義光物語

 テレビ・ドラマ「独眼龍政宗』において、最上義光は、悪役、敵役ともいうべき揖な立場に立たされている。私利と策謀の権化のように行動させられている。血も涙もない冷血動物のように描かれている。それだけでなく、毒を持ったさそりのようにさえ描写されている。
 義光には、たしかにそういった一面があったかもしれない。いま私の手元にある安政四年写の『義光物語 最上記』の第二話「城取十郎死之事」を見ると、次のようなことが書かれていて、その事が裏書きされているように見える。
 〔現代話訳〕出羽国谷地という処に、城取十郎(ふつうは白鳥十郎と書く)という大名がおりました。義光を討とうと思い、京の信長公へ鷹一居(すえ)、馬一疋(ぴき)を贈り、「最上の領主にて候」と偽りを申し立てましたが、信長公も遠国のことなので、ご存知なく、その旨のご返事(江戸時代の「お墨付」)を下さいました。この事を義光公が聞いて、志村九郎兵衛を使者として、最上の系図と耳白の鷹(「府白の鷹」「白府の鷹」とある本もあり、その方が正しいと思われる)一居を贈ろうと思い、国の乱れた折なので越後廻りで上京させました。そしてご機嫌を伺って上申しましたところ、遠国からの使者ということで召し出されました。その上で最上家代々の系図をつぶさに検討されて、「最上出羽守」のご返事(お墨付)を下さいました。
 そこで義光は、何としても十郎を討ち取ろうと思い、臣下の氏家尾張守と評定し、尾張守から十郎殿へ書状を送らせました。その書状には、「近隣が不和なので通行も自由にできず、人々が困窮しております。それにつけても義光は、其方と和睦したい考えでおりますので、ご同意ならば今後たがいに異心を抱かないように、十郎殿ご息女を義光の嫡子修理太夫にめ合わせ申したい」旨をいろいろ取りつくろって書いてやりました。
 十郎殿もそこで、つくづくと思案をし、義光の武勇の誉れを聞くに、なかなかいつまでも敵対関係にあることもかなうまい。この上は、尾張守が和親の提示をしてきたのを幸いに、義光と和睦し、その加勢を受けて近里を手に入れ勢いが強大になったら、その時はその時でいかような謀も可能であろうと熟慮し、義光と和睦したい旨を返事しました。
 それからたがいに使者の行き来がありましたが、十郎殿はまだ用心深くて、山形城へ来ることはありませんでした。それでまた尾張守と相談をし、義光公から使者を出して、次のように言わせました。「このごろは、私も病気が重くなり、先行きのことが心配でなりません。どうか十郎殿に対面をし、国の掟を頼み、また修理太夫が幼年の間は、家の系図も預かってもらいたい」と。そんなふうに言ってやりましたところ、十郎は、願ってもない幸いと悦んで、「そのうち間もなく参会致しましょう」という返事をよこしました。そこでいろいろの謀を構え、その日を待っておりました。
 そして十郎は、時日を移さず山形へやって来て様子を見ると、「屋形の御気色」(義光のご病気)が、殊のほか重いといって、家の子郎党残らず前後に並んでおりました。書院では成就院が護摩の壇をかざり、熱心にご祈祷をしておりました.御座所の次の間にはご一門の者が詰めておりました。そのほか、医師、陰陽師があまた出入りし、誠にご病気が重大のように見えました。
 十郎も、日ごろは用心深かったが、その有様を見て哀れをもよおし涙ぐんでいました。最上の家臣が「御寝所へお早く」と申しましたところ、義光公も言葉をかけて、「ここへここへ」と枕元近く寄らせました。十郎は「このような病気とは知りませず、不本意にも遅参してしまいました.この上はどんな事でもお心やすく仰せつけて下さい」と謹んで申されました。その時、義光公は超き直り、「最初の対面を満足におもいます。それにつけても私が亡くなったら、きっと他国から侵略を受けるでしょう。そうなった場合は、万事その方を頼みにしています。また代々の系図も、修理太夫が成人するまでは、預け置きます」と言って、一巻の書を差し出しました。十郎殿は、それを受け取り、三度頂戴し、これで出羽の主はこの我であると、言葉には出さないが色に現れて見えました。
 そうしているところを、義光公は座り直すような風をして、床の下に隠しておいた太刀を取り、抜打ちに切りつけたので、さしもの十郎も二つになって仆(たお)れ伏しました。(以下略)

