第四章 戦場随想

 命の値段 

 昭和十八年十二月一日、夕方の点呼を終えると、体が大きく亀に似た曹長が入ってきた。学徒兵として盛岡工兵連隊に入隊した初日のことであった。
「お前ら、自分の値段はナンボだと思うか。よく考えて分かった者は手を挙げろ」
 と、カメ曹長は言った。
 自分自身に値段をつけて考えたことが無かったので、この質問には困った。大学の二年になるまで、親元から出して貰った学費のトータルは幾らだろうか。それが自分の値段になるのかなどとふと思ったが、すぐに出てくる答えではなかった。われわれはみな、答えに窮しておし黙っていると、カメ曹長は、
「誰も答えられんのか。答えられんのなら俺から言って聞かそう。お前らの値段は一銭五厘じゃ。赤紙の葉書代、一銭五厘。それがお前らの値段じゃ」
 と言った。
 当時の赤紙は、平成十一年の暮れに酒田市の街頭で、戦争時代のことを忘れないようにと言って配られた赤紙よりは小さめのものであった。西洋紙四分の一大のものを二つ折りにしたもので、ピンク色に近い赤色であった。それをワザブ(態夫)と呼ぶ市町村役場の使丁が家庭へ持って行って手渡す。それが習わしになっていた。その赤紙には切手が刷られてなく、無料と受け取れる体裁のものであった。因みに当時の官製葉書は二銭で、一銭五厘ではなかった。一銭五厘は、昭和十二年三月二十五日改正以前の値段で、二十年近くつづいた葉書の値段であった。そのことがカメ曹長の頭の中にあって、昔の安い葉書代で言ったものであっただろう
「お前らは、一銭五厘の消耗品じゃ」
 と、吐き捨てるように言って、カメ曹長は去って行った。
 一銭五厘もさることながら、消耗品という言葉は心臓にぐさりと突き刺さる言葉であった。

 昭和二十一年十一月二十九日、私は激戦のルソン島から復員した。何度も何度も死地に直面しながら奇蹟的に助かって、復員できた。入隊のため、山形市六日町の自宅(今の緑町二丁目一○の二は、当時六日町一三四五番地であった)を出てから、かっきり三年間の軍隊生活(抑留期間を含む)であった。間もなく霞城連隊跡にあった復員事務所から、出頭するよう連絡が入ったので行ってみると、
「給料の未払分だ」
 と言って、三百六十五円が支給された。
 当時のヤミ米代が一升百円を超していたので、約三升分の給付であった。「軍隊にも給料があったのだ」と、改めて思い知らされながら、私はそれをおし戴いて帰った。
 それにしても一銭五厘とか、三年分の給料がヤミ米三升分とか、思えば安価なわが命の評価ではあった。
〈付記〉
 (1)昭和12年3月25日  書状四銭、葉書二銭に改正
昭和19年5月8日  書状七銭、葉書参銭に改正
                    (山口修編『郵便百科年表』)
 (2)花森安治著『一戔五厘の旗』(昭和46年・暮しの手帖社)にも同趣のことが記されていることを最近知った。
 (3)最初の赤紙には「現役証書」と書かれてあり、地区の連隊司令部が発行した。それを 地元の警察署に送り、次に市町村役場に届けられた。そして二度目の応召の赤紙には「召集令状」と書かれてあった。
                         (上山市在住の元ワワザブ、会田忠雄氏談)

 台風との格闘

 昭和五十年か五十一年のことだったろうか。ある学会で森淳司さんに会ったら、私の戦争体験記『ルソの山々を這って』(昭和50年5月に自費出版)の話が出た。
「あの本ネ、私が読み返したいと思っても、家内が夢中になってなかなか手放してくれないんだ」
 と言ってほめてくれた。私はうまいほめ方だなと思う一方、思わぬ所に愛読者が現れたものだと少し嬉しくなった。
 そんな事もあったので、『ルソンの山々を這って』に書かなかったことで、念頭に残っている体験を一つ、書いてみたいと思う。

