本誌『くわご』第3号に安達峰一郎の少年時代のアガスケぶりをまとめて発表した。ここでは、安達博士が「法学を志す動機」についてまとめてみたい。
安達峰一郎博士は明治二年、安達久・しうの長男として呱々の声をあげた。いわゆる、厳父・慈母の雰囲気の中で幼年時代を過ごし、五、六歳の頃から、近くの石川尚伯医師のもとで学問の手ほどきを受けるようになった。厳父から「覚えない中は帰って来るな。」と言われ、泣き泣き頑張ったという。その努力、その負けじ魂が、やがて偉大な結実をみるのである。
峰一郎は、後述する如く、十一歳で山野辺学校の教員助手を拝命するほど学業成績が抜群であったが、ある時「峰一郎を力士にしては。」と母親に言ってきた人がいるほど腕力も強く、腕白な少年であった。
了広寺第十五代住職・武田智蔵老師が語った峰一郎少年の思い出話が残されている。
「峰一郎少年は境内の桜の大木に登って部下に号令を掛けるなど腕白な子供であった。しかし、大人の注意は素直に聞いて同じ事で注意を受けることは決してなかった。約束はしっかり守る子供だった。」
こうした逸話は、峰一郎少年は腕白ではあったが子供時代から、友達の信頼が厚く、剛毅で人に長たる器量の持ち主であったことを物語っている。
一方、峰一郎少年は、情緒豊かなロマンチストでもあった。
ある満月の夜、月明かりに誘われて気の向くまま笛を吹きながら、夜遅くまで村を徘徊したことがあった。帰宅したら父親に酷く叱られ家を締め出されてしまった。途方にくれて外で泣いていると、母親が父に内緒で助けてくれたという。
安達博士は、この夜の出来事を生涯忘れることはなかった。異国にあっても、満月の夜ほ、この思い出話と共に、故郷の自然や幼友達のことを懐かしそうに妻に話すのが常だったという。
月に寄せる博士の思いを詠んだ歌が、鏡子夫人の歌集『夫・安達峰一郎』 に二十数首も載っている。
明月に家を抜け出で際限(はてし)なく
引かるゝままに笛吹きて行く
月の夜は 独り遊びの思ひ出を
君は時々ピアノの上に
何事も打捨て来よと家人を
招きて観さす 満月の夜
峰一郎少年は、天与の優れた素質に加え、負けず嫌いで、向上心が人一倍強く、努力家であった。
自分の為すべきことをしっかりと見定め、重大な進路決定に際しては、積極的に親や先生に指導を仰いでいる。目標が定まると、それに向かって日々怠ることなく努力を重ね、一段一段、着実に階段を上る用意周到さも持ち合わせていた。
蜂一郎のこうした性格は、厳格な父親と愛情溢れる母親の育児方針によるといわれている。
明治十二年五月、峰一郎少年は山野辺学校の上等小学八級を卒業し、七月から東海林寿庵の門下生となって漢学を勉強するようになった。寿庵は東子明ともいい、高楯村で医者を開業するかたわら、近隣の青年たちに漢学を教える私塾の先生でもあった。
彼の門下生七十有余名によって建てられた瀟洒(しょうしゃ)な頒徳碑が山辺北部公民館敷地 (峰一郎生家) の一角に立っている。除幕式で述べられた六名の祝詞が残されており、一節に
「石ヲ山寺二索シ書ヲ海舟勝公二托シテ束子明先生ノ六字ヲ表セリ。以テ其令名有徳ノ人タル事ヲ此石ニ留メテ不滅不朽二存スル事ヲ祈ル」とある。
寿庵医師は、明治維新において幕府方の代表として江戸城の無血開城を決断した勝海舟と親交のあった人物である。寿庵塾では明治維新後の日本をどのような国にすべきか、恩師寿庵を囲んで青年達が日夜熱っぽく議論していたと思われる。寿魔の門下生の中から、峰一郎を筆頭に、各界で指導的役割を担った人物が多数輩出しているのが、その証左である。
一方、明治九年八月、三島通庸が初代山形県令として就任した。首都東京に直結する道路の速やかな建設は、中央集権政治の要諦であり、明治政府の基本政策である文明開化、富国強兵、殖産興業の方針にかなうものであった。三島は就任後直ちに彼一流の強引な手法で県内各地で土木事業に着手した。土木県令の異名を持つ所以である。彼に抵抗する者は容赦なく逮捕し、事業推進に邁進した。
