とある戦争遺跡

2004/11/06

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H先輩のシンポジウム(2000)資料より抜粋

第1部 はじめに
 兵器工場を再疎開させる地下工場建設のため、□□の○○山と約4k東方の△△山に、1945年の雪解けをまって地下壕を掘り始めたが、8月の敗戦によって終結した。
 放置された地下壕のいくつかは現存しているが、崩落の危険があるため立ち入りが禁止され、当時の状況を知る人を除けば、戦争遺跡として省みられることもない。
 地下壕建設当時の聞き取り調査を踏まえ、@ 〜省略〜 と、A戦争遺跡の保存について考える。

実際工事に使用された

掘り出した岩で作られた土留め

第2部 戦争遺跡『○○山の地下壕』
1 地下壕工事の内容
 60年前の1944年の暮れ、空襲から逃れるため仙台(仙台市苦竹 仙台駅の4k東で、現在陸上自衛隊仙台駐屯地がある)に疎開しようとしていた東京第一陸軍造兵廠仙台製造所は、空襲と艦砲射撃の危険が迫った。
 その再疎開先として、○○山と△△山に地下壕を掘って、爆撃にも耐えられる地下兵器工場を建設しようとした。
 山裾の農地に勝手に陸軍用地の名の付いた杭が立てられ、土地所有者は村役場に集められ、補償金の話もないままに農地が工事用地や労務者の現場宿泊所用地にされた。
 岩盤の固い山にトンネルを縦横に掘りめぐらし、爆撃にも耐えられる地下兵器製造工場の建設工事は、雪解けを待って始められた。 地下壕工事は、幅3m・高さ2m程のトンネルで、最長で100m程度掘り進んだところで終戦(8月15日)を迎え、放棄された。

保存庫として使用されている穴も

入り口がどんどん小さくなっている

 ○○山の東側と西側には、現在も各13箇所のトンネル跡が確認でき、そのうち半分は埋没し痕跡を残している。
 現在も進入可能なトンネルの中では、最長が約39mである。
 △△山のトンネルは、ブドウ畑造成工事によって埋められ、洞窟跡らしきものが確認できる程度になっている。

塞がった穴

34mの壕

 汽車で□□駅に送られてきた建設資材(釘、ガラス、鉄管、グリス缶等)は、馬車で運搬されて地域の物置等に保管され、7月には◇◇国民学校(現在の◇◇小学校)東体操場に数十台の弾丸検査機が持ち込まれ、グランドには旋盤のような小型の工作機械が持ち込まれた。
 工事の進捗に合わせて、資材運搬のために□□駅から○○山や△△山の現地までの鉄道引込み線工事が計画され、線路用地杭も打たれた。

天井まで1.7mくらいか

本来は真っ暗

2 建設作業従事者と労働の実態
 建設工事は、○○山の東側を井上組、西側を安藤組が、新城山を大林組が、それぞれ請け負った。
 250人程の労務者は、仙台など県外から移動して来た者が多く、そのほとんどが朝鮮人で、近郷の者を含む一都日本人もいたが、勤労動員や学徒動員はなかった。

入り口を内から

入り口を外から

 地下壕の掘削作業は、コンプレッサーによる削岩機もー都使用されたが、ほとんどがツルハシやタガネ等による手掘りで行われ、掘削の進む穴もあれば、なかなか進展しない穴もあった。

冬眠に入ったと思える蝙蝠

天井にぶら下がる突起ないので数は少ない

 硬い岩には、導火線によるダイナマイト発破をかけ、落盤の危険性のある箇所には、松材による鳥居組をした。
 発破音は地域中に響き渡り、発破による飛び石は、100m離れた民家の屋根に直撃して穴を開けたり、150m離れた屋敷や農地にまで及んだ。
 発生するズリは、モッコで壕の外に排出され、掘削延長が延びるとトロッコも使用され、壕の前の畑に放置されたが、鉄道引込線路の路盤材にする予定であった。

 近郷から働きにきていた日本人は、ほとんどが朝8時から夕方5時までの労働時間(一部には、交替制での夜間作業もあった)で、当時、戦地や軍需工場に駆り出され、労働力が極端に不足し、かつ、働く場もなくなっていた中で、賃金が通常の倍であったと証言している。


2004/11/22 アップしていいものか2週間悩みましたが地名等伏字にして載せちゃいました。危険な場所も多いので誰かがこのサイトを見て壕に入って生き埋めにでもなったら大変だと考えたのであります。だけど、新聞にも数回載せられているし、地域の方はみんな知っているとのことなので発表しちゃいました。もし探し出して入るような場合、自己責任でお願いします。
 H先輩は現在山形県の終戦時のイロイロな話を本にしようと資料収集中であります。

ほとに