 昭和十九年十月七日のことだったと思う。南方への輸送船、江尻丸(約七千トンの貨物船、乗船の兵五千人)での事である。台湾の高雄に寄港した船団は、そこで三日ほど過ごした後、魔のバシー海峡に向けて出航した。船団の半数以上、三分の二まではやられる覚悟だということを、予めわらわれは知らされていた。天気は快晴の日がつづいていた。
 高雄をはなれた船団は、そっちの島かげに寄り、こっちの小島に寄りして、なかなか南下しなかった。後で分かったことだが、それは台風の襲来を待っていたのであった。台風を突いて船を進めれば、米潜水艦の魚雷攻撃を受けずに済む。そう判断しての待機であった。
 いよいよ船団は、バシー海峡を突っ切るべく、進行を開始した。そして次のような輸送指揮官命令が下った。
「これから船団は、台風を突いてバシー海峡を突破する。間もなく台風は襲来する。よって全員船艙に退避せよ」
 そして付帯的に、「物品も一物たりと甲板上に残すな。重い物でもすべて吹き飛ばされると考えよ」との注意があった。
 命令に従って、甲板上に起居していたわれわれは退避をはじめた。私も、装具をまとめて一坪十三人半(二坪つまり四畳で二十七人の意味)の割り当ての船艙へ下りて行った。貨物船の船艙を三階に仕切った割り当て場所は、立ちあがることもできない狭い所で、とっくに満杯になっていたが、とにかくそこに装具をあずけた。
 船艙に向かう前から、私の心に一つの企みが芽生えていた。退避をした振りをして甲板上に戻ろうという企みであった。
 ″われわれの人生は短い。短い人生ならば、一つでも多くのものを見て、心を充実させなければならない。台風の海を見るのも人生を充実させる一方策だ。窓もない船艙でただ震えているのは俺はごめんだ″
 とする考えであった。そしてひそかに私は、ロープ二本を探してきて隠し持っていた。
 全員が退避を了え、巡視の下士官がハッチの蓋を締めようとしていた。私は、その機を待っていて、「大事な忘れ物をしたたので、甲板に戻らせて下さい」と頼んだ。「ハッチの蓋は、自分が責任をもって締めます」と強く要望した。下士官は私の顔をまじまじと見た上
で「必ずきちんと締めてくれよ」と言って外へ出してくれた。
 私は、既に目星をつけていた鉄柱に、自分の体をしばりつけた。先ず両脚の部分をしばり、次いで胴体をしばった。中央よりも左舷寄りの鉄柱にであった。もう一本の鉄柱が舷に近い所にあったが、さすがにそれはためらわれ
て、二番目の鉄柱を選んだのであった。それだけ前方船室の屋根に視界は妨げられるが、それは仕方がないと思った。
 船が進行し、台風は向かってくるので、その接触は早かった。海の猛り方は徐々に烈しくなっていった。船の揺れも大きくなり、そのまま空を仰ぐ角度に船首を上げたかと思うと、つんのめる角度に船首を下げた。
 そして前面には、しばしばとてつもなく大きな潮(うしお)の壁が立ちはだかった。私の筆はそれをうまく表現できないが、とにかく化け物のように巨大な潮の壁壁であった。灰色に若干うす緑色を帯びた壁が、前方の視界をすべて遮ってしまうのであった。灰色に若干うす緑色を帯びた壁が、前方の視界をすべて遮ってしまうのであった。そして左右は煙(けぶ)っていて何も見えなかった。
 台風の猛威に気を失いそうになりながらも、私は″負けてはならん″と思った。その実体をとことん見てやれと勇気を湧き立たせた。そして体をひねって波がしらを探した。どんな大きな波にも波頭はあるはずだと思いニ勇気を湧き立たせた。そして体をひねって波がしらを探した。どんな大きな波にも波頭はあるはずだと思いネ波にも波頭はあるはずだと思い、壁が現れるたびに私はそれを探した。しかし潮ばかりで何も見えなかった。左右に目をやっても僚船の影さえ見えなかった。
 何度も何度も探した後で、私はやっと波頭を捉えることができた。ありったけ首をうしろに曲げてやっと見つけたのであった。そしてその上のわずかばかりの空を見つけて、怪物の正体を見とどけた思いで、私は少し安堵した。
 台風との格闘は、一時間半か二時間ぐらいつづいたであろうか。意外に早く海は、明るさを帯びてきた。それでも小山のような波濤が寄せてはきたが、もはや潮の壁が立ちはだかることはなかった。そしてまばたきの間だが、僚船の姿を一つ、右舷の向こうに捉えることができた。「してやったぞ!」と快哉を叫ぶと同時に、私の心はぱっと明るくなった。船団が台風に勝ったのだ。
 船の揺れがかなり落ち着いてきたところで、私は人に見つかる前に船艙に戻らなければならないと考え、ロープをほどいた。そしてハッチの蓋をあけると、
「おい、どうした。まだ出ていいという命令は出ておらんぞ」
 という大きな声がとんできた。
「いや、ためしにちょっとだけ外に出てみたんだ。もう大丈夫らしい」
 と何食わぬ顔で答えて、人ごみに紛れ込んだ。
 軍隊では、上官の命令は絶対であった。背けば軍法会議にかけられることに決まっていた。
 それ故に、私はこれは誰にも話してはいけないことだと思い、親しい戦友にも語らずにいた。そしてそれが習いとなって、戦後も詳しいことは語らずに来た。
 それから丁度五十年、秘してきた私のささやかな抗命の体験を語る機会を与えられたことに感謝したいと思う。
〈補記〉江尻丸は僚船全部と共に十月八日の深夜ルソン島北サンフェ
ルナンド港に入港したが、十月十日にマニラに向かう途中で魚雷攻撃にあい撃沈された。

