尾花沢市 天子塚・御所神社


2022/11/26

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鎌倉殿の十三人に刺激を受けて、1221年の承久の乱をチラチラ読むと、なんと朝廷の二人の上皇の若い方、尾上松也演じる後鳥羽上皇の子供の順徳上皇が、その御所様だったのであります。 この道路は最上町へ行く時に、よく通りましたが、前写真の案内板にはまったく気がつきませんでした。それはこの『宮沢小学校』の案内の隣にバーンとたっています。 この辺の複数小学校を統合して、割りに最近立てられた尾花沢市立宮沢小学校があり、その右の方に、白い鳥居のようなものが見えますが、あれが天子塚のようです。
『宮沢中学校跡』の石碑の所から小学校のグランドの南側をあっちに歩きます。
順徳上皇が眺めたかもしれない尾花沢市正厳から南側の山並み ちょっと東に方向返還し撮影。左のラクダのコブ山は二ツ森です。 左端に天子塚の鳥居です。 この陵は、大正15年(1926年)の帝国議会で調査が審議されて、日本中の話題になったのだそうです。
天子塚の麓にある石鳥居は、まだ新しいようです。 天子塚への参道 宮沢小学校を左手に見て上っていきます。
10分も経たないで天子塚に到着。 壇は三段になっており、下壇は方十間、中壇は方七間、上壇は方三間ある。中央に老杉がありその下に遺骸が収められ、古くから壇上に上らないように戒められていた。 伝承だから『伝』の文字があるのでしょうが、ノウハウがないと伝順徳天皇だったのかと思ってしまう・・・可能性がなきにしもあらず 少し下方に、小さいすべすべした石。もしかして順徳上皇の従者の墓?
陵の中には、紙垂(しで)を付けた杉の木が静かにそびえていました。神社の案内にはその下に遺骸が埋められていると書いてあります。 石鳥居の製作は平成だったような・・・ 尾花沢市押切の町並みと二ツ森
車で行くのは躊躇われたので、歩いて行きました。 北方面 北西方面 宮沢小学校から県道28号線をちょっと東に進むと、森山養魚場です。
山形新聞に鉄魚の記事が載っていて、その中に筆者の親父の随筆に登場する『山男ヨシゾウ』も登場していて、他人事じゃないと思っていましたが、なかなか訪れることができず、この日の訪問になりました。 興味ある人がいないとも限らないので、その記事は2022年10月10日の山形新聞に載っています。 Wikiでも『鉄魚』は説明されています。購入可能なのかどうかは聞き忘れました。 森山さんちの?ヌコ
天子塚の案内に気づかなかったのは、この森山養魚場のちょっと東の宮沢駐在所に、甥の友人のOさんが駐在として泊り込みしていて「今日はパトカーあるかな?」とか、注目していたせいで、左側に目がいかなかったのかなと思ってます。 県道28号線を正厳方面へ向かい、天子塚のちょっと西にある『御所神社』を視察してみました。 伝承では、順徳上皇は、侍従の阿部常次郎頼時の手助けで密かに佐渡ヶ島を脱出し、日本海を渡り、最上川をさかのぼって大石田に上陸し、尾花沢から舟形山に潜幸した。 その後、山を下り、上の宿に御所を構えたが、寛元4年(1246)7月、この地で崩御したとのこと。
御所神社から宮沢小学校がこのように見え、その向こうの丘が天子塚になります。 御所神社から北の方向
御所があったから名づけられた「正厳」の町並み
二ツ森
「正厳」らしいもの?はないかと公民館へ行ってみる。 「正厳」らしい公民館の小屋?
公民館本体 正厳公民館から北方面、左が2020年閉校の尾花沢市立明徳小学校。順徳天皇から徳の字を拝借したのか?右がさくら保育園、さらにずっとあっちの山の向こうが最上町 2009年に鶴子ダム上流の素掘りトンネルの探索の後、『御所の水』の案内を見つけていってみたときの写真です。
この時は、公園が整備中っていう感じで、多分、現在は、もっと設備が作られたりしているんでは・・・? 見ごろの時は、ハスの花が咲き乱れ、すばらしい光景だと思います。
天子塚・御所神社レポート了