随筆『馬の骨』より『山男ヨシゾウ』


2022/12
 


 

当サイトの運営者の親父の名はトシオで2001年に亡くなっていて、生きてりゃ丁度100歳。昭和に発行されていた山形のミニコミ誌『やまがた散歩』に、ずっと、何かを書いていて、連載で書き留めた文書を、タイトル別に、随筆集にして出版していました。『山男ヨシゾウ』は随筆『馬の骨』の中に載せております。
そして、その内容は、幼児期から小学生の時、自宅の座敷の囲炉裏を囲んで『ヨシゾウ』とボーッと対峙していたことから始まり、会わなくなるまでのことを身元調査なども含めて書いています。
 2022年10月10日の山形新聞に堀○記者が『鉄魚』について書いていました。その最後に、『山男ヨシゾウ』について、森山養魚場の森山さんが話していますが、その『ヨシゾウ』さんは、出身地や、その後の目撃情報などから、明らかに、トシオの書いた『ヨシゾウ』と同一人物だと思われます。
 ちなみに、堀○記者は、本人はまったく知らないと思いますが、2021年8月『処暑』の記事で、運営者と、その二歳の孫の写真を新聞に載せてくれた記者です。その時から、堀○の字を目にするたびにチェックしています。ダイナミックなモンテのサッカー写真の撮影者で、『鉄魚』や専称寺のルーツのような郷土史的なものも得意にしているようで、大きなお世話でしょうが、運営者とは、趣味がカブリっているようです。
 それで、『鉄魚』の文とトシオの文から、『山男ヨシゾウ』の秘密に迫り、後世に伝えようと、トシオの文書をOCRでテキスト化したものと、関連写真で追いかけてみました。
黒色背景に白文字がトシオの『山男ヨシゾウ』で、運営者の文 や写真のコメントは薄緑色、『鉄魚』からの引用を、(鉄魚→)〜〜(←鉄魚)にして、判読可能にしてあります。

『ヨシゾウ』さんはトシオの生まれる前から、トシオの実家を手伝っていたようで、その後に不幸な事情から一般人から山男に変貌してしまったようです。
(鉄魚→)1927(昭和2)年、東北帝国大学教授を団長とする一行が魚取沼を調査した。(←鉄魚)とありますが、その時、トシオは五歳で、そのあたりから『ヨシゾウ』と会った記憶があるようです。
それは、不幸な事件の後、山男になってしまった『ヨシゾウ』でした。
 

