第一章 お前が証人だ

捕虜墓地から湧いた声        

   一

「お前が証人だ!」
 という霊の声が、私に迫ってきた。前からも右からも左からも湧き立つように迫ってきた。
「お前が証言しろ!」 という声も、それに次いで左前方の墓標群から聞こえてきた。その命令口調の声は、不思議と左前方の一角だけから聞こえてきた。
 その霊たちの声が聞こえたのは、同乗した下士官と私とが、次のような会話を交わした直後であ
「すごい数の墓標だが、これは?」
「日本兵の捕虜の墓です」
「一体、数はどれくらいあるんだろう?」
「二万です」「二万ぐらいということですか」
「いいえ、かっきり二万です。われわれが埋葬したのだから間違いありません」
「複数埋葬はありましたか。一つの穴に二人一緒に埋葬したことは?」
「複数埋葬はありませんでした。全部一人ずつです」 これだけの問答で、私の心にピーンとくるものがあった。
――これは米軍によって意図的に造られた墓地だ。二万本の墓標を立てることが、かれらの当初からの計画だったのだ、と思って、改めて墓地に目を向けた時であった。「お前が証人だ」という声が湧き立ったのは。
 私は「俺をここまで呼び寄せたのは、この霊たちだったのだ」と思った。そして口調を改めて側の下士官に官姓名を名告(の)り、部隊名と出身地を告げ、貴官の官姓名と部隊名と出身地を知りたいと言った。私が証人となるためには、この男の助けがぜひ必要だと思ったからであった。下士官も姿勢を正して官姓名や部隊名を私に名告ってくれた。
 私は、これは絶対に忘れてならないぞと思い、二、三度くり返して軽く言ってみて、頭の中にたたき込んだ。筆記用具を持たないので、そうするしか手がなかった。(しかし私は間もなく、そのほとんどを忘れ、わずかに階級の「軍曹」だけを記憶するだけになった)そして、この男になお聞いておかなければならないことがある筈だと思い、
「本間(雅晴)将軍や山下(奉文)大将も、ここに葬られていますか」
 と尋ねた。男の答えは、
「ここには葬られていないと思います」
 というものであった。物の本によると、将軍らの遺体は、夜間に米兵がここに運んできて埋めたとあるが、その下士官は、自分たちが関与しなかったので、ここではないと思うという答えになったのかもしれなかった。私は、それからわれわれが酷使された収容所について聞いてみた。傾斜と逆に大きな溝、クリークみたいな溝を掘らされたが、そこがどうなっているか知らないかを尋ねた。
「ああ、第10キャンプですか」
 と言って、下士官は、そのクリークは、PW(注)移動後に、米兵がブルドーザーで埋めてしまったという事ですよと教えてくれた。「やっぱり」と私は思った。あのきびしい重労働は、死者を出してここに送りこむのが目的で課せられたものであったことが悟られたからであった。
(注)日本人捕虜のこと。prisoner of warの略語。われわれは仲間同士でも「ピー・ダブリュウ」をさかんにもちいた。

   二

 下士官は間もなくトラックの荷台から降りていった。乗りこんできてから十分足らずの短い時間であった。しかしその短い間に、彼は実に重大な事実を私に示唆して去ったのであった。米軍による日本兵捕虜の虐待死が、計画的なものであったという事実をである。
 私がもし、広大で整然とした白い墓標群を見ることがなかったならば、又若しも埋葬者の下士官に遇うことがなかったならば、計画された虐待死に気づかなかったであろう。「たまたまひどい収容所長のいるキャンプに入れられたため、ひどい目にあった」と人に語るだけで終わっていたかもしれない。狭い視野からだけみて判断し、全体の把握ができなかったかもしれない。それができるようにするために、霊たちが私を呼び寄せたのかもしれないとその時感じ、その後もずっと感じてきている。
 しかし、その時から五十年が経つ今日まで、私はそれについて書くことができなかった。思い出しては、俺には書けないとあきらめ、俺の筆の及ばない事実だと断念しつづけてきた。そして大岡昇平とか山本七平とかいった、卓れた文筆家が書いてくれることをひそかに願いつづけた。しかし両氏とも収容所のことについては、何も書かないまま泉界へ去ってしまった。
 第二次大戦の捕虜虐待死については、敗戦国側ではあらかた明らからかにされてきている。又、戦勝国でも、ソ連のそれについては、おおよそ明らかにされてきている。欠けているのはアメリカのそれについてである。アメリカ人は人道的だ、捕虜を虐待して死に追いやるようなことはするはずがないと、戦後の日本人は考えつづけてきた。
 それがそうでもないと気づいたのは、ベトナム戦争の時からであった。ベトナム戦争で米兵は捕虜だけでなく、女子供、赤ん坊まで惨殺したことが報ぜられると、日本人たちは、アメリカにも非人道的な人間がいるのだと、驚きの目で見たことであった。そしてそれでもなおかつ、それは一部の米兵の狂気がさせたことであろうと考えるようつとめてきた。それにはいくつかの理由があることと思うが、その一つに、終戦直後のPWに対する扱いを、誰も書かなかったことを挙げることができよう。
 下士官と別れてから、三分ぐらいして、トラックは捕虜病院の門前に着いた。運転手の若い米兵は、相変わらず言葉を発することなく、手真似で、降りてあそこへ行けと病院入り口の方を指差した。
 それは昭和二十一年の十月ごろのことであった。山形の自宅を出発して、はや三年になろうとする秋のことであった。

 本間・山下両将軍の埋葬地 
 
  
マニラ・ラグナ湖周辺図
    
    一

 病人でもない「私が、捕虜病院に連れていかれたわけは後で述べることにしよう。その前に墓地と白い墓標群について、もっと詳しく述べておかなければならない。私は埋葬担当下士官に、一人分の墓地の広さについて聞くのを忘れたが、それは一坪よりも狭かった。しかし一メートル四方よりは広かった。だいたいその中間の半坪位かと見受けられた。それがトラックの荷台から見た私の印象であった。そして墓地の中には、トラックの入り得る道が縦横に切られていた。その証拠が次頁の写真である。
 これは角田房子氏の本によると、熊本市の高野定雄(注)というPWの一人がひそかに持ち帰ったものだという。私が見たのと同じ正真正銘の捕虜墓地(門の上の表示板には、「CEMETRY」とのみある)である。それが守屋正氏の手にわたり、その著『比島捕虜病院の記録』(昭和48年・金剛出版)に載ったものである。正面中央の山がマキリン山で、ラグナ湖南端に端正な姿で立つ山である。従ってこれは西南の方から東北向きに撮った写真である。そしてマキリン山左方に白く平らに写っている所も墓地である。左方はあらかたこの写真に写っていると見てよい。下段の写真はその右方を門の前から写したものであるが、写真に入り切らない所もある。しかし右方の伸びはそう大きくはなかった。総体的に五分の四は、この二枚の写真に写っていると見てよいと思う。実に貴重な写真である。
 それから墓標であるが、地上の高さが一メートル二、三十センチぐらいで、一辺が十センチほどの真四角の柱であった。それがペンキで白く塗られてあったが、縁の方のいくつかには、上方に二、三十センチの横板が取り付けてあり、十字架のように見えた。私は「十字架かな」と思って見たが、全部に取り付けてあったわけでないから、整理用のナンバーでも書いてあった板かもしれない。道路から最も近い墓標でも十メートルは離れており、近眼の私にそこまでの識別はできなかった。総体的に墓標は、角柱に白ペンキを塗っただけのもので、台座の如き物は何もなく、地面に直接立てられたものであったと言ってよいであろう。
 その墓標群が実に整然と立っていて、地面に草一本生えていないのを見て、私は最初アメリカ兵の墓地かなと思ったほどであった。それがPW(日本人捕虜)の墓と分かってからも、「さすがはアメリカだ。元敵兵のためにこんな立派な墓地を造ってくれて」という気持ちが湧いたのも偽らない事実であった。
 だが、その数がかっきり二万であると聞いたとたんに、そういう感謝めいた気持ちは消し飛んでしまった。これは意図して計画的に造られた墓地だという思いを強く持ったのである。そして多くの死者が出た第一次収容所での重労働と飢餓作戦に思いが及んだのであった。
(注)私は熊本市在住の戦友に頼んで高野定雄氏を探してもらったが、電話帳にその名は見えないという返事であった。