 これを見ると、まことに卑怯な騙(だま)し討ちといった気がするが、しかし義光物語の記述は、十郎びいきに書かれている面がないでもない。そして不幸なことにこの義光物語が広く流布して、義光びいきに書かれだ書は、あまり流布しなかったようである。それにこの時の血で赤く染まったという”血染めの桜”と移する桜樹を、後続の大名たちはわざわざ城内に残して、義光の悪宣伝の材料にしたようなふしもあって、義光のイメージはますます残忍なものになっていったような気がするのである。

  義光びいき

 義光びいきに書かれた物語の一つに『最上物語』(六冊)がある。これはあまり流布しなかったらしく、翻刻もされていないようであるが、それには白鳥十郎という人物は、たいへん悪い人間であったと青かれている。
 同国村山都谷地と申(す)郷に、白鳥十郎光清とて、弓矢とつての達人あり。然るに光清、元来 放蕩無類にして、おのれが武勇に高慢し、領分の民をしゐたげ、他のなげきをかヘリミず。類は 友を集(む)るならひなれば、附(き)したがふ郎等に、荒木隼人之助、岩波平栽、獅子ヶ洞大蔵坊、斉隠霜太郎などとて、勇力無双の悪従ども、白鳥十郎の四天王として威を近所に振ひける。
 と、「放蕩無類」な人物であったと記されている。だから斬られても仕方がなかったのだという風に、もっていくわけである。
 この書には、信長から義光へ伝達された「お墨付」の文面も、次のごとく記きれている。
 白鳥十郎 以偽謀欺人 晁不悦
 不移時日可令追誅もの也
          右大臣信長判

  最上義光殿江
  これは、
 白鳥十郎、偽謀ヲ以テ人ヲ欺クハ、晁(晃の誤字か)ラカニ悦(よろこ)バシカラズ。時日ヲ移サズ、追誅セシム可キモノ也。
 と読むべきものかもしれないが、これによって義光のとった行為を合理化しようとしているわけである。
 また「最上盛衰記』(三冊)という写本もあって、これも流布はしなかったようであるが、義光びいきの書物である。この書に谷地事件は、
一其比、山形より六里北の方、谷地と云所の城主に、白鳥十郎藤原長尚又長久とて、貪欲無道の城主なり。然るに長尚思ひけるハ、今国中の諸士、義光が威光に恐れ、彼に随ふ者多し。何共なれ、長尚に於てハ思ひもよらず。いかにもして義光を亡し、山形を押領せんとはかり、其頃天下の武将織田信長公に使者を以て、青鷹一居、駿馬一疋を献じて、某ハ出羽の按察使斯波兼頼より以来、代々最上の主たる由、言上す。
 と書き出されている。やはり十郎を「貪欲無道の城主」と罵っている。そしてその十郎が抜け駆けの功名をねらって、信長からお墨什を貰ったのに対し、義光も、白府の鷹一聯 月山鍛の鎗百筋 駿馬三疋と、最上家の系図を願って、お墨付を拝領したことを記している。
 この信長への進上物に限っていえば、『義光物語』や「最上物語」よりも、「最上盛衰記bの記述が、事実に近いと思われる。義光物語では鷹一居と系図だけ、最上物語では「鷹の羽一箱」と家系を示す「御教書」だけ贈ったことになっているが、それでは十郎の贈り物に及ばない。後から頼む者としては、前者以上の贈り物をするのが常識と考えられるからである。
 ところで、この白鳥十郎事件だが、最上義光の謀略と言われてきているが、はたしてそうだろうか。城主の義光がこのような策略を思いつき、家臣に命令しても、秘密が守れただろうか。遠い所ならともかく、わずか六里しか離れていない谷地に、それが洩れずに済んだだろうか。そのようなことを考えると、この事件の演出家は、義光本人ではないように思われてくる。そこで浮かぴ出てくる人物が、氏家尾張守である。
 義光は、元亀元(一五七〇)年ごろ、家督問題で父義守と対立したが、その時諌言をもって和解させたのも氏家尾張守であった。この人物は、伊達家の片倉小十郎、上杉家の直江兼続はど存在が派手ではないが、最上家にとってきわめて重要な存在であったように思われる。彼が白鳥十郎の謀殺を思いつき、その筋書きに添って義光が実演したまでではなかっただろうか。それゆえにこそ、この大謀略が洩れずに実現できたのではなかっただろうか。
 それだけでなく、それ以後の義光の度重なる合戦も治政も、秀吉対策も、家康対策も、この人物が発案し構想したものではなかっただろうか。氏家尾張守の演出したものを、最上義光が演技する。そんな関係にあったのではないだろうか。そんな風にさえ思われる両者の緊密な間柄であったのである。そしてその関係があまりにべったりであったため、氏家個人は光彩を放つことがなかったのではないだろうか。 氏家尾張守は、義光の最期を見とどけて、義光没の翌年、すなわち慶長二十(一六一五)年に亡くなった.彼の生きている間中、最上家は安泰であった.しかし逝去後間もなく、最上家ががたがたにゆらいでいくことは周知のごとくである。その氏家家も、最上改易により萩に移るが、氏家尾張守の位牌は、白岩の軽部家に保存されている.そしてその位牌の底には「大先祖」と書かれていて、軽部家の先祖も氏家を名のった由であるが、どうして大先祖の位粋が白岩にあるのかは、まだわかつていない。