森山養魚場の鉄魚生簀
 

「赤っぽいのは全部、鉄魚ですか?」
「そうです。白っぽいのもいます。うちのじいちゃんが飼うのを始めたんですけど、突然変異で生まれたって聞いてます」
 

ここに入って、話を聞かせてもらいました。川魚ばかりでなくニシンもありました。あとから知ったのですが、ちょっと北へ進むと池になっている養魚場があるようでした。
 


1

わが家に泊る数少ない外来者に、山男のヨシゾウがいた。稀に訪れる人をマレビトというのであれば、彼はまさしくそのマレピトであった。しかし特に、上の座敷にあげて歓待される類の人でなかったから、マラウドつまり賓客ではなかった。
 ヨシゾウは年にー度くらい、雪のない季節に忽然と現れた。夕食が過ぎたころ、土間の入口からぬーっと入ってきた。そし下の座敷の囲炉裏端に座り、座禅に似た大胡坐をかき、動かなかつた。言葉は一言も発しないが、よく聞くと口元で何かぷつぷつと昔を立てつづけることがあった。向きあっても凝視することがなく、側で騒いでもそこに関心を向けることもなかった。
 ヨシゾウが来ると、珍しがって子供達が群がった。六尺豊かの長身に襤褸をまとい、髭はうすくてあまり無いが、豊富な髪を伸び放題にし、それが垂れてこないように、額の上で紐で括りあげているヨシゾウの姿は、最初は目を剥かしめるものがあった。しかし全然動きがないので、子供達は退屈して一人去り二人去りし、炉端には私とヨシゾウだけが残った。
 一方、私は炉端に座っていることが多かった。外でも内でも子供らしく遊まわることが少なく、炉縁にしがみついてばかりいるので、姉達から「オラエノイソキョ」(わが家の隠居)と渾名されていた。昼は上の座敷の横座が、夕方からは下の座敷の横座が私の指定席のようなものであった。従って私とヨシゾウは、丁度向きあう形で取り残されるのであった。二人は黙ったまま、一時間でも二時間でも座りつづけた。ヨシゾウはその間、私に全く関心を示さず、時折りぷつぷつと独語と思える音を唇から洩らした。そういう彼に、私の方から言葉をかけるきっかけは、全く見つからなかった.
 ヨシゾウは、家族の入りおえた仕舞い風呂に入り、夜は茣蓙を被って寝た。古布団を出しておいても、それを使おうとはしなかった。そして朝は、食事前に引きあげていった。そんな彼を知っていてか、わが家では彼が来ても、茶の一杯も、ふるまおうとはしなかった。
 おそらく彼は、自分が物乞いに来たのではないという、強いプライドを持っていたのであろうか、施しを一切拒否した。いつの夏だったか、伯母が彼の着ているものがあまりにひどいので、古着をやろうとしたらしかった。だが、どうしても手を出そうとしないといって、その頑固さにぷりぷりしていたことを憶えている。
 


運営人も数才のころから、トシオの実家へ盆と正月行きましたが、茅葺だったか、茅葺をトタンでカバーした家だったかは、記憶なし。牛は飼っており、蚕もやっていた覚えありです。写真は、その家ではなくて、楢下の庄内屋さんです。
 


 ヨシゾウが、ものを言ったためしはなかった。また家族が何を言もても、彼の耳には入らないようであった。ただ年老いた祖母と伯母の言葉にだけ、彼は反応した。
 「ヨシゾウ、風呂サ入れ」
 と、どちらかが言うと、すっくと立ちあがって、彼は風呂場に消えた。その前に、同じ言葉を姉たち言っても、彼は身じろぎ一つ、瞬き一つしなかった。そんな彼を、あたりほとりの人達が、馬鹿だ、気違いだと言い、私もてっきりそうだと信じて疑わなかった。
 ところでわが家は、母屋だけでも、間口が十三間もある、図体の大きな農家であった。それに造りが二段構えになっていて、屋根も右半分が低く、左半分が高かった。そして高い方に、(上の)座敷や納戸や中間があり、門口と呼ばれる玄関もついていた。それから一尺ほど低い右半分の方に、下の座敷があり、つづいて水屋、風呂場、漬物置場があった。また土間と厩があり、そこにもくぐり戸とそうでないのと二つの入口がついていた。
 家がこのような構造になっていると、訪れる客人達も、どの入口から入るべきか戸惑うらしかった。同じ里人でも、普段着の時は玄関から、作業衣の時は、土間のくぐり戸からと区別して入った。マレビトでも、神楽打ち、祈祷師、越中富山の薬売りなどは玄関から入ってきた。そして獣医や魚売りや乞食は、土間から入った。獣医は職業がら、馬の健康状態を一見しておく必要があって、そうしたのであったろう。手伝人足などが、玄関から入ってくることはなかった。
 ヨシゾウが若くて正常だったころ、宮沢村から流れてきて、一時期わが家の作男のような暮らしをしていたという。祖母が宮沢出身なので、それを頼りに来たもののようであった。そして母屋から五十bほど離れた水車小屋に寝起きしていたという。母屋も小屋も遠慮して、彼の方から希望して、水車小屋に住んだということであった。それで彼が、精神状態に異変をおこして山籠りをはじめてからも、決して玄関から上るようなことはしなかった。また上段の座敷に一歩でも踏みこむことをせず、その堺の戸に手を掛けることもしなかった。
 