    二

 終戦による日本兵(注1)投降者の数がフィリピンだけで二十万人に及んだことは、第一次収容所長の伝達によってわれわれに知らされていた。それがアメリカ軍の想像していたよりもはるかに多い数であったため、衣服や靴などの支給ができないのだと、最初の伝達の際に伝えられていたからである。そして戦史の語る所も、概数としてほぼ一致している。軍属や従軍看護婦などを含め、約二十万人が投降したことは事実として認めてよいであろう(注2)
 その一割が二万人である。二万柱の捕虜墓地を造るについて、全体の一割という線が一応の目安になっただろうという想像はつく。だがそれにはもう一つの理由があり、その方がより重大な意味を持っていただろうことは、後に述べる通りである。
 ところで私は、シベリア抑留の死亡者数をひきあいに出して見たいと思う。新聞報道によると、抑留者総数約五十六万人、死亡者数は約六万人と記されている。これは鶴岡市の斎藤六郎氏らの努力により、調べあげられた数なので、信用してよいものと思う。厳冬のシベリアの地に平均五年間も抑留され、六万人もの日本人が死亡したという事実はただごとではない。抑留期間の長さだけでもフィリピンのそれと比べものにならない。
 だが、そのこととは別にシベリア抑留者の死亡数が一割(強)であったという事実と、比島捕虜墓地に送られた数が全体の一割であった事実とを比べて見てもらいたい。しかも比島の場合、二万柱を埋葬するのに二カ月しかかからなかった。重労働と飢餓作戦がいかに苛烈なものであったかを物語る数字と言えよう。
(注1)それがかなり水増ししたでたらめな数であったことは、別に記す通りである。
(注2)この文を記した時は、そう思っていたが、〈補記〉に記したように訂正が必要である。
 
    三

 ここで本間(雅晴)中将と山下(奉文)大将の埋葬場所について、私の考えを述べておきたい。守屋正氏の著書も写真の墓地(CEMETRY)の中とし、角田房子著の本間中将伝『いっさい夢にてござ候』(中公文庫)も、不確かだがとは言いながらも「カンルバンの埋葬場」の中のような書き方をしている。カンルバンは、カランバの西の村の名である。本によってカランバの墓地とも書かれているが、要するにカンルバンとカランバの中間の荒地に墓地や収容所があったわけである。
 この「CEMETRY」が果たして両将軍の埋葬地であり得たかどうか。私は守屋・角田両氏の推定に甚だ疑問を持つ。それは前記の埋葬担当下士官の「ここではないと思う」と言った言葉に拠るものだが、その言葉は重視すべきものと考える。彼は埋葬の仕事がなくなってから、墓地の管理・保全に携わってきたふうであったが、新加の埋葬地があれば、彼の目に必ず止まったであろう。縦横斜めに整然と配列された墓標群であったから、新しいのが加われば、一ぺんで見分けがついたと考えられるのである。
 従って両将軍の埋葬地は、その近傍であっただろうことは考えられるが、墓地内ではなかった可能性が大である。処刑された遺体を、深夜に米兵が極秘裡に運んできて、近傍の薮の中に埋めたものと私は推定する。PWはもちろん現地人の目にも、絶対に分からない状態にである。結局両将軍は、角柱の墓標さえ立ててもらえなかったのが実態であったと思うのだが、いかがであろうか。
 今年の十一月の下旬に、私は山形県民会館の地下で「アウシュヴィッツ展」を見た。そこに作業班の事を描いた数枚の絵があったが、比島収容所(第一次)の待遇と比べて、よっぽどましであったことを知って驚いた。特に食事風景の絵を見て、そう感じた。
〈補記〉厚生省調査の復員者数 本稿を記した時点で、私は右に挙げたような数字を信じていた。が、その後、平成十年九月十八日に、厚生省に電話して聞いた比島復員者数によって考えると、投降者数を大幅に訂正しなければならないだろうと考えている。終戦直後の厚生省の調査は正確無比だとは言えないかもしれないが、それは次の如きものであった。

 ○フィリピンからの復員者数
 厚生省援護局企画調査資料室調
    平成九年一月調
  軍人、軍属           一○八、九一二人
  邦人               二四、二一一人
  計               一三三、一二三人
  但し、陸地点で手続きを取った者の数
 これによって起こるパーセンテージの違いは、後で検討することにして、今はとりあえず、その数字だけを挙げておきたい。

 煉獄の入り口

    一

 山形高等学校(現山形大学)に入学して、私ははじめてダンテの『神曲』を読んだ。そしてその格調の高い文章に魅せられた。特に地獄篇・煉獄篇・天国篇のうち、煉獄篇は二度三度くり返して読んだ。われわれがそれまで学んだ東洋の学問にない言葉であり、東洋思想の上からは存在しにくい世界だったからである。
 地獄よりも、もっと苛酷なきびしさを持った煉獄、そこを通過しなければ天国へは達し得ない。『神曲』はそう語っていた。これが私のすぐ先の未来を暗示する文章になろうとは、ゆめ知らずにそれを読んだ。天国と地獄という単純な図式しか描けなかった私にとって、それは驚きであると同時に恐怖でもあった。
 その『神曲』のストーリーは、フィリピンの戦場においてそのまま展開された。戦場は地獄さながらであった。地獄そのものであったと言ってよいかもしれない。それについては多くの「比島戦記」が語っているので、ここでは割愛する。いま書き進めようとしているのは煉獄篇である。武装解除から捕虜収容所へ至る間の出来ごと、収容所での苦役のこと、捕虜虐待死の事などである。

    二

 太平洋戦争に突入して、アメリカで唱えたスローガンに“パール・ハーバーを忘れるな”と共に“バターン死の行進を忘れるな”があったという。「バターン死の行進」というのは、昭和十七年四月に、米比軍の捕虜約八万五千人(角田房子氏の『本間中将伝』によると、アメリカ人約一万五百人、フィリピン人七万四千八百人)をバターン半島からサンフェルナンド(南)まで行軍させ、アメリカ人千二百人、フィリピン人一万六千人を死に至らしめた事件で、行軍のの距離は六十キロであった。 この事件が煉獄篇に大きな関わりを持ってくる。バターンへの報復、それが最初から意図されており、綿密かつ周到に用意されていた。そして米比軍の死者の合計した数一万七千二百人が、捕虜墓地の二万の墓標の標準になったものと思う。私は先に全捕虜の一割を標準にしたかと述べたが、それよりも「バターン死の行進」の死者の数の方が、より重い標準になったものと思う。バターンの死者の数に利息をつけたのが、二万人の虐待死であったと思う。 それでは本間裁判で検事の読みあげたと見られる右の数字に誤りがなかったか。右の通りとするとアメリカ兵の死者が一一・四パーセントなのに対し、フィリピン兵の死者は二一・三パーセントになる。暑さに慣れている現地兵の方が倍の比率で余計に死んでいる。これはおかしい。死の最大の理由は猛暑であったと思われるが(フィリピンは四月、五月が一番暑い)、暑さに強い方が倍も余計に死ぬことはない。これは比島臨時政府の水増しの報告によるものではないか。それをマッカーサーが鵜呑みにしたものだと思う。

    三 
 
ルソン島北部地図

 昭和二十年九月十五日に、わが工兵隊は北部ルソンのカバヤンにおいて、第一次の武装解除を受けた。小銃と軍刀以外の重火器類、天幕、毛布、背嚢、雑嚢等を没収された。略帽も取られ、飯盒、水筒も没収された。帽子や水筒を取り上げられたとき「おかしいぞ」と思ったが、それが虐待の準備であったことにはまだ気付かなかった。
 翌日、われわれはボントック道55K地点をめざして坂道を登っていった。二度目の本格的武装解除を受けるためであった。だがそこはたいへんな崖道であった。蔵王山の旧道ザンゲ坂は急勾配で有名だが、それを五倍も十倍も続けたような急勾配の連続であった。そして道は直線状に切れていたため、一息入れようにも入れようがなかった。ころげ落ちないように左右の潅木につかまりながら上をめざすほかなかった。
 後で調べて分かったことだが、カバヤンと55K地点との標高差は約千メートル(カバヤンの標高千三百メートル56K地点の標高二千三百二十メートル)であった。それをまっすぐ登るのが、ここの坂道であった。険しい山道には慣れてきていたわれわれも音をあげたくなるようなひどい崖道であった。時おり休憩をとりつつ登ったが、休憩といっても灌木につかまってつっ立っているだけであった。
 六百メートル位登った所で、やっと腰をおろす場所を見つけ、小さなおにぎりを食べた。そして食べ終わると水が飲みたくなった。しかし水筒を没収されたので水はなかった。米軍による″水攻め″のはじまりであった。水筒を取り上げたのもそのためであった。だが竹筒に水を入れてきた人がおり、一口ご馳走してくれた。実においしく有難い水であった。
 休憩している間に日が暮れてきたので、そこで仮眠をとることになった。標高は二千メートルに近づいてきたのか夜気が冷たかった。熱帯でも高山になると、夜は冷えるが、毛布は没収されていたので、そのまま眠るほかなかった。
「体を横にするな。体温を地面に奪われて死んでしまうぞ!」
 と誰かが大声で注意してくれたので、座ったまま膝をかかえて眠った。こういう眠り方をするのは、ベンゲット道キャンプ3(スリー)で、米軍陣地に斬り込み攻撃をかけた時以来だなと思いつつ、疲れのためにかなりよく眠った。

