千歳公園・千歳山公園の石碑 2002/02/08

クリックすると640ピクセルの写真

 郷土の偉人発見。安達峰一郎博士の資料見ていて宮城浩蔵氏を知りました。なんと明治法律学校(現明治大学)の創設者の一人なのです。明治といえばすばらしい大学で義兄の親しい同級生が教授をしております。しかし、今までまったく知りませんでした。
 山形の薬師公園には訳のわからない石碑がいっぱいあります。読む気も起こらない細かい漢字がびっしりと書かれているのが二三あります。その中の一つが「宮城浩蔵顕彰碑」です。西から駐車場に入る入り口の所です。この碑の篆額は西園寺公望の筆に、碑文は中江篤介(兆民)の撰によるものであります。(その訳文の書かれた書物あります。リクエストあればどうぞ)

 また博士の資料の中に関山新道事件なる明治十三年の三島通庸県政対地元住民の政治抗争事件があり、天童村の佐藤伊之吉なる総代様が安達家の本家の先祖、安達久右衛門とともに登場してます。三島通庸と戦ったのです。どうやらその方は天童の名門で宮城浩蔵氏のごく近い血族のようであります。同じ法律専攻ということからも当時十代前半の峰一郎博士は宮城浩蔵氏にあこがれて進路を決めたのではないかなどとかってに納得しました。
(写真かすかに中江篤介が読めます)

やはり細々と字が書かれた石碑
山変人幼少のみぎり薬師祭りの時オヤジが「これは○○だ」と教えてくれたような記憶もあるようなないような。知っている人いたら教えてください。

戊辰戦争の碑もあります。

ここから千歳山公園
ここにもいろいろ建っています。 

山形市松山の千歳山公園に、物部守屋の碑がある。明治二十九(一八九六)年十二月二十三日の建立で、篆額(てんがく)が有栖川(ありすがわ)宮熾仁(たるひと)親王、撰書が伯爵東久世通禧である由が刻されている。熾仁親王は、
 宮さん宮さん、お馬の前にひらひらするのはなんじゃいな、トコトンヤレトンヤレナー
 の「トコトンヤレ節」(軍歌第一号ともいわれる)で有名な官軍の総大将。そんな有名な大将の篆額のある碑なのだから、少しは大事にされてよいはずなのに、今は顧みる人もない。蔦を這わせて空しく立っているだけである。
 物部守屋(?五八七)は、仏教伝来に反対し、蘇我馬子(?
六二六)と争い誅伐された人。廃仏毀釈の叫ばれた明治時代に、その復権を主張する人達が現れてもおかしくなかった。こういう碑が他所にも建てられたか、出羽国だけかは知らないが、とにかく今は振り返る人もなく、ただ立っているのは淋しい感じがする。権力争いに敗れた人の復権の難しさを感じさせる例である。
「お前が証人だ」より
有栖川宮熾仁親王 東久世通禧 について下記


堀田文明と
正睦の字が読める
堀田文明=正睦なのか 正睦は幕末の老中
蔵王半郷あたり昔、堀田村だった。一時山形の殿様だった堀田家に由来しているらしい。正虎、正春、正亮の三代。佐倉藩に移封なるが山形分領が4万石あったといい、山形分領にも相当数の家臣を常駐させていた。
佐倉のHPに堀田正睦の碑が堀田村千歳公園にあるとあるがこの碑のことか。


川村景明の字を確認できる
薩摩藩出身。薩英戦争に初陣し、以来鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争、佐賀の乱、西南戦争、日清戦争と明治動乱期のあらゆる戦争を経験していた。日露戦争当初は第10師団長として出征していたが、大将に昇進し新設の鴨緑江軍司令官となった。この軍は政治的色合いの強い軍で韓国駐留軍の指揮下にあったが、川村はさっさと満州軍との協力を表明して奉天の会戦では最右翼から奉天に迫った。川村は激戦の中でも最前線に出かけて行き、将兵に接したため兵達は村長さんの様に親しんだと言われる。


番外編 西蔵王高原『西行歌碑』
たぐひなき思ひいではの桜かなうすくれなゐの花のにほひは
西行さんは佐藤、前述の天童村の佐藤家は子孫とのこと



有栖川熾仁親王<たるひとしんのう> 1835. 3.17(天保 6. 2.19)〜1895. 1.15(明治28)

有栖川宮9世。幼名は歓宮。幟仁(たかひと)親王の第1王子、母は佐伯祐子。京都生れ。
親子内親王、のちの和宮婚姻の内旨を受けていたが、大老井伊直弼の公武合体策のため解消したことは有名。
1868(慶応 4)   東征大総督となり参謀西郷隆盛とともに東下
1870(明治 3. 2.) 水戸藩主徳川斉昭の11女貞子、つまり慶喜の妹と結婚
1895(明治28)     病死

東久世通禧<ひがしくぜ みちとみ>(1833-1912)(天保4−明治45)公家

8月18日の政変で追われた七卿の1人。
長州兵に守られて周防三田尻に逃げ延びる
この際に官位を剥奪され、大藪竹斎という変名を用いるようになる
王政復古によって帰洛し、政界に復帰する
明治新政府の下では外交事務を掌握する
明治2年8月 第2代開拓長官に任命される。
明治2年9月 開拓判官ほか官吏、農工民200名を率いて函館へ赴任し、開拓使函館出張所を開庁。行政機構の整備、諸藩分領支配の統轄、札幌本府の建設、樺太開拓使の新設など初期開拓行政の推進につとめた。明治4年、 開拓使札幌本庁へ赴任。これより開拓行政の中心は函館より札幌に移り、北海道の開拓は新たな段階を迎えることになる。この年の10月、侍従長に転ずる。
明治4年   岩倉使節団に同行し、翌年帰国する
その後、元老院、貴族院、枢密院等で活躍する
享年79歳


堀田村について
  大字半郷字石高七十一番に接する三叉路の中心點
  大字半郷字石高七十九番第一號地堀田村役場南方三叉路の東側
  元標地點より距離二間


堀田正睦の年表

年 号

西 暦

こ  と  が  ら

安永 7

1778

ロシア船えぞ(北海道)にくる

文化 7

1810

8月1日 正睦生まれる

文政 8

1825

3月8日 家をつぐ
外国船打ち払い令

天保 4

1833

佐倉藩々政改革はじまる

   5

1834

正睦、寺社奉行になる

   8

1837

5月 大阪城代になる
7月 老中になる

  14

1843

秋、老中をやめる
佐藤泰然を招く

弘化 元

1844

オランダ使節幕府に開国をすすめる

嘉永 6

1853

ペリー浦賀にくる

安政 元

1854

日米和親条約

   2

1855

正睦、再び老中となり外国事務総裁をかねる

   5

1858

1月 日米修好通商条約につき、天皇の許可を得るため、
京都へ行く

6月 老中をやめる
日米修好通商条約調印

   6

1859

正倫に家督をゆずる
安政の大獄

万延 元

1860

桜田門外の変

元冶 元

1864

3月21日死去 54歳
イギリス・フランス等4カ国下関を砲撃

 

ほとに