宮沢中学校跡地から二ツ森方面。写真向かって左手が宮沢小学校
 


2

 ヨシゾウは、暗い過去を背負っていた。そのことを聞いたのは、彼がわが家を訪れなくなってからであるが、とにかく同情と憐れみを感じさせる過去であった。その暗い過去におしひしがれて、彼は痴呆状態になり、人間嫌いになゥていた。人の行かない山中深く籠り、滅多に人間界に顔を出すことがなくなっていた。
 彼が若くて正常だったころ、それは私が生れる前のことらしいが、わが家の作男のような存在の時期があったことは、前に記した。そこへ婿養子の話が舞い込み、彼は郷里の宮沢村にひき戻されたのであった。
 彼が入婿した先の家屋敷、田畑は、すべて借金のかたに入っていた。やくざな義兄が蕩尽し、北海道へ夜逃げをしたあとであった。その妹の婿になつたヨシゾウは.馬車馬のように稼ぎ、少しずつ借金を返済していった。そして子供も二人生れ、屋敷、田畑をやっと自分の手に取り戻したころ、北海道の義兄が戻ってきた。そして長男である自分に、家屋敷を明け渡すよう求めた。名義上はなお戸主であった彼は、その立場を存分に利用した。
 ヨシゾウ夫婦を勝手に離別させた兄は、妹を無理に他村へ嫁がせてしまった。二人の子供もばらばらにして、遠方にくれてやった。そしてヨシゾウは気が狂ったと周囲にふれこみ、彼を追放した。当時の法律と社会通念は、やろうと思えばそういったこともできるほど戸主に強い権限を認めていた。周囲の人達も、最初は鬼のような奴だといって義兄を罵ったが、登記上の手続きに手落ちがなかったため、どうすることもできなかった。戦後の社会では想像もできない、このような無茶な仕打ちが、当時はまかり通ったのであった。義兄は家も田畑も売り払い、再度北海道へ逐電した。
 


宮沢小学校の東北側に『伝順徳天皇 天子塚』。承久の乱で佐渡に流された順徳上皇の墓という伝承なので『伝』が付いているようだが、『伝順徳』という名と解釈するかもしれないし、まぎらわしい。
 


 ヨシゾウは仕事をする気力もなくなり、呆然と村内を彷徨した。人が挨拶をしても返礼せず、言葉を掛けでも見向かなかった。そしてぷつぷつ独り言をいいつつひたすらうらぶれて歩いた。そん彼を見て、村人たちは、ヨシゾウは本当に気が狂ったのだと噂した。そして悪童たもは、彼に石をぷっつけるようにさえなった。
 遂にヨシゾウは、人前からを消した。誰一人彼の姿を見かける者がなくなった。隣村からも、その向こう村からも、彼の噂は全く流れて来なかった。かといって籍を移して遠方に転出した形跡も全然無かった。
 数年間杳として行方の知れなかったヨシゾウを、宮城県境の魚取沼のほとりに見出したのは熊撃ちのマタギであった。ここ奥羽山脈のまっ只中にある、標高六五〇bの深山湖である。その沼のほとりの原生林の中に、掘っ建て小屋を掛けて、ヨシゾウは生きていた。人間の言葉を話さない別世界の山男として、彼は立て籠っていた。炭焼きも狩人も滅多に入りこまない、雪深いこの地で、ヨシゾウは人間界と絶縁する生活を営んでいたのである。
 従ってヨシゾウは、人間どもに顔を見られるのを極力避けた。熊がけはいで人を避けるように、彼も動物的な勘で人間のけはいを察知し、たまたま入りこんで来たマダギなどにも出会わないよう、身を隠した。彼にとって人間は、最も見たくない、会いたくない生き物であった。ずるくて穢なく、冷たくて残酷な人間という名の生き物を、彼は極力忌避したのであった。
 


魚取(ユトリ)沼は国道347号線を宮城県へ向かって進み県境の鍋越峠から北の山奥に数km行った所にあります。
鍋越峠の山形県側2kmくらいの地点に『楢の木立・長寿の名水』があります。

 