 平田耕造と松下正生(まさなり)

 昭和二十年一月三十一日、比島残留組三十名のうち、次の十名が旭兵団(二十三師団)に配属された。
  高橋          師団司令部
  後藤、平田、松下  工兵23連隊
  近藤、鈴木      歩兵64連隊
  新井、佐藤      歩兵71連隊
  前田、飯塚(八平)  歩兵72連隊
 工兵の教育を受けてきて、歩兵に廻された六名はCの毒であったが、我々ではどう仕様もないことであった。工兵に着いて、
  第一中隊       平田
  第二中隊       後藤
  第三中隊       松下
 と配属された。平田は江戸っ子、松下は浪速っ子であった。
 この二人について少し詳しく話したいが、その前に他の部隊へ行った二名について述べておきたい。
 先ず高橋見習士官だが、終戦直前にボントック道東方渓谷で遇い、「後藤、戦争が終わったゾ」と聞いたのも彼からであった。彼は小屋造りの責任者、私は横壕掘りの責任者として再会したのであったが、それ以来彼とは会っていない。又、復員したという話も聞かない。宇都宮出身の生真面目な男であったが、若しかして収容所で犠牲になったのではないか、そんな予感を抱きつづけてきた男である。
 それから飯塚八平君だが、彼とはキャンプ3の山中で遇った。「おい飯塚、タバコ無いダロ。これを吸え」とホマレ一箱をやると、彼は一本抜き取って残りを返そうとした。(戦場でのタバコは貴重で、吸殻一本拾っても、数人で廻しのみした)「それは患者護送でバギオに行った時、飯塚栄君(米沢市出身。築城本部残留組で終戦直前に戦死)に貰ってきたタバコだ。俺のはあるから全部吸え」と言うと恐縮した顔で残りを隠し(ポケット)に収めた。それから一カ月程経って、又彼に遇った自ら「おい、後藤、タバコ無いダロ。これを吸え」といって雑嚢から、一掴みのタバコの葉を取り出して呉れた。茨城県出身の太な男で、復員したそうだが、私はまだ復員後の彼と一度も会っていない。

 さて話を元にもどすが、平田と松下は仲の良い友達であった。都会っ子同士で気が合うようであった。松下はキャンプ3の斬り込み攻撃で大腿部を射抜かれ、左手の指三本が利かなくなったが股の方は治り、指の方は相変わらずぶらぶらさせていた。平田は何度も死地をくぐりながら無傷であった。
 そしてカバヤンで、私の食事の面倒まで見てくれたのが平田であったが、カバヤン出発の間際になって、二人同時にマラリアの熱発(ネッパツ。発熱の軍隊用語)をしてしまったのだという。そして本隊より三日も遅れての出発になってしまった。マラリアの熱発は風邪などの比ではなく、最低三日間は食えず、飲めず動けずの状態がつづく。全身から力が全部脱けてしまった状態になるのである。仲の良い二人とはいえ、同日の熱発とは驚いた話である。
 だが結果的に、熱発による遅れが二人に幸いするのである。そのいきさつを平田君は、次のように書きとどめている。(前文省略、カンルバン収容所に着いてからの部分のみ引用する)

 それ(DDT撒布)が終わるとテントの中で一夜を過ごすことになったが、松下が何処かえ行って見えないと思っていたら、あわてて帰って来て言うには、バギオで別れた同期の「宮本芳彦」と偶然会い、十一期の見習士官は七月一日に少尉に任官しているから将校幕舎に移れと言われたとのことであった。宮本は十四方面軍経理部へ配属となり、ボントック〜バナウエイ〜フンドアンの間の軍需物資輸送に従事し、20、9、18日にキアンガンにて武装解除となったとのことであった。司令部に属していたため情報が早く伝達されたのであろう。これを聞いて二人で急いで将校幕舎に移動した。(平田耕造手記)

 要約すると、平田、松下の二人は、カバヤンで同時に熱発を起こし、部隊から捨て去られたが、そのために同期の宮本芳彦に遇うことが出来、将校幕舎へ移動できたわけであった。そのため重労働をせずに済んだのは、二人にとって僥倖ともいってよい出来事であった。
 特に平田はマラリアに弱く、十一月に再度熱発を起こしたというから、作業キャンプに行かずに本当によかったと思う。十一月はまだ米国式虐殺が進行中で、朝に動けずにいる者は即刻墓地送りされていたからで、平田もそれにまきこまれる恐れが多分にあったと判断されるからである。

 なお松下は、戦友会には全く出て来ないが、二十年ほど前、山形の拙宅をわざわざ訪ねてくれた。たいへん元気そうであったが、髪の毛は真っ白になり、相変わらず指三本をぶらぶらさせていて哀れを誘った。

