多賀城海軍工廠

2004/11/20

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 多賀城海軍工廠は1942年(昭和17年)海軍の銃器・火薬類の生産増大のため、現在の宮城県多賀城市に建設された。
 当時約8000人弱の農村だった多賀城村に5000人近くの要員が移住してきた。同工廠は、村の面積の四分の一を占め、日本最大級の規模であった。
 その土地の軍による取得は売買証明書に金額も記載されておらず、かなり強引なものであった。労働力もタコ部屋労働により、わずか2年程の間に広大な工廠が建設された
 艦上戦闘機「零戦」の機銃と弾薬の製造を開始したのは1943年である。
 1945年8月まで旧制中学生らが学徒動員され、1日約1万3000人に上る若者らが働いていた。

地図は『多賀城海軍工廠配置図』、海軍から米軍への『多賀城海軍工廠引渡し目録』を史料に地元の先生が作成したもので地図に番号が入っており細かく建築物の名称が記載されている。(『多賀城市史』第2巻362〜363ページより)

多賀城市役所

市役所駐車場から文化センター

A地点から南を
この道路が工廠のメインロードであった

A地点から北を
この道路延長の東側が自衛隊
ここは神町の下部になっている

B地点から西
B地点を中心にタコ掘の工事がなされた

B地点から東
タコ掘の現状
菅原組が請負い、タコ部屋労働により建築された

さらに南に突き当たりC地点
工場地帯だがやはりここ数年の不景気が目に付く

D地点のタコ掘
最後のほうの工事で土盛りが結構手抜きされたそうである

貯水所の北道路教会脇の空地から
工廠の時代からあったが昭和に建て替えられた

貯水所北側は労働者の宿舎が建ち並んでいた
現在も道路の少ない住宅街

工廠の存在などまったく知らずに2001年にサッカーをしに

東北学院大学グランドに来たのであった

ほとに