 しかし、そんな彼にも例外はあった。独身時代に親切にしてもらった、わが家の祖母と伯母の存在がそれであった。入山後の彼も、この二人の安否だけは気づかった。そして年に一度は、その元気な顔を見ておきたいとする欲念を抑えることができなかった。逆の表現をするなら、わが家の二老女だけが、ヨシゾウの心に生きている、最後の人間であったわけである。二人を除いた諸々は、彼にとって無縁の物であり、異類であったと考えてよいであろう。
 私は今、五万分の一の地図の「薬菜山」「尾花沢」「鳴子」の三枚を見ながら、ヨシゾウがどういうコースを辿ってわが家に来たのかを考えている。直線的には西北の翁峠(一、0七五b)を超え、岩谷沢に出て、背名坂峠か山刀伐峠を超えるのが近道だが、魚取沼から翁山への道はないから、これはいくら山男でも無理だと見られる。とすると沼から一且南下し、鍋越越を通って母袋街道を進み、宮沢に入って山刀伐峠、背名坂峠の何れかを越すか、牛房野に入って牛房野峠を越すかの、どちらかではなかったかと想像している。そのうち、牛房野コースが一番遠回りになるが、これだと宮沢村を通らずに往復できる。郷里の顔見知りには、特に会いたくなかったであろうヨシゾウの心情を考えると、これを選んだ可能性が最も強いように思われる。
 


『楢の木立・長寿の名水』
 


 私の小学二年生の夏であったと思う。例によってヨシゾウは、夕食の済んだ頃に、土間のくぐり戸からぬうーっと入って来た。そして下の座敷の囲炉裏をはさんで、渾名がイソキョでメロンズ(うすのろ)の私と長い対面をしていた。
 その年に入って、わが家の二老女の衰弱が目立ち、共に床に着く身になっていた。上の座敷と棚前(食堂)の奥にある納戸で、一緒に枕を並べていた。二人とも耳は達者だったから、ヨシゾウが来たことは、とっくに察知できたろうが、一言も声はなかゥた。ヨシゾウは仕舞い湯をすすめる段になっても、(前年までは、それは二老女の何れかの役割だったのに)同様であった。それで姉達が代るがわる風呂をすすめたが、ヨシゾウは動かなかつた。その時、「ヨシゾウ、風呂サ入れ」と、納戸から声を掛けたのは、伯母であった。ヨシゾウは、すっくと立ち上って風呂場へ向った。
 その翌朝、ヨシゾウは朝食前に草鞋を履いて土間に立った。例年ならば、そのまま大股に立ち去るところを、その朝のヨシゾウは、突っ立ったまま動かなかゥた。それを見て、「ヨシゾウが、何か欲しいものがあるんだべ」と姉の一人が叫んだ。そして古着やら食べる物やら様々の物を、彼の側に運んだ。しかし彼は、体を斜め前方に向けて立ったまま、それらに日をくれようともしなかつた。一体ヨシゾウは、何が欲しくて突っ立っているんだろうかと、私もけげんに思った。
 


 運ぶものもなくなり、異様な沈黙が訪れかけた時、ヨシゾウははじめて運ばれた物に目をくれ、その中からほんの小さな物を指先でつまんで取り、踵を返して立ち去った。その小さな物が何であったか、私は明確には覚えていない。マッチ棒一本だったような気もするが、何か他の物であったかも知れない。とにかく価にすれば無に等しいようなものを、二本指で取って、彼は立ち去ったのであった。
 彼が土間に突っ立っていた理由が分かったのは、私が大人になってからのことである。ヨシゾウの行動をいろいろ思い合わせているうち、本当の理由がやっと推測されてきたのであるが−それは立ち去る前に、二老女の姿をちらりとでも見たいと思って、寝所の納戸の方に向いて彼は立っていたのであった。昨夜来、彼は二老女の姿を全く見ていなかった。風呂をすすめた伯母の声を一度聞いただけだった。俺は山に帰るが、その前にちょっとでも姿を見せてくれないかと、祈る思いで彼は立っていたのだと思う。
 その時、家族の誰かが、そのことに気づいていれば、老女達を起こしてくるととはできないまでも、戸を明けて見えるようにしてやることぐらいはできた筈であった。しかし誰一人、そのことに気づいた者はなく、あらぬ推測で物を運んだりしたものだから、ヨシゾウの方でも具合が悪くなって、小さな物をつまんで立ち去ったのだと思う。
 