 終戦直前の山下軍団は、北の山岳地帯に逃げ込んでいた。特にボントック道東側の山間に大部分の部隊が逃げ込んでいた。従って旭兵団の工兵隊だけでなく、他の部隊の多くもこのコースを辿らされた。
 煉獄の入り口は、険しい山であり、それをよじ登らなければたどりつけない所にあった。
〈補記1〉二世日本兵オガタ アキラとの再会 日本が連合軍に降伏したのは昭和二十年の八月十五日。それが奥地のわが小隊に知らされたのは、二週間以上経ってからであった。そして四カ月振りに、工兵原隊の第二中隊(落合隊)に復帰した。師団司令部付の四カ月間は、一中隊、三中隊からの寄せ集めの兵隊を指揮していたが、改めて落合隊に戻り、緒方明軍曹に会うことになった。緒方はキャンプ3で受けた胸の負傷も癒え、元気になっていた。しかし、小隊員は小隊長(後藤見習士官)、分隊長(緒方軍曹)、兵二名の計四名に細ってしまっていた。小隊員は常時六十名、分隊員は十二名であったことと比較すると、分隊の三分の一しか残っていない勘定であった。それでも私は、緒方に会えたことを喜んだ。キャンプ3で一緒に斬り込みをし(注)、共に九死に一生を得た緒方は、誰よりも会いたい存在であった。
 緒方は側にいるだけで、ゆとりと温みを感じさせる人間であった。その点では平田耕造見習士官と似ていたが、彼にはそれにプラスするものがあった。彼の英語力である。小学校までアメリカで育った二世の緒方の英語は、捕虜になる時、捕虜になってからも私の役に立ってくれるであろう。そんな期待を持たせた。しかし、彼と一緒にいたのは四、五日に過ぎず、又離ればなれになった。カバヤン入りをした九月十五日に、彼は通訳要員として米軍側に引き留められて、二度と我々の前に顔を見せなくなってしまったからである。
〈補記2〉カバヤン滞在二日間の助けの神 われわれ工兵隊員百二十九名は、昭和二十年九月十四日に、カバヤン村の東端に入った。そして入るや否や、二世通訳らしき男が現れて、階級章を剥ぎ取って渡すよう命令した。そして、これからは一切の階級が存在しない旨を伝えて去った。その通達を聞くと、それまで身の廻りを世話してくれた当番兵も、手の平を返すように側に寄らないようになった。そして翌十五日に村の西側に移動して別の民家に入り飯盒その他の装具を取り上げられたわけだが、その間、米軍からの支給は全く何も無かった。
 こうなると、空きっ腹を抱えてただ座っているより能のない私であったが、ここでも救いの神が現れた。工兵学校以来の僚友の平田耕造見習士官であった。「ゴトウ、ちょっと来いや」と言うので外に出てみると、おにぎりが二つ用意されていて、「これを食え」と言った。松下正生見習士官(工兵隊)と私は、ありがたくその恩恵にあずかった次第であった。そして翌十六日に、私が彼らより何日か早く出発する際に、「これを持って行け」と言って、小さなおにぎり二箇を渡してくれたのも平田君であった。坂道の途中の休憩時間に私が取り出して食べたのは、そのおにぎりであった。(この事を私は忘れていた。彼から言われてやっと思い出したのは申し訳ないことであった)
〈補記・3〉カバヤンの坂道の距離 カバヤンからボントック道56K地点へ登る坂道は、現地人も辟易する急坂道だが、距離は一体どれ位あるのだろうか。米軍将校が村上喜重氏に語ったところによると「この山道は登り七・五キロある。登り終わると今度は平坦地となる。少し歩くと急な坂道となりこれが三・五キロあり、これを登りきると上はボンド道で、五十六キロの武装解除の場所だから頑張るように」と言われたとあり、十一キロ余あったことが分かる。崖道といってもよい登りづめの十一キロがどんなものであるか、若手のジャーナリストに一度試してもらいたい気がする。
 昭和四十八年十一月末の遺骨収集時に「俺が遺骨収集に協力するのは、金のためではない。友人達の遺骨を収集するために、海の向こうから来たと聞いたら、俺はどこの国の人にだって協力するさ」と豪語していた比島人のさむらいベロン(Berong)氏(元比軍少尉)も、この坂道に挑もうとする我々を見て、「この坂だけはご免だ」と言って、姿を消してしまった。並でない難路であることが推し量られるであろう。
(注)山崎豊子の小説『二つの祖国』で天羽(あもう)忠(緒方がモデル)は、バギオで負傷し、捕虜になってしまうが、実際はそうではなかった。

 死の行進への報復

 米軍が標高二千三百二十メートルの高所で武装解除を行った理由の一つは、カバヤンの急坂を登らせて疲れさせることにあった。そしてもう一つの理由はボントック道55K地点からバギオまで六十キロになることにあった。その間を行進させて、「バターン死の行進」のお返(注1)しをすることにあったのだ。
 われわれは、小銃や軍刀を路傍(道路より少し高い尾根の側面)に積み重ねて置き、受付で申告を済ませた後、ボントック道を南へ向かって行進させられた。監視の米兵が側について、かなり早い速度で進まされた。道路の状態は、標高から見て月山頂上のような石ころだらけの路を想像する人がいるかもしれないが、そうではなかった。踏み固められた土の道で、でこぼこ道ではなかった。
 山の嶺では雨が降ったらしく、路面の状態は良くなかった。ぬかるむ程の泥濘ではなかったが、泥が靴について足どりの妨げになった。われわれは五列縦隊になって、黙々と歩きつづけた。話をしたり、声を上げたりする人は一人もいなかった。
 途中に水飲み場はなく、民家もなかった。だが時おり小雨が降ってきて、渇きを癒してくれた。むき出しの頭に降った雨が顔を伝って流れてくるのを、舌で受け止めて喉に流しこみつつ歩いた。小雨が渇きの助けになったわけだ。
 雨にはそういうプラスの面もあったが、しかし頭髪を濡らし衣服を濡らすマイナス面もあって寒かった。特に夜になると寒さが身に沁みた。動いているうちはまだよかったが、夜中に長時間の休憩があり、こごえるような寒さを味わった。こんな時にマラリアを再発させたらおしまいだと思い、気を引きしめてなるべく体を動かすようにつとめた。とは言っても横に動くスペースは無かったので、停止した場所で立ったりしゃがんだりしながら一夜を過ごした。
 前日からの疲れもたまっていて、本当は一眠りしたかったが、一睡もできなかった。路面は泥になっていて腰を下ろすことができず、馬の背のような道路の端にも、腰を下ろせる場所が無かったからである。そこは30Kー40Kの中間地点あたりだったと思うが、標高二千メートルぐらい、その日の最低温度は五度―七度位まで下がっていたのではないかと推測された。(ルソン島の高山に雪は降らないが、気温は四度ぐらいまで下がる)
 食料についてはよく記憶していないが、東京の平田耕造氏(旭、工兵、見習士官)によると、三食分のKレーション(米軍の携帯口糧)が与えられw^えられbえられいないが、東京の平田耕造氏(旭、工兵、見習士官)によると、(注2)三食分のKレーション(米軍の携帯口糧)が与えられたようだ。これは二箇一組の缶詰で、一方はコンビーフ、一方はビスケットといった組み合わせになっていた。日本軍の携帯口糧の乾パンに比べ栄養価は高く、栄養のバランスの取れたものであった。しかし小さな缶詰なので満腹感は覚えなかった。それを二日がかりの行軍に三食分しか与えられなかったから決して充分な給与とは言えなかった。(注2)