  駒姫の悲劇

「最上物音」(山形県立図書館蔵・写本)の巻六に、「義光公息女京都にて被レ害給ふ事」という項目がある。義光の娘の駒姫が、京の三条河原で生害を受ける場面を措いたものである。戦国の世においても、稀れに見る惨劇といってよい駒姫たちの最後を、詳細に報じたものは少ない。「義光物語」巻下の「従二上杉景勝公一使者之事」の条にも、駒姫の死について触れてはいるが、簡単である。また三条河原を六条河原としてあつて、正確でない。
 テレビ・ドラマ「独眼竜政宗」において、ドラマチックに改変されて報ぜられている於伊満(おいま)の方こと駒姫について、関心が集まっているだけに、事実はどうであったかを、知りたいものだと思う。
 「最上物語」の記述に誤りがないかどうかはわからないが、詳しさにおいて他書より勝るように思う。それでこの条の全文を現代語に直して紹介してみたいと思う。

〔現代語訳〕 義光公が、豊臣家に恨みがあることは、それだけのわけがあることであります。そのわけというのは、義光公に一人の息女がおりました。まことに美しい息女で、義光公の可愛がりょうはこの上もないものでしたが、十五歳におなりの年に、関白秀次公がしきりにご所望になりましたので、是非なく、上方へ送り遣わされました.ところが間もなく、秀次公がご勘気をこうむり、太閤のお怒りが強く、ついに紀州の高野山でご切腹なされました。そして秀次公の妾三十六人をもことごとく三条河原で殺害してしまいました。義光公のご息女も、その中の一人でしたが、折ふし、義光公もご在京中でしたので、ひとかたならず悲しみなさって、秀吉公へいろいろと詫言(わびごと)を申しあげましたが、お許しが出ませんでした。それで家臣の満山筑後守を呼んで、「明日、秀次公の妾三十六人が、河原で殺されるということだが、わが娘もその中の一人であると聞いている。だから其方は、雑人に紛れこんで余所ながら、姫の最期の有様を見届けて、おれに弄って聞かせてくれ」と、涙とともにおっしゃいました.筑後守は「委細かしこまりました」と返事してご前をしりぞき、日ごろ親しい者たちに向かって、「明日は大事な役目の使者に参ります。おのおの方もご承知のように、それがしの子どもたちは未だ幼少なものばかりですので、万事お力添えくださるよう頼みます」と申しました。するとみんなは、不審をいだいて、「それほど大事なお使いとは、いったいどんなことですか」と尋ねますと、筑後守「それほど隠さなければならないことでもないので申しましょう。明日は、姫君が不慮のご災禍に逢わせられますので、ご最期のありさまを見届けるようにとの仰せでございます。それだからとて、三代相恩の主君の姫君を雑人ばらの手に懸けさせて、何と報告の仕様がございましょうか。時分を見合わせ走り出て、姫の御首を打ち参らせ、その後で腹を十文字に掻き切って果てるつもりです。そして三途の川のお供を仕ることに覚悟を決めました。だから、あとあとのことどもをお頼みするのです」と語りました。その言葉を聞いた人たちは、みなもっともと感じながらも筑後守に申しました。「主君としましても、姫君のご最期の模様を、くわしくお聞きになりたいとお考えになって、功績の大きい貴殿を遣わされるのです。それなのに最のご心底をも顧りみないで、そのように事を運ばれようとする心底は、詮ないことに一命を捨て、人々のあざけりを招くでしょう。よくよくご思案ください」ととどめましたが、浦山は頑として承引しませんでした。そして「仰せ言はそうでも、私がそのようにすることに決心したのです」と言って止まる様子がありませんでした。
 それで朋友たちは、やむなく義光公に申し上げましたところ、義光公「なるはど、浦山筑後のいつていることももっともである。このような忠義の持を犬死にさせる結果を招くことは、考えもしなかったことだ。様子を見るだけなのだから、だれでもさしつかえあるまい」と言われて、代りに小ざかしい下部ニ人を遣わされました。
 このようにして、この両名は、始終を見とどけて立ち帰り、姫のご最期の模様をくわしく言上いたしましたが、それを聞いた義光公は、、三、四か日間は食事も召されませんでした。眼を怒らし、牙を噛んで、「無念なり」とだけ言われたとかいうことです。
〔評〕 駒姫の上格を、本書では十五歳の時とし、専称寺の縁起にもそうなっている。しかしテレビ・ドラマでは、十一歳の時に見初められ、十三歳で上落して秀次の侍妾になり、十五歳で殺害されたことになっている。於伊萬の方として二年間ほど秀次の寵愛を受けたことになっているのである。しかしテレビ・ドラマの原本である山岡荘八著「伊達政宗Jには、「義光の方にも秀吉はとにかく、関白秀次に乞われて、止むなく京へ呼んだ娘の於伊万を、秀次の顔も見ないままに三条河原で処刑された怨みがある」(夢は醍醐の巻)と記して相違する。
一方、郷土史家誉田慶恩氏の「奥羽の農将−最上義光」の年表では、天正十九(一五九一)年十月に「義光駒姫を豊臣秀次の侍妾に出し、二男家親を家康のもとに送る」とあり、文録四(一五九五)年八月二日に「聚楽第事件により駒姫ら豊臣秀次の妻妾、二条河原で惨殺される」と記して相違している。