 翌年の早春に祖母が死に、二ヵ月位経って伯母も死んだ。共に老衰であった。そしてその年の夏、学校から帰った私が、一人で下の座敷の横座に坐っていると、ヨシゾウが入ってきた。午後四時頃であったろうか。大人達は野良に出、子供達は遊びに出て、私しか残っていない時であった。例年よりは早い時刻の彼の出現に、私は戸惑いながらも、そんな時に大人達がいう口上の「上って休めや」を、言いかけたが、彼は私に頓着しなかった。
 大股に土間を進んできたヨシゾウは、昨年帰りがけに立っていた位置まで来て、ぴたっと止り、動かなかった。私は言うべき言葉を失い、あっけにとられて彼の姿を呆然と眺めた。そしてその時のヨシゾウの姿は、長く眼底に残った。
 腰に山刀を帯び、足をこころもち開いて土間を踏みしめているヨシゾウの姿は、野武士の如く猛々しかった。白眼がちの目から、光ってとび出す感じの瞳を前方に注ぎ、通った鼻筋の下に唇を真一文字に結び、微動だにしない容姿には、古代の異国人の如き威厳をさえ帯びていた。豊富な頭髪は、額の上で束ねても首筋に垂れ、尖った頭の下には、少ないが黒々とした髭があって、神事の世界の荒ぶる神もさぞやと恩わしめるものがあった。私は威圧されて、「ヨシゾウは馬鹿が直ったんだ。そうに違いない」と思い、炉端で小さくなっていた。
 十分か十五分か、黙って立っていたヨシゾウは、突然背を向けで立ち去った。私の存在は完全に無視されたが、ヨシゾウはもう馬鹿ではないという確信を、彼は私の心に残していった。
 この時の彼の訪問も、後から考えると、わが家の二老女の安否を偵察に来たものであった。土間から納戸の方を凝視し、耳をこらして、二老女がすでにこの世にいないことを察知し、彼は立ち去ったのであった。
 


森山養魚場のちょっと東北の向かい側にある尾花沢警察署宮沢駐在所で、2〜3年前まで、甥の同級生のO駐在さんが、住み込んでいました。森山さんは「金魚の大好きなお巡りさんがいましたね」と言っていました。
 


3

 これがわが家に対するヨシゾウの最後の訪問になった。夏になると私は、ヨシゾウが来る頃だなと心持ちにしていたが、ついぞ一度も現われなかった。祖母と伯母のいなくなったわが家に、彼が訪れる理由がなくなったことを、私はまだ理解していなかった。
 ところで最後の訪問時のことだが、立ち去ったヨシゾウのことが気になり、私は外に出てみた。何かを取りにいったのか、それとも帰ってしまうのか、帰るのならどの道を通って行くのか。一分位の間をおいて私は庭に出てみたが、ヨシゾウの姿は見当らなった。前の道、横の畦道、後ろの道と見渡したが、路上を行く彼の姿も影も認められなかった。そのいずれの道も、かなり見通しがきいて、数分間は見えるはずなのに、彼の影はなかつた。一体どこに消えてしまったのか、不思議でならなかった。
 本稿を書きはじめてから、彼のその時の経路がやっとわかり、そうだったのかと思い、膝を打った。同時に、自分の勘の悪さにあきれ、ヨシゾウにあの時、してやられたなという思いを味わったのであった。
 ヨシゾウは、別に消え失せたわけではなかった。彼は、彼だけの道を通って帰っていったのであった。その道は川であった。わが家のすぐ前を、牛房野沢川(ゴポネザガワと言った。今は杉ノ入川という)が流れていることは、前に記した。それが彼の、わが家への往還の通路だったわけである。ヨシゾウは、膝までしかない短かい股引をはいていたが、それも川を渉る際の用意だったのだ。この川は、牛房野峠の方からまっすぐ流れてくる谷川で、両岸が木や藪で覆われている。そこを通るのが、何よりの近道だし、人に会うおそれもない。その時、ヨシゾウを見たという里人が誰もいなかった理由も、そう考えれば納得のゆくことであった。
 きてそうなると、前に推測したわが家へのコースも、修正を要することになる。母袋街道は通らず、丹生川の川筋を下って、合流点の和合から牛房野川を濁って、牛房野峠を越え、それから牛房野沢川を下って来たと見るのが当っていよう。これだと尾花沢の町に入らず、はとんど人に会うことなく、わが家に来ることができたことになる。また彼が主たる食料にしたらしい川魚も、随所で捕まえることができたであろう。山男ヨシゾウは卓抜な川男でもあったのである。
 