 この六十キロ行軍は「バターン死の行進」の報復のメインとして課されたもたのだろう。従って米軍側としては、これによって途中の斃死者をかなり出せると踏んでいたのではないか。「バターン死の行進」
ほどにはゆかなくとも、かなりな数の死者を出せる筈だと見込んでいたのではないかと思う。
 それにしても、鳥海山(二、二三六)より百メートルも高い所に登らせて武装解除を行うなどは戦史に例のないことである。他に道がなかったわけではなく、ボゴトの方へ南下する楽な道があったのに、わざとボントック道の最高所(56K地点が最も高くて二千三百二十メートル、南下するにつれてだんだん低くなる。又、北のボントックに向かっても徐々に低くなる)を選んで武装解除を行ったのである。それには二つの理由があっただろうと書いたが、更にもう一つの理由があったものと考えられる。それは山下大将の指揮する軍勢が、終戦近くになってもなおこの近辺で米軍側にダメージを与えつづけていたという事実である。それは専ら斬り込み戦術に頼る肉弾的攻撃であったが、それに対する憎しみも強かった。米軍をなるべく長くルソン島に引きつけておくとする山下戦術が具現されたのがこの地域であり、それに米軍がてこずったのもここを中心とする山岳地帯であった。その手下(てした)共をやすやすと許すわけにはゆかなかったのだろうと思う。

 比島戦記類の数は多く、山鹿菊夫氏(山形市東原町)によると、四、五百冊に達するのではないかという。そして山鹿氏自身がその半数近くを所蔵するというので調べてもらったが、武装解除や捕虜収容所について書いたものはほとんどないということであった。あっても軍属などの特別待遇者のものに限られるということであった。
 ところがたまたま我が書庫を整理していると、郡山市の村上喜重氏の著した『生魂』(昭和50年)という本が見つかった。村上氏は郡山で農業に従事しているところを徴集され、後に旭兵団の64連隊に補充された人だが、その本に山坂越えや武装解除について書かれていることを知った。
 聞けば、この地点(注・56K地点)付近は国道上でも一番高い海抜二、三二○メートルの場所という。なぜこんな高地に出させたのか、戦争終結を聞いた場所から距離にしても山谷を渡り、三―四十キロの部隊もあったろう。さらに先程の如き山越えがあり、最後まで骸骨のようになって耐え抜いた生命力が、無謀な集結地のため無情にもはばまれたのである。

 村上氏が山越えの途中で、行き倒れの死者を見た時の気持ちを率直に述べたのが、右の文章である。高地(注3)での武装解除を無謀なものと憤激し、その為に屍をに屍をすことになった戦友達の運命を慨嘆している。
(注1)トリニダドまで五十五キロ、トリニダドからバギオまで五キロであった。
(注2)その後、平田君によく聞いてみると、Kレーションが与えられたのは西海岸のバウアンに着いてからであった由。われわれもそうであったと思うので、訂正する。
(注3)村上氏が武装解除を受けたのは56K地点である由。我々の場合と一キロずれる。銃や軍刀などの置き場所が無くなったので、一キロずらしたものかと考えられる。
〈補記1〉村上喜重氏と米比軍の厚遇 足を患い、ろくに歩けなくなっていた村上さんは、終戦時の集合の時も戦友に背負われて山を下りなければならなくなならなくなっていた。そしてついに第四野戦病院(といっても単なる患者集団)に預けるという名目で、部隊(旭兵団64歩兵連隊)から捨てられてしまった。その時の状況は戦記『生魂』(昭和50年)にくわしく述べられているが、それ以後の米将校や比島兵士達の厚遇には心暖まるものがある。当時の米兵がすべて「報復の鬼」になっていたわけではないあかしにもなっている。
 村上さんは、収容所もロスパニオスの優遇キャンプに入れられ、劇団員の一員となり、女形役としてPW達の心を慰める働きをされたことも著書に記されている。日本軍に捨てられたことが、その後の捕虜生活を楽に過ごし得た理由になっているわけである。
〈補記2〉一緒に帰ろう 昭和四十八年十一月の末、われわれ遺骨収集隊員は、ポントック道を北に向かったが、45Kか50K地点のあたりで、班長の吉富元大尉が車(ジープニー)を止めた。そして東側の谷底に向かって、
「オーイ○○君、迎えに来たぞ! 一緒に帰ろう」
 と叫ぶのを聞いた。悲痛な声をふりしぼって三度呼びかけるのを聞いた。
「どうしたんですか」
 と私が問うと、彼は、
「この谷底に○○君が眠っている。六十キロ行軍の時、彼はこのあたりで斃(たお)れたので、後から来る人に踏まれないように谷底に葬ってやったのだ」
 と説明した。
 それなら遺骨の収集も可能かと思い、谷底をのぞいて見ると、そこは断崖絶壁で、底の深さも測り知れない所であった。
 行軍中に私の前後で斃死した人は出なかった。斃れかけて米兵が急いで寄ってゆくのを一人だけ見たが、すぐ元気を取り戻したようであった。生き残りの日本兵は、なんて不死身なんだろうと、私は感心して見ていたが、他の場所では死者も出ていたのだ。しかし、行軍中にどれくらいの人が死んだのかということになると、全く見当がつかない。
 
 蜘蛛の糸

   芥川龍之介に「蜘蛛の糸」という短篇小説がある。かん陀多(かんだた)という大悪人が、天上の御釈迦様の垂らした一本のクモの糸を伝って、地獄の血の池から這い上がっていく話である。
 戦友達の遺髪を燃やして(注 63頁参照)、死の準備を完了した翌々日に、カランバの血の池に一本のクモの糸が垂れてきた。「農業専門家三十名を募る」という所長通達であった。「これは天の声だ」と思って私はそれを聞いた。それに縋れば、或いは助かるかもしれない。かん陀多は欲心をおこしたため、糸が切れて血の池に逆落としの目にあったが、とにかくそれに縋るしかないと思った。
 しかし、たった三十名の農業班に入れてもらえるかどうかが問題であった。私が学徒兵であることは、責任者(中隊長)の西本准尉もよく知っていた。そしてその西本が、原隊の時から私に、良い感情を持っていなかった。
 それで私は工兵隊で私の下級者であった谷吉(注)(たによし)誠造准尉に頼んで、西本に折衝してもらうことにした。学徒兵でも私は、自作農家の出身であること、山形県の農学校を卒業していることを強調してくれるように頼んだ。
 そして谷吉准尉の二度に亘る親切によって、私は農業班の班長になることができた。クモの糸をがっちり掴むことができたのであった。
 農業班として柵外に出ることになったが、仕事が特に楽になったわけでもなかった。屈んで畑を耕す仕事は、立って土を運ぶ仕事よりきついと思うこともあった。しかし、ここにも命の恩人がいて私を救ってくれた。青森県出身の青山上等兵であった。彼は私の仕事が遅れているのを見ると、ガードの目を盗んで「班長! コウタイ」と言って、自分の進んだ畝と交換してくれた。にせ農夫の私は、彼の半分位しか仕事ができず、一日に四度ぐらいずつ彼の捗(はかど)った畝を譲ってもらった。
 農場は門を出て二百メートル位離れた東の隣接地にあった。そこに水は出なかたので、われわれは朝から夕方まで水無しで働きつづけた。飲料水については、ジュネーブ条約でも虐待禁止事項の一つに挙げられているが、マッカーサーの部下達は頓着しなかった。従って作業場で小用に行くこともなかった。
 排泄について言えば、小用は日に一、二度、大の方は絶無であった。こう言っても今の若い人には信じてもらえないと思うが、第一次キャンプの二カ月間、第二次キャンプの二カ月間の、計四カ月間は、全く大便をしたことがなかった。大便所がどこにあるのかも知らなかった。腹に入れたわずかの食料は、全部吸収されるので排泄するものが無かったわけだ。
 ついでに水だが、水ぐらいはがぶがぶ飲んだだろうと思う人がいるかもしれないが、そうではなかった。塩気のうすい雑炊を、大匙三杯半ずつ二度食べるだけであったから、そんなに飲みたいとも思わなくなっていた。武装解除以来つづいた″水攻め″に体が
馴れてもきていたし、小便と共に栄養分を体外に出してしまうことが勿体ない気もした。それでも昼の三十分の休憩時間には、喉をうるおすくらいのことはしたかったが、畑のどこにも水はなかった。
 とにかく私は、農業班に移り、そこに青山氏という救いの神がいたため、助かった。農業班にも一度トラブル(補記2)が起き、班長の私が責任を問われて奈落へまっ逆様という事態に追い込まれるのではないかとあやぶまれたが、大事には至らずに済んだ。