 序でに私の熱発について言うと、七月のはじめ、ボントック道東方渓谷を北上中に、ひどいマラリアが起こり、食えず飲めず動けず話せずの状態が三日間続いた。だがそれ以後、二十一年暮れの復員まで、一度も熱発は起きなかった。しかし山形の自宅に帰ってからは、ひきつづき三度ほど熱発を起こして家人を驚かせた。

 もう一つ、序でに言うと、歩兵連隊に配属された六名は、五名が戦死し、飯塚八平一人が生還した。それにひきかえ、工兵隊の三名が全員生還できたのは、三人とも命運の滅法強い男が揃っていたからだと思う外はない。


 神仏を捨てると楽だ

 平成五年正月元日の良寛の生涯を演じたテレビ・ドラマに、
「欲を捨てると楽じゃ」
 という台詞(せりふ)がありました。在俗の弟に、良寛(桂枝雀)が言って聞かせた台詞でした。
 これを聞いて私は、ルソン島の戦場で立てた一つの誓いを思い出しました。それは、
 ″いさぎよく餓死しよう″
 という誓いです。そして肌身。そして肌身はなさず身につけてきたお守りを首からはずし、土中に埋めた時の事を思い出したのです。
 その地点は、ベンゲット道キャンプ2とキャンプ3の間あたり。ベンゲット道から南に、十キロか十五キロ入ったあたりであったと思います。枯葉を除け土を掘って、お守り袋のまま丁寧に埋めました。そして頭を低く垂れて、神仏に最後の別れを告げました。それまで何度も身を守ってくれたことに深く感謝しました。
 このようにして神仏に訣別した日を、私ははっきりとは覚えておりませんが、昭和二十年の二月末か三月初め頃であっただろうと思います。これからは神仏に頼ることはしません。また祈ることもしませんという悲壮な決意をしたものです。そして同時に″いさぎよく餓死しよう″と覚悟したのです。
 私はそれまで、輸送船で三度遭難(注1)し、地上にあっても何度も危険な目にあいながら、危機一髪のきわどさで助かってきましたので、神仏の加護をかたちあるものとして信ずるようになっていました。それだけにこれ以上、神仏に負担をかけたくないという思いが出てきていました。
 神仏に別れを告げた日、私は実に楽な気分になったことを覚えております。すがすがしく救われた気分になった事をです。良寛が弟に「欲を捨てると楽じゃ」と言った台詞が、即座に理解できたのは、そのためだろうと思います。
 神仏と絶縁すると、心をがんじがらめに縛っていた糸が、跡かたもなく消えてしまいます。つまり、心の中が空っぽになってしまいます。言葉を換えて言うと、ぽかりと宙に浮いたような感じになります。しかし、心の空っぽの状態は永つづきするものではありません。神仏に代わる何かを求めるようになるのです。そして私の場合、それは天かなと先ず考えました。或いは天地かなとも考えました。だが神仏を天地と置き換えても、結局同じことではないかと気づきました。そして頼れるものは己しかないという考えに落ち着きました。
 お守り袋を埋めて、二日位経って、私は飯盒を捨てました。私は配属されて間もない補充兵の見習士官でしたから、飯盒を持ち歩いていました。小隊長になって当番兵がつくようになってはいたが、炊飯用の飯盒は捨て切れずに持ち歩いていたのです。戦場では、いつ一人になるか分からないので、少尉や中尉の小隊長でも飯盒は持ち歩いていました。それが前戦の地にいる下級将校の常識というものでした。
 神仏と訣別してからもしばらく、飯盒を捨て切れずにいたのは、そういう訳からでした。だが潔く餓死しようという者が、飯盒を持ち歩くのはおかしいではないかという疑念に悩まされました。「よし、これ
からは当番兵の作ってくれた物以外は食べないことにしよう」と決心するのに、二日位の日数を要しました。
 そして私は、
 ○食べ物は採らない、集めない、拾わない。
 ○食事の煮炊(にたき)はしない、調理もしない。
 ○運搬を目的とした場合以外は、食べ物を持ち歩かない。
 ○部下の兵たちより、余計に食べることをしない。
 の四つを、心の戒律として己れに課しました。「よし、これで行こう」という覚悟をしたわけです。
 そういう覚悟をすると、不思議ともう一人の私が現れるものです。そしてひもじさのあまり戒律を犯したくなると、
 ″お前は、掟(おきて)を破るのか。破ったらお前は、ダメになるぞ″
 と、生身の私を叱るのでした。そして生身の私は、はっと気がついて誘惑を振り払う、そういう事を何回となくくり返しました。特に、斬り込みに行って一人になり、何日間も絶食がつづいた後など、掟を破りたいとする欲望を強く感じました。しかしそういう時は一層強く、もう一人の私が私を戒めるのでした。
 私の配属された部隊が、九州の部隊でなかったら、私は十中八九餓死していただろうと思います。新入りの小生意気な見習士官として、冷遇されただろうからです。しかし九州兵は上官を大事にし、新入りでも粗略には扱いませんでした。当番兵でなくとも、側に兵・下士官がいる限り、私の食事の準備をしてくれました。アメリカ生まれの二世兵オガタ(注2)軍曹などは、当番兵が倒れると、せっせと私の食事を作ってくれましたが、彼の両親も、熊本県出身の一世でした。
 私は馬鹿の一つ覚え」の如く、心の中の掟を厳守しました。先任下士官が炊飯をしていても、見ているだけで手伝おうとはしませんでした。そして、その為に当番兵を疲れさせ、栄養失調死に追いやる結果を招いたことは悔やまれてならないところです。