順徳天皇の御所があったことから「正厳」と名付けられ、地名にもなった尾花沢市正厳の町並み。トシオの四番目の姉が嫁いでいた。『ヨシゾウ』 はここらあたりをウロウロしていた。
 


 その後、私はヨシゾウに一度も会っていない。しか彼の噂は時たま耳に入った。四番目の姉が宮沢村に嫁いでいたので、その姉や義兄から聞き出したことである。
 「ヨシゾウが正厳の店に来て、岩魚と塩を交換していったそうだ」と聞いたのも、その時から数年経ってからであった。また義兄が国勢調査員をつとめた折、ヨシゾウの扱いが問題になったことも聞いた。「宮沢出身なのだから、村民の数に入れるべきだ」という意見も出たが、「彼は今村内に住んでいない。マタギが見かけたという魚取沼のあたりも宮城県領である。宮沢村民として扱うのはおかしい」という意見が強く出て、結局彼の存在がオミットされたいきさつも聞いた。そして宮城県側にもあえて連絡を取らなかったというから、要するにヨシゾウは、日本人の総人口から欠脱した無国籍者になってしまったわけであつた。
 そのことはまた、ヨシゾウが人間の仲間から離れて独立した存在になったことを意味していた。彼が嫌悪した人間共、それは形の上からも異類になったことを意味していた。彼はその後、ますます人間との接触を避け、衣食住のすべてを自力でまかなう生活に入っていったらしく、塩を求めに下山してきた話も聞かなくなった。塩なしの食生活にも徐々に慣れていったものであろうか、着るものもまた、自分で木の繊維から作るようになったようであった。
 


正厳公民館から北方面、左が2020年閉校の尾花沢市立明徳小学校。順徳天皇から徳の字を拝借したのか?右がさくら保育園、さらにずっとあっちの山の向こうがトシオの実家のある最上町
 


 昭和二十年代のしまい頃に、恩わぬ筋からヨシゾウに関する情報が提供された。それは山形新開の記事であつた。御所山に登山した二人の青年が、背の高い原始人風体の男に会ったという記事であった。着ているものも、持ち物も、すべて見慣れないものばかりで、この世の人とは思えなかったことなど、興奮した口調で語られていた。それについて民俗学者が、原始人の子孫の生き残りである可能性もあると語ったという談話も付記されていた。
 その記事を見て私は、「あっ、ヨシゾウだ。彼が生きている」と驚きもし、安堵もした。
 それから二、三年経って、ヨシゾウは死んだらしい。老いさらばえて、よぼよぼになってから、彼は鶴子(尾花沢市)に下って物乞いをしたという話を聞いた。手をまっすぐつき出し、顔は横に向けたままで、人の方を見なかつたという。三十年余も人界と縁を絶ったが、最後には人の世話にならなければ生きられなかったわけである。顔を背けていたことに、彼の無念さが象徴されていもように思えて、哀れであった。         (57.12〜58.2)
 


昭和20年代の最後ころに原始人ヨシゾウが出没した御所山。船の形を逆さまにした形なので宮城県では舟形山。尾花沢の北の舟形町はフナの形をした石が出たことに由来し、舟形山とは関係ないようです。
 


山形県側からはこのように見えて、宮城県からは、逆向きになります。標高1500.34m、御所神社の隣に、大き目のケルンを積み上げたら1501.00mになるし、スコップ持って行って30cm土を削れば1500.00mになる・・・環境破壊になるのでやめましょう