 そして入所以来、七週間が経ったある朝、「今日の作業は中止する。テント内で休憩せよ」という所長命令が伝達された。
 それから間をおかず、衣服、靴、帽子とつぎつぎに支給された。一週間分だといって、タバコ六本も支給された。やっと奴隷以下の生活から解放されたのであった。いつ切れるか分からなかったクモの糸でなく、なかなか切れない麻の糸を掴むことができたのであった。――しかし、これを後から考えると、この時点で二万人墓地が完成したことを意味していた。言葉を換えれば、この時点で日本人捕虜二万人の大虐殺が完了したことを意味していた。昭和二十年十一月末日近い朝のことであった。
 私はこの暗い手記を、本稿をもって終わりにしたいと思うが故に、私がなぜ二万人墓地を目にするようになったのかといったことや、米軍の徹底した秘密主義について語ることは割愛しなければならない。
 そしてただちにその墓地のその後について語ることにしよう。カンルバンからカランバにかけての広大な墓地は、今は砂糖黍畑に変貌している。そこに二万柱の墓標群があったことなど、全く感知させない状態に変わってしまっている。昭和四十八年に私は、政府派遣の遺骨収集隊の一員として、その地に立ち、変貌ぶりを目のあたりにしてきた。
 その時同行した厚生省の役人、伊藤事務官は、墓地について何か知っている様子であったが、何も語ってくれなかった。出発前の書類に私は、この墓地の存在と埋葬者数等を書き込んで提出しておいたので、収骨地点にそこを加えなかった理由について弁明があるものと思ったが、何も話そうとしなかった。墓地の門のあったあたりに車を止め、伊藤事務官を問いつめたとき、彼から聞き出し得た返事は「ここからは一体の遺骨も収集しておりません」という言葉だけであった。あとは頭をかかえてしゃがみこみ、何一つ答えようとしなかった。
 その時から二十余年が過ぎ、戦後五十一年目の今日、私は改めて厚生省に問いたい。これからもカンルバン墓地について、ひた隠しをつづけるつもりかどうか、と。
(注)准尉と見習士官の身分関係は微妙で、将校勤務に早く就いた方が上位者であった。西本は私より早く将校勤務に就いており、谷吉は将校勤務に就いたことがなかった。見習士官を上位に書いた本もあるが、正確ではない。

〈補記1〉谷吉誠造准尉の厚意 旭工兵隊から、第10キャンプに入れられたのは、次の五名であった。
 西本末雄(熊本県)   連隊本部   准尉
 永田時男(宮崎県)   第二中隊   准尉
 後藤利雄(山形県)   第二中隊   見習士官
 谷吉誠造(鹿児島県)  第二中隊   准尉
 松浦順次(鹿児島県)  連隊本部   准尉

 米軍には見習士官という階級はなく「准尉」と訳されたので、右の五名は同階級者であった。下士官・兵は誰もいなかった。
 そして米軍の気の配りは緻密で、同じ部隊の者を同じテントに入れることをせず、ばらばらに離して入れていた。
 これらの中、西本准尉は軍歴も永く老獪な准尉で、いつの間にか第10キャンプ全体の中隊長に就いていた。彼は原隊の時から私を良く思っていなかったので、困った奴が中隊長になったものだと思ったが、どうしようもなかった。
 それ故、私が農業班に移りたいと希望した時も、彼のところで断られるおそが多分にあった。「おたくが農業の専門家だって? おたくは学生でしょうが」といって撥ねつけられるかもしれない。搦め手から攻めて、余程うまく立ち廻らないと実現の見込みがないと思った私は永田准尉の所に西本折衝の依頼に行った。
 眠りから覚めた永田は「それは良い考えですね」と言ったきり、又毛布を被って寝てしまった。彼は私より早く将校勤務に就いていた准尉だから、身分は私より上であった。
 仕方なく私は、次に谷吉准尉の幕舎を訪ねた。谷吉も眠っていたが目を覚まして早速行動してくれた。彼は終戦直前に准尉になったばかりで将校勤務についたことがなかったから、私の方が上位者であった。とはいえ、面倒がらずに即座に動いてくれたのは有難かった。
 当時は重労働と飢えのため、暇があれば一秒でも多く眠り、体を休めることを心掛けていた時であった。人の面倒をみる余裕など誰にも無かった。なのに谷吉は、その五日後、更にもう一度西本准尉の所に足を運んでくれて、私の農業班長就任が実現したのであった。
 私は戦後の部隊会で五回、谷吉准尉に会った。そしてその度ごとに当時の礼を懇ろに述べたいと思った。しかし彼は部隊の人気者で、いつも三、四人の者に取り囲まれていた。そして私は「この次にしよう」と諦めつづけてきた。命の恩人とも言うべき谷吉准尉には、懇切な謝辞が必要で、立ち話程度では駄目だと思ったからである。
 その谷吉准尉も数年前、あたふたとあの世に旅立たれたと聞いた。残念この上ないことであった。
〈補記2〉農業班に起きたトラブル 農業班に移って三週間ぐらい経った頃、たしかSという名の男が、トラブルを起こした。三十名の農業班を、十五名ずつの二組に分け、その一組が他の畑へ行った時のことである。Sは誘惑に勝てず、路傍の砂糖黍を一本ひき抜いてかぶりついた。
 それを見つけたガードが、手にしていた疣(いぼ)だらけの鞭で、Sの背中を滅多やたらに打った。そのためSの背中に無数のみみず腫れができた。
 帰ってからSは、それを西本中隊長に訴え、西本から所長に訴えられた。所長は「それは打ったガードの方がよくない。軍法会議にかけて厳重に処分してもらう。Sはその際の証人だから、明日から作業に出ず幕舎で待機するように」と通達した。
 私は、これは大変なことが起きたと思った。ひょっとしたら私の農業班長は解任され、元の土方班に逆戻りさせられるかもしれない。そう思った私は、西本中隊長の所へ詫びに行った。そしてこういう不祥事は二度と起こさないよう誓った。西本は「その組に君がいない時に起きた事件だから、君に何の責任もないよ」と言ってくれたが、その言葉通り、私に何の咎めもなかった。
 なおSの証人喚問は、一週間経っても二週間経っても無く、ついにキャンプの移動日を迎えた。そしてSだけが元キャンプに取り残されることになったが、彼のその後について私は何も知らない。

 水攻めの策

 
バギオ周辺の地図
  ルソン島中北部地域要図

 六十キロ行進の終点はバギオであった。バギオはフィリピン第二の都市(当時。今は第三位になったらしい)で、海抜千五、六百メートルの高所にあり、国際的避暑地として有名な町であった。そして山下大将の司令部のあった場所であり、私共が前線へ赴く前に、幹部候補生として最後の一カ月を過ごした思い出の町でもあった。
 このバギオに二日滞在したが、穏やかな二日間だった。食事はパンの間にハンバーグを挟んだだけの簡単なものであったが、それが高級な食べ物に思えてありがたかった。たっぷり塩味の効いたハンバーガーには平和の味がした。山中で二カ月近く塩なしの生活を強いられた我々にとって、久方ぶりの人間らしい食べ物であった。前途に明るさが見えはじめたと思わせる二日間であった。――だがこの見方は甘く、間違っていた。虐待の嵐の束の間の中休みに過ぎなかった。
 二日が過ぎて、われわれはトラックの荷台に詰め込まれた。出発直前に米兵が一人、そこに割り込んできて、時計を着けている人を見つけ、強奪して行った。それからナギリアン街道を西に向かって進んだ。そして平地に近づいたころ、きびしい″水攻め″に遭った。止めたトラックが、三時間経っても四時間経っても動かず、そのまま放置されたのだ。気温は三十五度を超していたであろう猛暑の下で、無帽の私たちは、天日に曝されていて、策の施しようがなかった。そしてそのあたりに水けは全くなかった。
 三時間ほど経って、渇きも極限に達したころ、小用から戻ってきた一人が「水を見つけてきたから、三人で飲みに行こう」と、小声で誘った。見知らぬ顔であった。でも水と聞いてさっそくついて行って見ると、水牛の足跡に溜まった泥水であった。
「ボウフラがうようよいるので、このままでは飲めない。だが濾(こ)せば飲める筈だ」と言って彼は手拭をひろげた。一人が掬い、一人が濾し、一人が下で掌に受け止めて飲むというやり方で、交代交代にそれを飲んだ。ボウラが一度に五、六匹ずつ手拭に残ったが、それは泥と共に烈しく振り落とした。この泥水が渇きを癒してくれた。それまで飲んだ水で最も汚い水であったが、救いの水でもあった。人よりも多汗体質の私にとっては、特にありがたい泥水であった。
 平成七年の四月に私は、アンコール・ワットを見るため、山形旅行クラブのツアーに参加して、カンボジアへ飛んだ。四十度に達する猛暑の中での観光であった。そして大汗をかいた私の体重は、たった六日間で八キロも減ってしまった。病気にかかったわけではなく、大汗をかいたためであった。私はつくづく、汗かきの体質は老齢になっても治らず、かえってひどくなっていることを知って驚いた。