 そういう私にも、ついに掟を破る日が来ました。その頃私は、プログ山東方で、次期の師団司令部の設営に当たっていたのですが、十人いた部下が、一人を除いて寝込んでしまったのです。私の任務は、師団長の壕掘りでしたが、仕事は全くはかどりませんでした。塩もなく、肉類を食べない日が続いていたので、兵隊たちは土掘りの作業ができず、病人同然になっていたのです。
「野豚の肉でも食べさせたら、元気になって仕事をするようになるだろう。とにかくこのままでは駄目だ」と私は考えました。司令部付の高橋見習士官は、建物造りの担当でしたが、すでにその骨格が出来ていました。それに比べて壕掘りは殆ど進捗しないのです。そのあせりから私は、六カ月以上守りつづけてきた掟を破る決心をしたのです。
 寝ている兵の銃を借り、ただ一人元気な小野一等兵を伴って私は、坂道を下って行きました。五十メートル程行くと、そこに高橋見習士官の民家(住人が逃げた家をわれわれが勝手に使っていた)があり、彼は庭先で兵一人と米搗きをしていました。鉄帽に入れた籾を二人は棒で突っついていました。
「オイ、後藤、戦争が終わったぞ!」
 高橋君が大声で言いました。
「冗談でしょう」
 私がいうと、
「冗談なもんか。それで今、司令部行きの伝令に持たせる米搗きをしているんだ」
 と、彼は答えました。
 私が痛切な思いで掟を破る決心をした日が、終戦を知らされた日でもあったのです。その日を私は、昭和二十年九月二日と記憶しています。
(注1)詳しくは小著『ルソンの山々を這って』(昭和50年・初版 昭和51年・修正版)に書きました。
(注2)山崎豊子『二つの祖国』の天羽忠のモデル          (「山形文学」第61集)


 私の八月十五日

 ――比島戦の一兵士として――

 昭和二十年八月十五日、私は旭兵団(山下軍団配下の師団)工兵隊の一兵士として、ルソン島の奥地にいた。

 先ず、そこに至るまでの軍歴を略記することにしよう。
○昭和十八年十二月一日 学徒徴集にて、盛岡工兵隊に入隊(東大文学部二年在学中)。
○昭和十九年五月一日 予備士官学校の松戸の工兵学枚に入校。九月 候補生のまま、南方総軍に転属となる。
○昭和十九年十月十日 乗船した江尻丸(六,九六八屯)が、ルソン島西岸レナ岬沖にて、魚雷攻撃により沈没(午後一時十五分)。夜に入って海軍の海防艦に暗闇の海から救助される。
○昭和十九年十月十八日 乗船したアラビア丸(九,四八〇屯)が、ミンドロ島北方海上で魚雷攻撃により大破(早朝、後に沈没)。夕刻、海防艦によって救助される。
○昭和十九年十一月十四日 乗船した妙義丸(四,〇二〇屯)がマニラ湾で飛行機攻撃を受け、爆弾二発を受け大破。夥しい死者が出たが無傷で上陸○間もなく比島残留組(三十名)に入れられ、マッキンレーからトンコ・マンガに移る(十二月一日)
○昭和十九年十二月三十日 軍司令部のあったバギオ市に移り、壕掘りをしながら訓練を受ける。
○昭和二十年一月九日 アメリカ軍、リンガエン湾に上陸。一月三十日 見習士官に昇格、第二十三師団配属となる(十名)。二月一日 ペンゲット道キャンプ3にあった師団司令部で、師団長の西山福太郎中将に申告。その臆病ぶりに驚く。二月六日ごろ、シソン東方の山中にいた工兵隊に到着(平田耕造・松下正生と私)。その二、三日後に将校勤務を命ぜられる。
○昭和二十年四月十日過ぎ(日時を正確には覚えていない。十二、三日か)臨時編成の川越中隊の小隊長として、キャンプ3の米軍陣地攻撃を仕拗け、敵の迫撃砲陣地を占領するも、翌日奪回される。分隊長の緒方明軍曹(山崎豊子の小説『二つの祖国』で天羽忠のモデルになった二世兵。小説と事実はだいぶ違う)が胸に手相弾の直撃を受け重傷を負う。部下十二名のうち、六名を戦死させる。
○昭和二十年四月二十四日 バギオ陥落。われわれの守備したベンゲット道は、なんとかもちこたえていたが、米軍は北のナギリアン道を突破、ついにバギオを占領した。キャンプ3に取り残されていた我々にも転進命令が下る。四月下旬 アンプクラオに向かう。五月 砲兵隊のための架橋。カヤパ道の偵察(川越中隊長指揮下)。
○昭和二十年六月〜八月 カヤパ道から二千五百メートルの峠を越え、中央渓谷地帯に入る。川越中隊長に別れ、師団司令部付となる。新しい師団司令部の適地を探しつつ北上。プログ山(比島最高峰。二,九二八メートル)の北北東数十キロにまで至る。
 南北に長いこの渓谷は、一般比島人も入り込まない全くの秘境。飛行機の音も砲弾の音もしない所であったが、この渓谷の住民は至っておとなしく、一度も攻めてくることをしなかった。日本兵が入ってゆくと、逃げて姿を隠し、作物も採るに任せた。しかし、塩が絶え、一カ月以上、二カ月近くも無塩の生活がつづいた。
 そしてやっと辿りついた新司令部の適地で、壕掘りの仕事に取りかかったばかりの頃に、八月十五日を迎えたようだ。しかし、終戦を知らされたのは、それから二週間以上経ってからであった。
○昭和二十年九月十七日 ボントツク道55K地点で武装解除。米軍の報復虐待は、その二日前から始まった。鳥海山頂より百メートルも高い所に登らせての武装解除 − 六十キロ行軍 − 収容所に至る道中約四百キロ間の水攻め − 収容所での重労働、食攻め……によって二万人の日本兵が虐待死させられた。