  続駒姫の悲劇

駒姫の経歴についても、書によって大きなくい違いがあることがわかったが、私はここでそのどれが正しいかを立証するつもりはない。ただ、秀次の妻妾らの処刑がどのように行なわれたかを知り、駒姫悲劇について地元の人の関心をかき立て得るならば足りると考えている。そんな意味からも、「最上物語」の前回につづく全文の現代語訳を掲げることにしよう。
〔現代語訳〕 さて、秀次公が御父の太閤と不仲になった原因をさぐってみると、秀吉公は、下賎から身をおこして、官は関白にいたり、位は従一位に上り、人間の栄華の頂点をきわめました。それで戦を辞して子息(養子)秀次公へ関白を譲り、ご自分は憶居して太閤と号せられました。ところがその後、淀殿のお腹に秀頼公がご誕生なされました。それで秀吉公も親子の愛情のことだから、実の子に家督を継がせたいと思うようになりました。しかしそうするのは、義理の筋目に反することになるので、お考え通りに仰せつけるわけにもいかずにいました。そういう事情を、秀次公も内々に魂れ聞きなさって、それでは自分の身がどの面からも安穏(あんのん)ではあるまいとお考えになり、いささかのご過失もないよう心掛けていました。しかし侫人(ねいじん)どもは、いろいろと過失を作り出して讒言(ざんげん)し、御父子の間を縁切りにまで追い込みましたので、秀次公はご勘気をこうむって、高野山で切腹を仰せ付けられたのでした。
 この秀次公は、殊のほか好色で、たくさんの妾がいました。遠国偏土の果てまでもお探しになって、美目、容姿の優れた女人を、大小名、寺社、百姓の差別なく召し集められました。そのようにして選びぬかれた美人が三十余人いましたが、この女人たちは玉のすだれ、錦の帳(とぼり)のなかに、金銀をちりばめ、色を尽くした重ねの衣を身にまとい、月に吟じ、花に詠じ、栄華をほこって暮らし、日の光(かげ)さえ見ないといったありさまでした。しかし一盛一衰の時がめぐってきたというのでしょうか、汚い破れ車に、五人、三人と乗せられてゆくのは、なんともいたわしいことだとて、勇猛な武士から賎(しず)の身にいたるまで、涙を流さない人はいませんでした。
 ところで、秀次公には五人の子どもがおりました。第一は姫君です。第二は仙千代丸、五歳で、母は尾張の住人、白根野下野守の娘の腹です(注・「娘の腹」というと、孫になってしまうが、ここはその娘から仙千代丸が生まれたことをいう)。第三は於百丸、四歳で、山口松雲の娘の腹です。第四番は、御浅智丸、同じく四歳、第五番は於十丸、三歳で、北野別当松梅院の娘の腹でした。この人々(注・子どもだけでなく、母たちも含めていっている)は、わけてもご寵愛が深くありましたので、ことごとくお髪(ぐし)を落としなさって、日ごろ信心の寺々へ遣わし、またせ高野山へ上らせられた人もいたとかいうことです。
 三十六人の女中方は、上京、下京を引きまわされ、一条、二条を引き下らされて、羊の群のように三条の橋へと近づき移されてゆきましたが、その光景は、いたわしいなどと言っても余りがありました。
 検視は、石田治部少帝三成、増田右衝門尉長盛でした。三条大橋から西の土手のかたわらに、敷華を敷いて並んでいました。お車の列が近づいてきたので、まず「若君たちを害し奉れ」と下知しました。雑色(ぞうしき)、若殿ばらがそれを承って、玉のような若君たちをお車から抱きおろしなさって、父の首を見せましたところ、仙千代君はしばらくご覧になって、「これはどうしてなんとなられたのですか」と言って、つと走り寄ろうとしましたので、母上たちは言うまでもなく、貴賎の見物衆、守護の武士、太刀取りにいたるまで、涙にくれて前後を弁えないありさまでした。長盈と三成は、声をあげて、「見苦しいぞ。方々、早々に手を下しなされ」と下知しましたので、心弱くては叶うまいと、太刀取りはうしろに廻って、胸元を一刀のもとにさし通しました。母上たちは、人目を忘れ、「われわれをどうして先に殺さないのですか」と言って、空しいご死骸に抱きついて伏しまろびました。そのありさまは、焼野の雉子(きぎす)が身を捨てて煙にむせぶさまにことなりませんでした。一刻も遅れまいと、ご最期を急がれたのは、本当に哀れでした。
 御妾たち都合三十六人をも、ことごとく殺し、大きな穴を一つ掘って、その中へご死骸をつぎつぎと投げ入れました。そしてその上に塚を築いて、畜生塚と名づけたということです。
 罪のあるものを誅するのは、世の常のことですが、こうまで情けなくいたわしいことがあってよいものでしょうか。秀次公をこそ、憎いとお思いになっても、この人々は、その罪を露ほども関知しなかったのではないでしょうか。「評するに孥せず」 (注・「孥」は妻のこと)という聖言もあるではありませんか。たとえ一命は助け給わらなくとも、死後まで恥辱を与えられることのいたわしさよと、心あるものは秀吉公の行く末はどんなだろうと、舌を振りましたとかいうことです。
 義光公は、このような心憂いことをお聞きになって、お悲しみの余り、帰国の後、山形近在の高(たかだま)という処にあった専称寺という寺を山形に移し、寺地を下されて同じ専称寺という名で、姫君の御跡を弔らわせられたとかいうことです。一説に、義光公が御朱印を下せられようとする話が伝えられましたが、住職何某の望みで、それより最上中の一向宗の支配権がほしいと言い、それならばその意向にまかせようということで御朱印は下さらなかったという。また十四石の御朱印で、その経、今出川家から住職の衣を下されたともいいます。可レ考。