 人間は、何より先に水の必要な生き物である。人間生活に必須なものとして衣食住が挙げられるが、それよりも大切なものは水である。そのことを米軍側が承知していて、虐待方法の一つとして水攻めの策を用いたものであった。水筒を没収し、代用の竹筒も取り上げて、水を飲ませない工面であることが歴然としていた。バターンで日本軍がこんなひどいことをしたのだろうかと訝りながら、我々はそれに耐えるしかなかった。(日本軍がバターンで、水攻めを行ったという記録は残っていない)
 一掬いの泥水を飲んだことで、焼けつくような渇きから一先ず脱したとはいえ、そんな物で癒される渇きではなかった。カバヤンの坂道、六十キロ行進、ナギリアン街道と、相つぐ水攻めによって、私は脱水症状をおこしていたのか、このあたりから記憶が混濁する。断片的にしか記憶を呼び戻すことができないのだ。
 トラックが到着した砂浜がバウアンと呼ぶ鉄道の始発駅であったことも、後から人に聞いて分かったことだし、貨車に詰め込まれる前に、そこに一泊したのかどうかも覚えていない。又、そこから約四百キロ南下してカランバの収容所に着くまで、一日がかりだったのか、一日半かかったのかも覚えていない。脱水症状は人に精神障害さえひきおこすというが、私の場合も痴呆状態に陥ったものであろう。ただ覚えているのは、貨車が停止するたび、
「バカヤロー、ドロボー」 という住民達の罵声が浴びせられたことだ。罵声と同時に石つぶてが無数に飛んできて貨車の側板に当たったことだけだ。そして今度こそ水が飲めるのではないかという期待を、そのつど打ち砕かれたことだ。
 その時一車輌に詰め込まれた人数が、百人だったのか、二百人ずつだったのかも覚えていない。又、貨車の編成が十輌だったのか十二輌だったのかも覚えていない。ただ乗車中に誰一人として大小便を垂らした人がいなかったことは覚えている。みんな無口に丸太のように突っ立ってルソンの空を仰いでいたことだけは覚えている。スコールでも襲ってくれればよいのにという我々の期待をよそに、その空は青く澄み渡っていたことだけは覚えている。
〈補記〉終戦時の旭工兵隊兵力 平成七年九月二十一日付の手紙で、平田耕造君が送ってくれた厚生省資料のうち、旭工兵隊関係のものを、ここに掲げる。

工兵二十三連隊
 昭和二十年九月八日現在
 参加人員        一、三八六名(中途から補充、転入者を含む)の内
 戦死者および生死不明者 一、二三一名(海没二八九名を含む)
 重傷病者        四八名
 現在員         一〇七名(ほとんどが戦傷病者で帰還途中の死没者を含む)
  (戦史室資料)
 こ終戦になって武装解除を受ける前の工兵隊兵力であり、その後、復員までにどれくらいの死者が出たかは明確でない。
 昭和四十四年に「工二十三会」の出した『工二十三連隊記録』では、