 アメリカでの戦友会

    一

「一度、アメリカで戦友会を開催してくださいナ」
 というのが、二世兵士オガタ氏の前々からの希望であった。そして彼は、
「たとえ、三日でも五日でもアメリカ本土を占領してくれませんか。旭の工兵隊が一番乗りをして」
 と、言葉を足すことがあった。日本兵の時代に、米本土上陸の一番乗りをするのが夢であったというオガタ氏は、いまロサンゼルス市の市民だが、気持ちは日本軍時代のままである。
 だから、戦友会のことも、冗談っぽく言っても決して冗談ではなく、本気で言っていることであった。ルソン島の地獄の戦場で、生死を共にした私には、それがよく分かった。そしてよくわかったが故に、少しく困惑して来た。
 というのも、私は敗戦国の戦友会などは、日の当たらない物蔭でささやかに開けばよいと考えて来たからであった。仰々しく晴れがましくやろうなどと考えるのは筋違いで、まして打ち負かされた相手の国へ行って開く事などは、不遜なことだと考えていたからであった。オガタ氏の希望をかなえてやりたい気持ちがないではなかったが、できたら私抜きに事が運べばありがたいと思ってきたわけであった。

    二

 工兵二十三連隊は、熊本編成の部隊であったから、ほとんど全部の兵隊が、九州出身者であった。その部隊が―ン島の米上陸軍と交戦中に、私は転属になった補充兵であった。そして東北人としては、たった一人、戦友会名簿に名を列ねている例外であった。だから、国内での戦友会は、私の存在など考慮しないで企画され、実行されてきていた。それは当然のことであり、自然なことであった。
 従って、戦友会の場所を国外に移したからといって、その方針を貫いて一向に構わないことであった。だが厄介なことに、そうは思わない一人の男がいた。ロサンゼルス市の二世、アレキサンダー・A・オガタ氏である。彼は、昭和二十年の二月から九月まで私の小隊の分隊長であったが故に、戦後年月を経ても、私の意向を重視し、私の賛成を何か事を始める際の前提条件と考えてきている風であった。
 そのオガタ氏が、昨年つまり昭和六十三年の五月上旬に、日本へやって来た。そして東京からまっすぐ山形へやって来た。小宅に一泊し更に蔵王温泉の「ホテル樹林」に一泊した彼は、蔵王の「お釜」を見て東京へ引き上げたが、その間に私は、彼がアメリカでの戦友会に、なお執念を燃やしつづけていることを知った。
「負けたナ」と私は思った。そして負けて兜を脱いだ以上は、彼の言い分を支持し、推進してやらなければなるまいと覚悟した。そして五月中旬に指宿温泉(鹿児島県)でもたれた戦友会に揃って出席し、役員会にアメリカでの戦友会の動議を提出したのであった。私が口火を切り、オガタ氏が主旨説明を行ったわけだが、ここでも彼の情熱が物を言い、その動議が採択されることになったのであった。