  駒姫の墓

 昭和十五年の秋ごろであっただろうか。山形高等学校の学寮(山大数養部のところにあった)の一室で、”山形市のどまん中にジャングルがある”という話を聞いた。二年先輩で、柔道部の主将をしていたHさんの話であった。Hさんはまじめな人で、けっしてでたらめをいう人ではなかった.だがその時はわれわれ後輩数人も半信半疑で聞いた。「いやァ、驚いたネ、そこに紛(まぎ)れこんだ時は、信じられないという感じで、首筋のあたりが寒くなったョ。そこは、とにかくジャングルという以外に表現できないような場所だったョ」とHさんはつづけた。緊張で顔がひきつっているように見受けられた。
 Hさんは、そこがどこかということまではなかなか言わなかった。われわれの執拗な質問がつづき、「それは、専称寺の奥だよ。夕暮れ近く、たまたま紛れ込んでね」という答えを得るのに、かなりの時間がかかった。
 今にして思えば、Hさんの紛れ込んだのは、専林寺の駒姫の墓域であっただろうと思う。そこは、中塀で区切られ、門扉が鎖(とざ)してあって、俗人の入りこめない場所である。たまたまそこの(?さん)が外れていて、Hさんが潜入することができたものであったろう。
 その時から四十七年が経つ。そしてHさん以外に、その墓域に足をふみ入れた人の話を聞いたことがない。寺側は、おそらくそこを聖域として、俗人に汚されないように守ってきているのだと、最近では思うようになった。
 「駒姫の墓は、草ぼうぼうで、とても参詣していただくような状態にありません。そのうち、綺麗に整備でもして、皆さんにお詣りしていただきたいとは考えているのですが」
 と、寺ではいう。何千回、何万回もくり返してきた科白だと思う。いや、おそらくは三百年の間くり返してきた断わりの文言だとも思う。
 わずか十五歳で処刑された駒姫の菩提を弔うために、最上義光は大伽藍専称寺を建てた。先祖や親を弔うためではなく、一女子のためにである。そして庫裡の一部に駒姫の間をしつらえ、広い境内の約三分の一をその墓域に充てた。駒姫の墓−−髪塚ともいう−−は、中塀内の一番奥まった処にあるというが、それは遺髪を埋葬した場所がそこだというにすぎない。巨大な前方後円墳も、棺のある場所は一部にすぎないが、全体が墓である。と同様に、駒姫の墓も約千坪の塀内全部が墓域だと見るべきものかもしれない。
 幼少の身で、関白秀次に召された駒姫は、充分に遊ぶ間もなく、自然に親しむ暇もなく果てた。短期間でもそこに暮らしたであろう聚楽第の局も、窮屈な場所であっただろう。山形の専称寺では、そんな窮屈な思いはさせたくない。自然を友として自由に遊び廻り、遊び疲れたら、駒姫の間にきて休む。そのようにして永遠に生かしつづけたい−−そのような欲念を義光が抱いたのではなかっただろうか。