 入院中の者(帰還までに病没した者を含む)=氏名略=   五二名
 在隊者  (帰還までに病没した者を含む)=氏名略=  一○六名

 とあり、戦史資料室の資料と比べて、二名多くなっている。昭和二十年九月八日より少し後だが、武装解除(九月十七日)よりは前の統計かと見られる(生存率、一割二分)。

 微量の雑炊で重労働

 マニラのすぐ南のマッキンレイまでしか及んでいなかった鉄道を、更に五十キロ以上延伸し、捕虜移送に用いたのは、さすがに物量の国アメリカであった。その終点がカンルバンであった。ラグナ湖の南、マキリン山が端正な姿を見せる寒村であった。そこから東、カランバにかけて、更にその東のロスパニオス(山下大将処刑の地)にかけて捕虜収容所が設けられてあった。
 武装解除から、そこに入るまで何日かかったか私は覚えていない。四、五日ないし一週間位だろうと思うが、正確には覚えていない。覚えているのは、移送中ずっと水攻めがつづいたことである。貨車にいる間も一滴の水も飲めなかったことである。水が飲めないため、一人として便意を催す人がいなかったことである。
 そういった扱いでは、脱水症状で死ぬ人が出てもおかしくない。日射病で斃れる人があってもおかしくなかった。事実、貨車が終点に着いた時、各車輌から三躰、五躰と死者が車外に運び出された。
 では移送中にどれほどの捕虜が死んだのかというと、正確には分からないが、約三千人位かと私は推定する。それは十月一日、最後尾に近くキャンプ入りした人(東京の平田耕造氏)の実見の結果と、やはりその頃入所したと見られる岡田録右衛門氏の『P
Wの手帳』に、「墓標はいま三千近くもあるだろうか」とあることによって算出したものである。そしてその数は、米軍側の予期していた数より少ないものであったと考えられる。マッカーサーの命により、既に二万人の捕虜墓地を用意していた米軍側にとって、予想外に少ない数であったと推定される。
 工兵隊の見習士官で、二月以来小隊長を勤めていた私は、日本軍隊では将校の待遇を受けていた。だが下士官・兵の収容所に廻されてしまった。「将校だ」という私の主張が通らず、「准尉」と訳されて登録されたためであった。そしてそのキャンプは、カランバの原っぱに造られてあった。収容総数は二万人で、二十人用テントが立ち並んでいた。それにわれわれは二十六人ずつ押し込まれた。片側十三箇ずつの折り畳みベッドが並び切れず、横にふくらむ状態に押し込まれた。そして支給されたものは、毛布一枚、タオル一本と食器一組に過ぎなかった。衣服、靴の支給はなかった。又、帽子の支給も無かった。 それでぼろ服、ぼろ靴のまま、無帽で翌日からの土方仕事についたが、それが苛酷な重労働であった。傾斜と逆に掘ってゆく水路は、だんだん深くなり無限の労力を必要とした。そして使用できる器具は、シャベル一本だけであった。掘る者、運ぶ者に二分され、私は運ぶ側に廻された。シャベル一杯にすくい上げた土を肩にかつぎ、柵外へ運ぶのだが、側に赤鬼たち(ガード達、全員白人)が並び、大声で、「レッツゴー、ハーバー、ハーバー(それっ、急げ急げ)」と、われわれを叱咤した。太く短い警棒を振り廻し、のろのろ運ぶことを、赤鬼達は許さなかった。その棒(注)で叩くことはしなかったが、体のすれすれにまで振り廻してきた。
 この烈しい土方仕事のため、靴は三日で駄目になった。上衣は五日でボロになってしまった。軍袴(ズボン)も腰の部分だけが残り、下はちぎれてしまった。戦場でやっと持ちこたえてきた衣服類は、見る見る我々の体から離れていった。しかし衣類の支給は無かった。四週間ほど経って、褌も切れ、全裸に近い者が現れる段階になって、やっとパンツ(さるまた)一枚が支給された。これが唯一の支給品であった。
 食事は朝夕の二度、オートミルやパン屑などを煮込んだ雑炊が支給された。雑炊といっても、水分の多いどろどろしたもので、スープみたいなものであった。それが大匙に三杯半支給された。米軍用の匙は、家庭用の大匙よりやや大きめに見えたが、それにきっちり三杯半しかなかった。味つけは、コンビーフの缶詰でしたらしく、その切れ端が雑炊の中にまじっていた。しかし塩味は薄かった。私は前に、山形県民会館でアウシュヴイッツ展を見た時の感想として、その作業班の食事の方がよほどましだったと書いたが、その通りであった。五日に一度ぐらい、砂糖煮のナッツが一箇、雑炊に添えられることがあったが、それ以上の給与はなかった。
 その少量の雑炊も絶食になることがあった。
「今日は○○の作業場で仕事を怠けていた人が一人見つかった。一人でも作業を怠けた者がいたら、全員を絶食にする。今日の夕食は絶食だ」
 という所長(青鬼)の通達が放送されると、われわれはそれに従うしかなかった。疲れた体をがっくりと横にし、出来るだけ体力を消耗させないようつとめるしか手がなかった。所長通達は決まって、「バターン半島で日本軍は、×××××のことをしたが、われわれはそういうやり方はしない」という前置きではじまったが、絶食法も米軍が編み出した新手の虐待法であったものと考えられる。
 所長は白晢の面貌をした中佐で、入所初日だけ襟章をつけて現れたが、二日目からは襟章も外していた。彼は必ず通訳を通じて話し、直接われわれに話しかけることをしなかった。その所長が四、五日経って「相撲選手を三十名募る」という通達を流した。それを聞いて私は、相撲選手を養成して相撲大会を開いて見せてくれるものと思った。そして、そうであ、その日だけは作業が休みになるだろうと。しかしそうではなかった。乏しい食料を一層乏しくするための戦術に過ぎなかった。相撲大会は一度も開かれず、丸々と太った選手たちが行き来するのを見るだけであった。あるいはそれには、日本の古い伝統行事である大相撲を嘲笑する意図が含まれていたものかもしれない。
(注)時々、赤鬼達が警棒を振り廻しながら「ガッテン サン ノブ ビッチ」と罵りながら迫ってきた。「くたばれ、このろくでなし」といった意味らしかった。
〈補記1〉村上喜重氏の誤認 村上喜重氏の『生魂』は、数字的にも信用できる数少ない著書だが、次の部分には誤認があるものと思う。
 食事も最初は食器に山程あり多すぎると思う位だったが、山岳でのカモテ(後藤注・タガログ語でサツマイモのこと)も満足に食べられなかった腹に、一度に食べたせいか下痢者が続出してバタバタと死んで行き、近くの急造日本人墓地が白い墓標で一杯になった。(一八三頁)
 とあるが、間違いであると思う。優遇キャンプにいた村上氏としては、すべてのキャンプでPWは優遇されていたものと思い、墓標の増えるわけを解しかね、食べ過ぎ―下痢―死というふうに、簡単に結びつけて考えたようだが、事実は逆であった。別に述べたように重労働と飢えによる死者の続出であり、食べ過ぎた相撲選手などからは、死者は全く出なかったのである。米軍の方針は、優遇する場合は徹底的に優遇し、冷遇する場合は徹底的に冷遇することであったので、優遇キャンプではちょっとした下痢でも病院に連れてゆくような処置を取ったものと思われ、それを村上氏は誤認したものと思う。
〈補記2〉石運びの重労働 下士官・兵用の収容所が幾つあったのか、正確には私は知らない。然し、諸記録からみて六ないし九はあっただろうという推測はつく、そのうち、一つは優遇キャンプであったので、五ないし八のキャンプで、虐待死の重労働が課せられたものと推測できる。
 その中、我々の収容所である第10キャンプでは、勾配と逆の水路造りという土方仕事を課せられたことは、上記の通りであるが、他のキャンプではどんな重労働を課せられたのか、全部について語ることは出来ないが、一つだけそれと推定できる資料が、加藤三千子さんから送られてきたので、関係部分のみ引用する。

 作業していた兵士のことであるが、大人の頭大の石を一箇ずつ手に持って、運ばせている光景を私たちは目にした、そばにいた米兵の将校に「アメリカは機械化の発達した国なのに、何故あのような非能率なことをするのか、トラックで運べば一度で済むではないか」と尋ねた。その将校は言った、「あれこそ真の重労働なのだ」と、私たちは唖然としたことをおぼえている。(出典誌未詳)

 ここで「私たち」と言っているのは、元従軍看護婦たちのことであるが、筆者名も伏せたままで知ることができない。
 それでも右の文から知り得ることは、そのキャンプの重労働の内容である。大人の頭大の石を運ばせて、運び了えたら又元に戻すということを繰り返していたものと思うが、これでは賽の河原の石積みと異なる所がない。
 人は役に立つ仕事ならば多少難儀しても納得するものだが、無益の仕事では疲労度が倍増されて残るだけである。そのことも計算した上で、死者をなるべく多く出すよう競い合っていたのが、作業キャンプの実態であったようだ。
 それにしても、この時期の虐待の対象として、下士官・兵にのみその鉾先が向けられていたのは何故であったのか、問いただしたいことの一つである。

 遺髪を燃やす

 昭和二十年一月九日、リンガエン湾にアメリカ軍が上陸した。そして数日後に、第一回のバギオ空襲があった。単機だったように思う。その時、第一弾が投ぜられたのは、日本軍の陸軍病院であった。屋根には大きな赤十字のマークがペンキで書かれてあり、他の建物がやられてもここだけは空襲を免れるであろうと言っていた病院がまっ先に被弾したのであった。
 その頃、私ども工兵幹部候補生は、比島大統領別荘「白雲荘」の裏手で、ダイナマイトを使って壕(注・後の山下軍司令部の壕)掘りをしていた。そこは陸軍病院に近かったので、爆弾涛摎フ別荘「白雲荘」の裏手で、ダイナマイトを使って壕掘りをしていた。そこは陸軍病院に近かったので、爆弾投下の有様を、手に取るように見ることができた。病院で死傷者が出たことは、宿舎に帰ってから分かった。病院の次に教会がやられ、フィリピン人の多くが死傷したことも、区隊長の栃尾少尉から知らされた。
「敵も必死だ。人道主義も宗教崇拝もあったもんじゃない。生やさしい気持ちで行ける相手と思ったら大間違いだ。こうなったら体当たりで行くしかない」
 と声をふるわせて訓示し、対戦車肉迫攻撃(黄色火薬を背負って、戦車に体当たりする戦法)の演習を始めるのであった。
 その時の爆撃でマッカーサーは、バギオに司令部を置く山下奉文に対し、それ以後の戦闘方針を警告したものであったと思う。人道主義を捨て国際赤十字社の精神も協定も無視して、日本軍撃滅に直進することを宣言したものであったと思う。――そういう事実を見ていただけに、終戦になっても簡単にわれわれを許すことはあるまいとは考えていた。長期の重労働は覚悟しておかなければならないだろうと思っていた。それでも命まで奪うことはあるまいと考えていたのは、甘かった。
 マッカーサーの敵愾心と報復心は、終戦になっても生きていた。ますますひどく燃えさかっていた。昭和二十年九月末から十一月にかけての二カ月間、その火は燃えつづけた。カンルバンの原野に、二万本の白い墓標を立て了えるまで、その火は燃えつづけたのであった。
 重労働と飢餓作戦が二週間位経ったころ、私は体力に限界が来ていることを感じた。その頃すでに多くの死者が運び出されていたが、自分の番も近いのではないかと思い、ある晩、右手で体のすみずみをさぐってみた。すると肋骨の一本一本は高くそびえて皮を被っているだけであることを知った。尻に手を廻してみたが、ほとんど肉らしいものが残っていなかった。それから左手首を握ってみると、中指の第一関節まで握り得る細さに細り、腕のつけ根の部分は、中指の第二関節まで廻るくらい細っていることを知った。(肉が落ちると上腕部が手首より細くなるが、それまで思っても見なかったことであった)俺の命ももう長くはない。せいぜい一週間か十日で終わりだろうと、自己診断を下した。これまで生き延びて、こんな所で死ぬのは無念だが、天命とあらば仕方がないと観念した。 そう観念すると、残された一週間ないし十日の間に、しておかなければならないことがあるのではないかと考えた。そして第一番に、それまで大事に持ち歩いていた戦友達の遺髪に別れを告げる時期が来たと感じた。俺が死んだらゴミ同然に踏みにじられるであろう、命のあるうちに弔ってやろうと思い、ゴミ焼き場から分火した火にくべて別れを告げた。遺髪五人分、遺品一人分を持っていたが、一包みずつ火にくべて「かんべんしてくれよな。遺族の許へとどけてやるのが俺の使命だと思っていたがそれもかなわないことになった」と口ずさみながら詫びた。
 それが終わると私は、次に収容所の実情を書き残して、一番元気そうな男に託そうと考えた。山形の親兄弟に対してでなく、日本に対して、日本人に対して書き残そうと考えた。さいわい隠し持っていた万年筆にはインクが残っており、手製の手帳も持っていたので、苦役と飢餓の実態を書き残そうと考えたのであった。そしてそれにはキャンプ名と所長名を知る必要があると思い、中隊長(捕虜の長)の西本准尉(旭・工兵)の許へ行った。西本は小さな机と椅子を与えられていたが、机上に一枚の紙片もなく、「俺もなんにも教えられていないんだよ」と言った。それで次に、通訳の柘植(つげ)君(学徒兵の見習士官)の許へ行って同じ質問をしたがえは西本と全く同じであった。