 三

 それが今年、平成元年の六月に実現した。参加者は二十七名であった。われわれをロス空港に迎えたオガタ氏は、にわか旅行業者になって、アリゾナ州、ネバダ州にかけての名勝地をバスで案内してくれた。同室の私が、彼がいつ寝ていつ起きたかわからないほど、オガタ氏は忙しく立ち廻っていた。そしてロサンゼルスに戻り、そこの真新しいホテルで戦友会がもたれた。それは内地の戦友会には見られない充実した生き生きした会になった。参加者の半分は元軍人でなく、関係者であったが、その人達にも充分に満足感を与えた模様であった。会の提案者でありながらも、なお一抹の不安と疑念を持ちつづけていた私も、やっと胸をなでおろすことができたのであった。

  四

 帰途、われわれ一行は、ハワイに二泊したが、その二日目に野村栄進氏、古閑良裕氏、岡カヨ氏(キャンプ3で戦死した岡曹長の奥さん)、金山亮子氏(法政大学の金山教授の奥さんで、船中で通訳をしてくれた)など、十人ほどの人と真珠湾を巡航する遊覧船に乗った。そして船中で思いがけない人に出会った。イリノイ州から来たジョセフ・グリムウィルという人であった。彼はルソン島で、我が部隊と向き合って交戦した米兵の一人であったことがわかり、お互いに旧友に会ったような感じで握手をしたのであった。
 戦友会の旅で、命をかけて戦った相手の一人に出会ったことは、奇遇といってよいことであった。そしてそれというのも、われわれの態度が元軍人らしくグリムウィル氏の目に映ったことが原因していることを思うと、戦友会の旅なればこそ起こり得た奇遇であったといってよかろうと思う。


 級友のぼやき

 私が山形高校に入学したとき、顔見知りの友人は、渋谷玄三君一人であった。
 渋谷君とは、東京の予備校、研数学館で知り合った。お互いに良い席を取るため、競い合っているうち、隣り合わせになることが多く、同県出身者であることを知ったのであった。
 渋谷君は省線(のちの国電、今のJR)で通っていて、水道橋駅で下りると、走って予備校に向かい、小石川表町から歩いて通う私とぶつかることが多かった。酒田中学の出身で、、既に二浪していて、三浪は許されていないと真剣であった。
 研数学館は、三百人収容の大教室で、遅れて後ろの席に着くと先生の声が通らなかった。それでも彼と知り合ってからは、私の席も取っておいてくれるので、いつも前の席に着くことができ、助かった。私が彼の席を取っておいてやることは、稀にしかなかった。
 そして昭和十五年の春、二人揃って山高の一次試験に合格した。その事を二次試験の控え室で知り、先ずは喜びながら、今日の英会話も頑張ろうと励まし合った。渋谷君の順番は早く、私は午後に当たっていた。
 昼休みの時、スロープの所で一緒になり、模様を聞くと、「イヤー失敗した。チャン カイ シェクが分からなかった」とぼやいた。「それ何ですか」と聞くと、「蒋介石ですよ。彼の行動を批判した文だったんだよ。チキショウ」と口惜しがった。
 午後に私の順番が廻ってきて、一通りの質問が終わった後、「これを読んで要旨を言いなさい」と示された紙片を見て驚いた。渋谷君の問題と同じだったのだ。やや経って私が、
「これは蒋介石の行動を批判した文だと思います。書いたのは新聞記者のような気がします」と少しヤマを張って言うと、試験官の島村盛助教授が、ウウンと声を出したような気がした。チラと見上げると、側の田中菊雄教授と目くばせしているのを知り「しめた」と思った。案の定、私は中身の説明をあまりしないうち「よろしい。結構です」と放免されたのであった。
 実業学校の出身で英語力が弱く、会話などからきし駄目だった私は、渋谷君のぼやきに救われて合格出来たのであった。
 渋谷君も合格し、同じクラスで学ぶことになったが、学寮の部屋まで同じになっ
た。そしてそれからの私は、ほとんど彼の意のままに動いた。いや、動かされた。「柔道部に入ろう」という誘いを「体が小さいから」と断っても、彼は聞かなかった。執拗に誘ってひきずり込んでしまった。森瑞樹教授の智徳会に入会したのも、彼のすすめによるものであった。又、市井の大漢学者、三浦了覚先生(当時九十二歳、全盲)の私宅に通い「孟子」の講義を聞くようになったのも、彼の勧めによるものであった。
 このような親密な関係になっても、私は二次試験の″ぼやき″の事を、彼に知らせなかった。「渋谷君とは老齢になるまで、莫逆の友でありたい。それには一方的な負い目は無い方が良い」と考えたからであった。
 昭和二十年四月、渋谷君は、ルソン島北部のバギオの近くで戦死した。米上陸軍と真正面に対峙したのが、盟、旭の二つの兵団であったが、彼は盟兵団の歩兵少尉であった。そしてその頃、私は旭兵団の工兵見習士官として、バギオの近くにいた。奇しくも戦場までが、同じ地域であったことを後で知ったのであった。
 渋谷君の死をはじめて聞いたのは、昭和二十一年の四月ごろ、第三次の捕虜収容所においてであった。そこに山形県朝日町出身の菅井正一郎氏がいて、最期の模様を詳細に語ってくれた。私は耳を疑い、別人であることを願って、何度も何度も聞き直したが、彼と同じ中隊の上等兵であった菅井氏の言葉を訂正させることはできなかった。最も失いたくなかった友の死を認めざるを得ないのであった。
 昭和二十一年の暮れに復員した私は、フィリピンの土を一握り持ち帰り、翌年、酒田市在に住むご母堂の許にとどけた。
 なお渋谷君は長文の遺書を書き残していた事が分かり、それを級友で同じ柔道部員であった斎藤稔君(八幡町・弁護士)が、「山形大学柔道部報」に紹介した。格調の高い遺書であった。


