1945年3月9,10日 南蔵王不忘山にB29が3機墜落


2005/07/17 2021/11/29再編集

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参考
  墜落日時 乗員数  
一番機 1945/03/09PM10ころ 11 爆装なし  
ニ番機 1945/03/09PM11:30ころ 11 爆装なし  
三番機 1945/03/10AM02:00ころ 12 焼夷弾装着   

話は逆になりますが、三番機は芝草平の西南ブナ平に落ちましたが、写真は芝草平 屏風岳を杉ヶ峰から撮影
地図には横川から天神沢沿いに芝草平までの廃道が載っているが行けないだろうな ・・・
「小学校の時、墜落したB29が四小の体育館に展示され見に行ったんだ」松山二丁目のFさんが話してくれました。 カメラマンは何年か前に安斉徹写真展で見た墜落B29の写真が印象深かったため、おおいに興味を示すと
「その後その事件にまつわるいろんな話があって、おもしろい本もあったんだけど無くなってしまって探せない」 そして、Fさんはやまがた散歩1991年No21森山憲治郎氏著になる「あわや県都も」のコピーと1945年の事件の載った新聞のコピーを持ってきてくれたのでした 『いまも硯石から不忘山の登山道には、B29の破損した金属片がちらばっている。』の文書(やまがた散歩より)が昨年から気になりはじめ、 1991にちらばっていたなら現在だってあるんだろうと某お医者様から「ありません」などと否定されながらも、硯石からの山登りを密かに狙っていました。
白い石は慰霊石らしきもので、茶色のB29残骸遺物発見 。雨どいのようですが、ブリキではなく重量のある鉄材です。 五月の山菜、六月のサッカー、竹の子シーズンが終了した七月の連休、朝早く目を覚ましたのを幸いと七ヶ宿に向け出発 黄門様の「長老湖のほうから登ると近いべね」などとんでもない。歩き始めて15分で小ダウン。しかし、がんばって登り、長老湖がこのように見える場所にB29は眠っていました。 なにせエコーラインから歩くのと高度差が全然ちがう「二時間半で着くらしい」などとんでもない話に思えてきた二時間弱ころ
潅木帯の中の空地に一見お墓に見えなくも無い白い四角の花崗岩の石とその前に積まれた雨どいのような錆付いた鉄屑を発見したのでありました きつい坂を登りきったら碑らしきものを発見できました。 白石スキー場からのコースは大賑わいでした。
不忘の碑に到着しました。 大きい岩石に、文字が刻印された金属プレ−トがはめ込まれています。
2005年の時、よく見もしなかったのでしょうが、文字は全部英語だとばかりだと思っていました。しかし、どうやら下半分が日本語なのでありました。 不忘の碑を向かって右から撮影 不忘山山頂は賑わっていました。 多分、上山市方面
不忘の碑を向かって左から撮影 『不忘の碑』のタイトル。右上の文字は、まちがいなく日本語でした。
碑の下の道しるべ 登山者は登るのが苦しくてか、興味がないのか、あまり気にしないで通り過ぎていました。
中には不忘の碑をバックにして写真撮る人もいらっしゃいましたが、少数派だったような記憶です。 不忘の碑の写真撮ったら引き返そうと思っていましたが、撮影が休憩になり多少回復したので こうなったら、不忘山山頂まで行こうとがんばってしまいました。
二番機は不忘の碑あたりからの稜線と南屏風からの稜線の間の大若沢上流部に墜落したらしい
不忘山山頂の碑 エコーラインから登ると、だいぶ手前から引き返すので、初めてここまで来た・・・そして多分最後 神社。向こうは南屏風から屏風岳 不忘山山頂で『不忘の碑』について登山のオネエサンと会話しました。
登山道の狭くなった場所でフウロ(高山の花)の写真を撮っているとまあ山では若い方に分類されるオネエサンに「花の写真撮ってるんですか」 と質問されました。 「いいえ、花でも山でもあるものはすべて。今日は不忘の碑が目的です」と回答 「え〜不忘の碑、それはなに〜?なんで〜」と絶句した様子。そんなに不思議なことなのかなと思いつつ 「戦後60年の節目の年だから墜落したB29の碑を撮りに来たんです」と言うと
B29は知っていたようで「飛行機が墜落したんですか」 と質問されました。 「東京大空襲の1945年3月10日、どういうわけかここまで飛んできたB29が墜落し、亡くなった搭乗員の慰霊碑なんですよ」自分だって10年前くらいにやっと知った知識を、知ったかぶりをして教えると 「何人亡くなったんですか。どうして墜落したんですか。家族の人ここまでお参りに来るの大変でしょうね」 「一機あたり12〜13人だと思ったけど、まちがって自分で落ちたんですよ」と、さらに知ったかぶり。おまけに、まちがっている・・・正解は11〜12人