 このように八方ふさがりになっていることを知ったとき、私に残されていたのは、その万年筆をタバコに換えて思い切り吸うことだけであった。死ぬ前に好きなタバコを吸い、二十三年八カ月の生涯の餞けにすることであった。キャンプの一郭に千人程の朝鮮人がおり、特別待遇を受けていたが、彼らは時々新しい米兵服に身をかため柵外へ出て行った。その折に仕入れてくるのであったろうか、夜中にタバコ売りに廻った。金ペンの万年筆一本がタバコ一本の相場であった。人の弱味につけこむ法外な取引だとは思っていたが、それに応じる以外に、タバコを手に入れる方法はなかった。
 翌日の夜、私は万年筆をタバコ一本と換えて、ゆっくり味わいながら吸った。
 なお朝鮮人でも正規の日本兵として階級を与えられていた人がおり、そういう人達は収容所でも日本兵と同じ扱いを受けていたようだ。従って我々のキャンプにいた朝鮮人は準兵士(使役兵)で階級を与えられなかった人達だったのかもしれない。彼らは毎朝、点呼の後で、大声で歌を歌っていたが、それが「朝鮮独立の歌」であったことも、後になって知った。
〈補記〉韓国の孫●善中将 私の書いた戦争体験記『ルソンの山々を這って』(昭和50年・同刊行会)がきっかけになって知り合いになった孫さんは、韓国軍の元師団長、予備役中将である。朝鮮戦争で勲を立て、韓国では英雄の一人にかぞえられている人でもある。ルソン戦時代、孫さんは日本航空隊の下士官であった。それ故、準兵士の朝鮮人集団には加えられず、日本兵と同じ収容所に入れられた。(話の模様からは、われわれの隣の第9キャンプに入れられたらしい)だとすれば
、われわれと似た重労働を体験している筈だと思い、手紙で聞いてやったが、当時のことはよく覚えていないという返事であった。

 マッカーサーの二面性

 短歌誌「波濤」の平成八年四月号に、

  南京の人口当時二十五万を虐殺百万と言ふ黄塵万丈の国   千葉  高野倉伍朔

という歌が載った。いわゆる「南京大虐殺」を詠んだ歌だが、当時の南京の人口は二十五万であった。それを中国では「虐殺百万」と誇張されていることを嘆じた歌である。
 丁度その頃、長崎原爆資料館の展示品が国際問題になり、「バターン死の行進」と「南京大虐殺」の資料も同時に展示されるべきだという論が起きた。そしてテレビのニュース解説者が、南京の民衆二十数万人を虐殺したのが「南京大虐殺」であると説明するのを聞いた。当時の人口を調べることもなく、いともやすやすと二十数万人といってのけるのを聞いて驚いた。 戦後の五十年間、報道関係者も軍事評論家達も、日本軍の残虐性をあばくことに汲々としてきた。そしてその被害と残虐性が大きければ大きいほど、それを報ずる自分たちの手柄になるように思いこんできた。しかし、大田沖縄知事の口真似をするわけではないが、次の五十年もそのまま進んでよいとは思えない。公正な立場で戦史は書き改められなければならないと思う。私がいま、最も思い出したくない時期のことを思い出し、小文を綴っているのは、そのためである。

 昭和二十年八月十五日に、日本は無条件降伏をし、九月二日に東京湾上の米戦艦ミズリー号上で降伏文書の調印式が行われた
。九月二十七日にマッカーサーと昭和天皇の会見が行われ、十月十六日に次のようなマッカーサー声明が発表された。

 きょう日本全国にわたって、日本軍は復員を完了し、もはや軍隊としては存在しなくなった。歴史上・戦時平時通じ、米国でもその他の国でも、これほど敏速かつ円滑に復員が行われた例を私は知らない。以下略(『マッカーサー回想記』 朝日新聞社)

 これは歴史上稀に見る欺瞞に満ちた声明であった。未だ比島からは一兵も復員させていない時期に、復員の完了をうたっているのである。
 当時の日本は、マッカーサーズ・ジャパンであって、日本国ではなかったが故に、白を黒と言われても、馬を鹿と言われても諾うしかなかった。批判をしたり反論をしたりすることは許されなかった。稀に気骨のある人がいても、戦犯容疑で逮捕され監獄にぶちこまれてしまうので、何の発言もできなかった。
 ではなぜマッカーサーがそんな大嘘をつく必要があったのかと言えば、国際社会を欺くためであったと私は思う。なかんずく国際赤十字社などの目をくらますためであったと思う。カンルバン収容所で捕虜虐殺を進行させつつあったマッカーサーにとって、国際赤十字社などの目が最も気になった。英雄の名を穢しかねない脅威の的でもあった。従って前もって煙幕を張っておく必要があった。そのための声明であったと思う。
 マッカーサーは、日本にあっては威厳に満ちた〈尉〉の面をつけて君臨した。しかしフィリピンに戻ると、牙の生えた〈夜叉〉の面に付け替えて捕虜虐殺を薙した。「敵が逆な立場にあった時に示した苛酷な態度をそのまま繰り返したいという気持ちになりがちなものであり、またそうしても無理はないが、部隊は厳正な任務の命ずるところとみずから残虐な行為を慎しもうとする意志との完全な結合を保ち、日本の大衆におどろくべき力をもつ教訓を与えた」(前の声明文のつづき)と、飾った言い方をしながらも、二万人墓地の早期完成を督励しつづけた。
 この二つの面の付け替えが、巧妙かつ迅速であったため、大方の人達が欺かれた。日本人はもちろん外国人も欺かれた。私もその一人で、虐殺の司令は第八軍の司令官が出したものかと疑った時期もあった。あるいはもっと下の捕虜収容所の責任者の出したものかと疑った時期もあった。マッカーサーは、二つの面を巧妙につけ替える名演技者であった。

 捕虜虐待のうち、私が最も許し難く思っていることは、マッカーサーの部下達が捕虜の死を確認することなく、火葬に付したことである。朝の点呼時に伸びたまま動けないでいる捕虜がいると、彼らは毛布で二重に包み、紐でしばりつけて運び出して行ったが、脈をとったり、熱を計ったりすることはなかった。つまり死の確認をすることをしなかった。その結果、生きながらの火葬という世にもおぞましい事件が起きた。次の文は、従軍看護婦達が語った、生きた証言である。

 木村 毎日、毎日夕方になると収容所の端のほうに黒い煙があがって、死体をダンプで積んできては山にして、それを私達の収容所の脇で落とすんですね。
 高橋 収容所に入ってからもいっぱい死んでいったんです。
 吉野 その死体の山の中から這いだして助かった人、わたし知ってます。もう亡くなられたけど、白鴎高校の書道の先生してた方なんです。なんか熱いんで気がついたらね、火がついているんですって。それで、這って出てきてふっと見ると人の山で……。気がつかなければ私は死んでいましたと、その方がよく話しておりました。
 高橋 赤々とした火ね。これは、捕虜の日本兵が使役で穴を掘らされますでしょう。で、夜になるとトラックに死体を満載してきてダンプの砂運びみたいに、ガー、ザーと落としていくんです。そこへガソリンを撒いて、火をつけちゃう。
                 (日赤・埼玉県支部35周年誌『はるかなる青春』)                           =東京の加藤三千子さん提供