 旭工兵隊のイフ部隊

 私はイフ部隊員でも、モヤ部隊員でもありません。それでも本会に参加させていただいている理由は、イフ部隊員が転属になった旭兵団(第23師団)に、私もルソン島で転属になったからです。私の方がイフ部隊員より、一カ月余遅れての転属でしたが、同じ補充兵であったことと、部隊(工兵隊)の生還者が県内三名のうち二名が死亡し、私だけが残ったことによるものです。そして「工23の会」は、九州で催され、それにはなかなか参加できなかったことによるものです。モヤ・イフ部隊員の慰霊祭に同席して、わが部隊戦死者の慰霊も併せて行いたいという考えからでした。そして十年以上が経ちました。
 入会前はずっと、旭工23連隊に、イフ部隊員の配属は無かったものと、私は考えておりました。64i、71i、72i、と略記される三つの歩兵連隊にだけ、イフ部隊員が配属されたものと勝手に考えて調べようともしないで来たのでした。
 ところが五年ほど前、岩手県の小原宏さんから手紙を貰い、工兵隊にもイフ部隊員が配属されていたことが分かってきたのです。宏さんの兄、小原久雄氏(昭和20年5月2日、ボントック道21K地点にて戦死)が、イフ部隊員として工兵隊に転属になっていたことが手紙には書いJ昭和20年5月2日、ボントック道21K地点にて戦死)が、イフ部隊員として工兵隊に転属になっていたことが手紙には書いてありました。それで、一人がイフ部隊員であったなら、他にももっとイフ部隊員がいたのではないかと思い、私は工兵隊名簿を借り受けて調べました。今野精市さん、山鹿菊夫さんにも調査を依頼し、昨年やっと五十六名のイフ部隊員が、工兵隊に配属されていたことを知りました。それだけでなく、中野渡正二郎さんという生還者が一人いることを、今野さんは見つけてくれました。今野さんの、とことん追いつめてゆく探索心には全く感心させられました。
 中野渡さんは、昨年初めて慰霊祭に参加しました。私は立石寺本坊において彼に会い、なお不明であった点を、ただすことができました。実は彼に会って話を聞くまで、私は工兵連隊へのイフ部隊員配属に一抹の疑念を持っていました。戦死者の弟さんの手紙に書いてあっただけで、確証がつかめなかったからです。イフ部隊というのは、輸送指揮官伊藤文雄中佐の頭文字をとってつけた俗称でで、正式名称でなかったため、工兵隊名簿にも何らの注記がありませんでした。従って今野さんや山鹿さんに調査を依頼した時も「多分、それに間違いないと思いますから」という「多分」つきの依頼だったわけです。
 それが絶対に間違いない事実であったことを、中野渡さんは確認してくれました。それだけでなく、工兵隊配属のイフ部隊員が五十六名でなく、五十七名であったことを下河原さんは正確に記憶していて、証言してくれたのです。山鹿さんと今野さんで作ってくれたこちらの名簿には、指揮官である黒田少尉(岩手県、終戦近くになって戦死)の名が落ちていました。それが追加されるべきことを、彼は語ってくれました。
 そして、結局、工兵隊補充のイフ部隊員の出身県は、
  山形県  十二名。全員戦死。
  秋田県  十六名。十五名戦死。分隊長の熊田久慶伍長が生還したが、昭和五十四年 に死亡。
  岩手県  十三名。全員戦死(うち将校一)
  青森県  十六名。十五名戦死。生還一名。
                計 五十七名 と判明しました。
 右の中、戦没地・戦没月日の不明な者は、二十二名(山形県一、秋田県九、岩手県二、青森県十)おりますが、当時の状況から見てて、現地で生存している者がいる可能性は全く無いと考えられます。
 (筆者は学徒動員の見習士官。昭和五十年に、戦争体験記『ルソンの山々を這って』を出したが品切れ)
                            (平成九年・モヤ・イフ部隊の会会報)