不忘B29

2005/07/17

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「小学校の時、墜落したB29が四小の体育館に展示され見に行ったんだ」 
 松山二丁目のFさんが話してくれました。変酋長は何年か前に安斉徹写真展で見た墜落B29の写真が印象深かったため、おおいに興味を示すと
「その後その事件にまつわるいろんな話があって、おもしろい本もあったんだけど無くなってしまって探せない」
 そして、Fさんはやまがた散歩1991年No21森山憲治郎氏著になる「あわや県都も」のコピーと1945年の事件の載った新聞のコピーを持ってきてくれたのでした
『いまも硯石から不忘山の登山道には、B29の破損した金属片がちらばっている。』の文書(やまがた散歩より)が昨年から気になりはじめ、1991にちらばっていたなら現在だってあるんだろうと某お医者様から「ありません」などと否定されながらも、硯石からの山登りを密かに狙っていました。五月の山菜、六月のサッカー、竹の子シーズンが終了した七月の連休、朝早く目を覚ましたのを幸いと七ヶ宿に向け出発。黄門様の「長老湖のほうから登ると近いべね」などとんでもない。歩き始めて15分で小ダウン。なにせエコーラインから歩くのと高度差が全然ちがう「二時間半で着くらしい」などとんでもない話に思えてきた二時間弱ころ潅木帯の中の空地に一見お墓に見えなくも無い白い四角の花崗岩の石とその前に積まれた雨どいのような錆付いた鉄屑を発見したのでありました

2005/05/01撮影
国道113沿い 
Fさんは不忘山の下と国道の2つ不忘の碑があるとおっしゃっていたがこれは山頂のの説明だった
不忘の碑

父母の日に不忘の碑
なんちゃって
黄門様は不忘山頂からここまで下る体力がないそうである
もっともである
発起人は元白石市議庄司猛太郎氏 ライシャワー元アメリカ大使も協力した
このように上を向いている
登山者はあまり気にしないで通り過ぎる
中にはバックにして写真撮る人も
硯石登山道七合目あたり
登山口から2時間弱
潅木帯の中の空地
慰霊石らしきもの発見 雨どいのようであるがブリキではなく重量のある鉄材
マフラーのようなパイプ 先端は塞がっている 部品はアメリカっぽい
なんと4cmくらいのボルト、ナット、ワッシャーセット発見 丸いのは直径3cm位厚さ3mmくらい
機体の継接ぎ用鉄部品なのでは
機体ってジュラルミンだと思うんだけど鉄もかなり使っているのか こんなものがあるとは半信半疑でとにかく登ったのであった
二番機の墜落場所
不忘の碑あたりからの稜線と
南屏風からの稜線の間の大若沢上流部に落ちたらしい
三番機は芝草平の西南ブナ平に落ちた
2000/07/23に登って骨折の救助作業をした
屏風岳を杉ヶ峰から
地図には横川から天神沢沿いに芝草平までの廃道が載っているが行けないだろうな
ここからはB29にあまり関係なし
9:00ころ駐車している車一台
登り口
2時間15分後くらい
突然木が無くなり展望が開ける
しかしちょっとそこまで登るのに苦労
不忘山からの声が聞こえるが人は豆粒
碑はどこだ
きつい坂を登りきったら碑らしきもの発見
白石スキー場コース大賑わい 碑の下は道しるべ
碑を向かって右から 碑を向かって左から
写真撮ったら引き返そうと思っていたが
撮影が休憩になり多少回復
山頂目指してしまう
2000は神社で引き返したのでこれも初撮影
神社
向こうは南屏風から屏風岳
前衛の山の巾のあること
右上に長老湖も
あきらかにユウフン
いるんだ
登り口は近い
到着
虫に悩まされなかった
途中の橋から横川上流
萱平からの林道を通ってこの川の上流に下りたこともあり 横川の部落からさらに上流に行くとこんなものがあった
山形では見たことのない工法の堰堤 けっこう揺れる
メイン道路に『つりばし』の案内あり辿ったら着いたのだ

山頂での不忘の碑漫談
 登山道の狭くなった場所でフウロ(高山の花)の写真を撮っているとまあ山では若い方に分類される奥様に
「花の写真撮ってるんですか」
 と質問されました
「いいえ、花でも山でもあるものはすべて。今日は不忘の碑が目的です」
「え〜不忘の碑、なんで〜」
 と絶句した様子。そんなに不思議なことなのかなと思いつつ
「戦後60年の節目の年だから墜落したB29の碑を撮りに来たんです」
 多分不忘の碑の由来は知らなかったんだと思うが
「飛行機が墜落したんですか」
 と質問される
「東京大空襲の1945年3月10日、どういうわけかここまで飛んできたB29が墜落し、亡くなった搭乗員の慰霊碑なんですよ」
 自分だって10年前くらいにやっと知った知識を、知ったかぶりをして教えると
「何人亡くなったんですか。どうして墜落したんですか。家の人ここまでお参りに来るの大変でしょうね」
「一機あたり12〜13人だと思ったけど、まちがって自分で落ちたんですよ」
「えーそんなにたくさん乗ってたんですか。飛行機って1人か2人しか乗ってないと思っていた」
 と、けっこう天然。B29も知らないようであった。三機墜落したことを言うと話がまた長引きそうだったので黙っていたが
「遺族の方は来てるんでしょうね」
 慰霊にこだわる人だなと思いつつ
「遺族は来たのかどうかわからないけど前のライシャワー日本大使が作ったんだから彼は登って来たんじゃあないかな」
 などと勝手な推測を述べるがライシャワーさんの名前も初耳だった様子
 ・・・まあそんなものか・・・

参考
  墜落日時 乗員数  
一番機 1945/03/09PM10ころ 11 爆装なし  
ニ番機 1945/03/09PM11:30ころ 11 爆装なし  
三番機 1945/03/10AM02:00ころ 12 焼夷弾装着   

  三番機のみ12人なのはLAIRDという少佐が機長兼操縦士として便乗したからとの記録を見つけました。ほとんどの機長は尉官なのに佐官が特別乗り込んだのにはなにか重要任務があったのでしょうかか
 当時の新聞によると山形側の巡査が舟引山を越え横川を渡りブナ平目指して空沢沿いに捜査に行った記事がありましたが、これは三番機を目指したものと思えます。記事からは当時舟引林道はなかったように感じましたが、考えてみると三月なんだから雪のため道などなくなっていたのでしょう。舟引山分水嶺には多分山形側に水を分けていたんじゃと思えるかなり古い用水路があったのを思い出しました
  また、3/10東京大空襲の2時間前くらいに二機のB29が東京上空に飛来し、
なにもせず房総沖に飛び去り、安心した東京都民の上に焼夷弾の雨霰を落とした旨の文章が多くありました。墜落機は房総沖を北上したらしいので「これだっ」と閃いたのでしたが東京空襲は3/10AM0:08開始なのでタイムラグが大きすぎるようです。300機以上の爆撃を成功させるためには偵察(囮)機にさらに誘導機がいても不思議ではないので、そのような役目の遊軍機だったのでは
・・・などと推理してみるのもまあいいじゃあないですか・・・

飛行理由、墜落理由 謎謎・・・・