「えーそんなにたくさん乗ってたんですか。飛行機って1人か2人しか乗ってないと思っていた」と、けっこう天然。三機墜落したことを言うと話がまた長引きそうだったので黙っていましたが 「遺族の方は来てるんでしょうね」ずいぶん慰霊にこだわる人だなと思いつつ 「遺族は来たのかどうかわからないけど前のライシャワー日本大使が作ったんだから彼は登って来たんじゃあないかな」などと勝手な推測を述べるがライシャワーさんの名前も初耳だった様子・・・
山頂での会話、終了
ここからB29の残骸の詳細観察。白い石が、慰霊碑のようです。
バイクのマフラーのようなパイプだが、先端は塞がっていました。 「なんとなくアメリカっぽい」などと書いていましたが、「アメリカっぽい」ってなんでしょう・・・?!
なんと4cmくらいのボルト、ナット、ワッシャーセット発見 登山者は「勝手に山にあるものを持ち帰ってはいけない!!」という山のルールを、みなさんしっかり遵守していて、すばらしいなと思ったのでした。・・・16年後の現在も大丈夫かな・・・? 丸いのは直径3cm位厚さ3mmくらい。機体の継接ぎ用鉄部品なのでは・・・
爆撃機の機体ってジュラルミンだと思うんだけど、残骸はほとんど鉄なのでした。まだ戦争中だったので、高価な材料になるものは日本軍が兵器に転用したのかな・・・? 終戦の5ヶ月なので、それはあり得るけど、軍は終戦の時、資料を全部焼却したとのことなので、山形四小で展示された機体がどうなったのかなども、真相は闇の中 平成27年8月2日、不忘平和記念公園祈念碑除幕式及び開園記念式典が、蔵王連峰の不忘ふぼう山を望む宮城県七ケ宿町で営まれた・・・のトッピックスが東北防衛局のサイトにアップされています。 死亡した搭乗員34人を慰霊する「不忘平和記念公園」が完成し、不忘平和記念公園建設委員会の主催により、異国で果てた米兵を慰霊するとともに戦争のない世界の実現−世界平和を祈念するとのことです。
当日は快晴の下、公園建設実行委員会委員のほか、米国側からはキャロライン・ケネディ駐日米大使の代理として在札幌米国総領事のジョエレン・ゴーグ首席領事及び在日米陸軍司令官のジェームズ・パスカレット少将 日本国側から二階俊博自民党総務会長及び地元選出自民党国会議員が、地元宮城県からは同委員会名誉会長である村井嘉浩宮城県知事及び周辺自治体首長、陸上自衛隊から松村五郎東北方面総監などが参列 総勢約500人の参列者のもと記念式典が粛々と執り行われた。 公園には、不忘の碑のレプリカ、不遇の死を遂げた34人の米兵の氏名が書かれたりっぱな記念碑と、一人一人の慰霊碑が設置されました。2021年はもはや寒いので、2022年視察予定ということで・・・
われらがJFKの娘のスイート・キャロライン元大使は、来てなかったようですが、前述した不忘とB29が、この式典でクローズアップされて、それについて調べたり、出版されたりのプチブームが起きたんじゃないか・・・と推測します 数年前に突然、山形新聞に本についての記事が掲載されたり、山形第四小学校でのB29の目撃者の話が載ったりして、変だなと思っていましたが、式典や新モニュメントもことを、まったく知らなかったためでした。 三番機のみ12人なのはLAIRDという少佐が機長兼操縦士として便乗したからとの記録を見つけました。ほとんどの機長は尉官なのに佐官が特別乗り込んだのにはなにか重要任務があったのでしょうか 当時の新聞によると山形側の巡査が舟引山を越え横川を渡りブナ平目指して空沢沿いに捜査に行った記事がありましたが、これは三番機を目指したものと思えます。
記事からは当時舟引林道はなかったように感じましたが、考えてみると三月なんだから雪のため道などなくなっていたのでしょう。舟引山分水嶺には多分山形側に水を分けていたんじゃと思えるかなり古い用水路があったのを思い出しました。 また、3/10東京大空襲の2時間前くらいに二機のB29が東京上空に飛来し、なにもせず房総沖に飛び去り、安心した東京都民の上に焼夷弾の雨霰を落とした旨の文章が多くありました。 墜落機は房総沖を北上したらしいので「これだっ」と閃いたのでしたが東京空襲は3/10AM0:08開始なのでタイムラグが大きすぎるようです。 300機以上の爆撃を成功させるためには偵察(囮)機にさらに誘導機がいても不思議ではないので、そのような役目の遊軍機だったのでは・・・などと推理してみるのもまあいいじゃあないですか・・・飛行理由、墜落理由 謎謎・・・・

参考
  墜落日時 乗員数  
一番機 1945/03/09PM10ころ 11 爆装なし  
ニ番機 1945/03/09PM11:30ころ 11 爆装なし  
三番機 1945/03/10AM02:00ころ 12 焼夷弾装着