきが決って、私の受取った下士官、兵は、質がよくなかった。今まで手塩にかけた部下は、全部取りあげられて、屑のような人達の寄せ集めであった。物は人より余計食べ、仕事はなるべくさぼろうとする連中で、下士官の内田伍長からして、寝こんでしまって、壕掘りに出ようとしなかった。塩が欠乏し、皆無になってから、一ヵ月位も経っており、蛋白源の肉類も手に入らなくなっていたので、手足に力の入らないことはわかった。十名の部下のうち、小野上等兵だけが仕事に出て、あとは枕を並べて寝ていた。それに壕を掘るには地形も土質も悪かった。折角一米位掘ったと思うと崩れてしまって、また一からやりはじめなければならなかった。
 「こいつらをぶち殺して、俺も自決をしようか。」と思うことさえあった。
 だから終戦の声を聞いて、助かったと思った。指揮はとるが、自分で作業はしないという、これまでの方針も捨てなければならないと考えて、手はじめに野豚射ちに出かけようとする矢先のことであった。肩にずっしり重くのしかかっていたものがはずされた思いであった。即刻宿舎の民家に引きあげた私は、兵隊達にも終戦を知らせ、今後の対応策を考えた。そして取りあえず、籾倉の番をしている西岡兵長ほか一名の兵を手元に呼び寄せることにして、伝令を出した。「西岡ら二名は、お前の指揮下から離れるが、何か事があったらお前の手元に掌握しろ」と川越中尉から言われていたことを思い出したのであった。
 これが殴られる一つの理由になった。「お前は連隊の米を二百把も無くしたんだぞ」と、私が自分の指揮下にもいない兵隊に、勝手な命令を出したことを鋭く責め、「これからすぐに出発して二百把の米を探してこい」と居丈高に言った。戦闘中はこそこそ隠れてばかりいた連隊長だったが、今はスターリン髭を生やし、ふんぞり返って威張っていた。
 私が連隊長から怒られている間、傍でじろじろ見ていた兵器係の西本准尉が、意地悪そうな声で、「おい、小野上等兵、お前はてきだん擲弾筒をどうした」と聞いた。「はい、途中で捨てました」と小野が答えると、「擲弾筒を捨てたことを小隊長は知っていたか」と連隊長が一際声を張り上げて聞いた。私は難儀な壕掘りに、只一人私を助けた小野をこれ以上責めさせたくないと思い、「知っておりました」と強い声で答えた。これが殴られる二つ目の理由になった。
 籾探しに出かけてから、私は擲弾筒をどこで捨てたか、小野に聞いてみた。そしてそれは彼が私の隊に入る一ヵ月以上も前の出来事であることを知った。「すみません、すみません」と、小野は何度も頭を下げた。
 「いいよ、弾丸のない武器など誰だって捨てる。戦争が終わったからと言って何を言い出すのか。」
と言って、うなだれる小野を慰めた。連隊長や西本准尉の言い分は「我々は未だこれだけ武器を持っている。戦おうと思えばまだまだ戦えた」ことを、米軍に誇示する必要があるというのであったが、全く馬鹿げた見栄というほかはなかった。
 収容所に入ってから数ヵ月経って、小野が私の幕舎を訪ねてきた。煙草を相当多量に持って、お世話になったお礼に来ましたと言った。散り散りになっていたのが、たまたま同じキャンプに収容されることになった時の事であった。配給の煙草を吸わずに貯めておいたものらしかった。それを見て私は、九州男児の中でも気丈な方の小野であったが、あの時の事が余程応えたのだなと思った。
 (西本准尉は、収容所に入ると、そのキャンプの日本兵全員の責任者になった。そして今度は米軍の収容所長のご横嫌をとって、さんざん吾々を苦しめたが、下士官の悪いところだけを身につけたような全く感じの悪い男であった。)