 そしてそういう義光の願望を、専称寺の代々の住職は、見事に引きつぎ果たしつつ今日に至っているのではないだろうか。ジャングルのように、そこを放置してあるのも、けっして寺の貧困のゆえではなく、ことさら荒らしているわけでもない。自然の趣を保たせてあるだけだ、と解すれば納得ができる。
 独眼尭政宗のブームで、義光も悪役的存在で登場し、駒姫の間は、テレビの画面に映し出された。これは寺の歴史にとって、画期的なことであった。というのは、駒姫の間(二条城の局を摸した、山形城のそれを移したものだという)も俗人には頼みこませない聖域の一部であったからである。しかし墓の方は、NHKも写し出さなかった。写そうと思えば写せたのかどうか知らないが、とにかくテレビ画面には現われずに終った。寺側では、さぞやほっとしたことであっただろう。
 政宗ブームのあおりを食いそうになる前にも、寺側を深刻に悩ませたもう一つの事件があった。しかもそれは二、三年間もつづいた.椋(むく)鳥の大群の襲来であった。この墓域には、欅(けやき)を主とする多くの古木が亭々とそびえ、椋鳥には格好の棲み家となった。冬期間はとくに、数万羽の椋鳥が鈴生りになって、濁声(だみごえ)の大合唱を奏でた。”夜もろくろく眠られない”という怨嗟(えんさ)の声が、付近の住人たちからも起こったのも無理からぬものがあった。聖域の保持は、まさに最大の危機に直面したのであった。
 しかしそれも、大目玉の風船を吊り上げたりすることで、撃退に成功した。昨冬は、椋鳥の大群の飛来はなく、一応胸をなでおろすことができた。したがって周辺住民の苦情も消えた。
 私はこんな文をつづって、ことさら専称寺の秘密をあぼこうなどとは毛頭考えていない。寺側の意向の大半は、私の想像であって、当たっていないかもしれないが、仮に当たっていても、それを非とするものではない。よくぞ聖域を守りつづけてきた、と賞賛したい気持で一杯である。そしてこれまで守りつづけてきたものであったら、これからも守りつづけてほしいと思うものである。そして山形市民も、寛容の心をもってそのことを理解してほしいと思うものである。
 テレビドラマの義光は、残忍で野卑で冷血動物のような部将として映し出された。人間らしさを感じる場面はなかった。しかし実像の義光は、どの部将にも及ばないほど父性愛に溢れた人物ではなかっただろうか。

2001/08/14 写真撮ってきました
木俣修の歌碑 慶長の悲話を縁起とする寺にまゐのぼりきて彌陀にぬかずく
この歌碑建立にも山変人の親父はかかわっておったそうな 木俣さんは尊敬する歌人の一人だったそう
寺町の由来
 案内1 案内2
大銀杏の木 寺のシンボル 『おおきないちょうの木のしたで あなたとわたし〜〜』
山変人もそば黄門様もこの寺の幼稚園に通っていました。
東となりに位置する料亭『揚妻』山変人の小学校の校長先生がここの方でした。
ついでに二軒隣のポメラニアン