当然のことながら、こうした急激な改革に反感を持つ者も数多く、天童の佐藤伊之吉もその一人で、三島県令の政策に事ある毎に抵抗を示していた。
こうした中、明治十二年の正月早々、安達家の親戚で山辺の名士でもある渡辺荘右衛門が突然、理由も告げられず山形警察署に連行され、実印を取り上げられ、暖房もない極寒の留置所に七日間も拘留されるという事件が起きた。荘右衛門は、前日に山野辺、東高楯、西高楯三ケ村戸長を拝命したばかりだった。三日間取調べもないまま拘留され、四日目になって県庁に連れ出され、拘留理由を聞かされた。それによると、地券証印税剰余金処分不当の訴訟を起こそうとしている佐藤伊之吉に委任状を出したからだという。拘留七日目、荘右衛門が親類縁者の説得を受け入れて訴訟を取下げ、漸く釈放されたのであった。
明治十三年六月下旬、三島県令臨席の下で、関山トンネル及び、それに通じる新道の開削工事の起工式が現地で行われ、翌日、工事費の徴収法が三島県令の強引な手法で決定された。
同年十月、峰一郎少年は満十一歳四ケ月で山野辺学校の教員助手に任命された。時あたかも自由民権運動が日本国中に沸き起こっていた時である。
東村山郡では、天童の佐藤伊之吉、西高楯村の安達久右衛門を総代にして、関山新道開削費賦課金不払運動が起きた。久右衛門は峰一郎の生家である久左衛門家の本家の当主である。峰一郎の父・久は当時山野辺学校の先生をしていたが、村山四郡町村連合会議員も兼ねており、この不払い運動の推進役として本家の久右衛門と共に奔走する毎日だった。峰一郎少年は、地域のために身を粉にして日夜真剣に取組んでいる大人たちの姿を、じつと見つめていた。
明治十三年十二月、佐藤伊之吉が三島県令によって逮捕投獄され、連日厳しい拷問に苦しめられた。三島は翌月伊之吉の父親を逮捕して、伊之吉に賦課金不払運動の取り下げを迫った。伊之吉は年老いた父親まで巻き添えにした三島の弾圧に反発しながらも、已むなく三島の弾圧に屈し「以後、政治活動を一切行わない」という念書を提出して、やっと釈放され、自由の身を獲得したのだった。
明治十四年四月、こうした動きを注視していた東北の自由民権家たちが多数山形に結集した。この中に福島県の自由民権家・河野広中と苅宿仲衛がいた。河野は安達久右衛門に激励の書を贈り、苅宿は湯殿山神社の仕事を手伝う名目で暫く山形に留まった。後年、峰一郎の弟・幸治郎が苅宿家の嫡養子に入ったことから推察して、仲衛は西高楯村の久右衛門や久と相当親密になっていたことが伺える。
なお、自由民権家・河野広中は、翌十五年、三島が福島県令になるや佐藤伊之吉以上の徹底弾圧を受け、三島によって暗殺計画まで立てられた人物であるが、明治二十三年に国会が開設されると衆議院議員に当選し、後年議長にまで登りつめた人物である。
時間を逆もどしして恐縮であるが、明治十四年一月、佐藤伊之吉と同じ天童出身の高澤佐徳が重野謙次郎などと山形に法律学社を設立し、塾生募集の新聞広告を出した。明治維新により、目を広く世界に向けて、これからの新生日本をどのような国にするか、国民がこぞって考えた時代である。利発な峰一郎青年が父を始めとする周囲の大人たちの動きや社会の動き、寿庵塾での熱っぽい議論を通して、子供心に大いに感じるところがあったことは想像に難くない。いろいろ考えた末に峰一郎青年は、名誉ある山野辺学校の先生を辞め、新たにできた山形法律学社で法律の勉強をすることを決心したと思われる。
こうして峰一郎は、同年三月、山辺小学校の教員
を辞任した。その在任期間はたった半年だった。
この時の峰一郎青年の心中を推察してみたい。封建時代を脱却した新生日本は、西洋諸国を手本にした法律国家になるはずであり、国家の方針は、法律に基づき民意を反映した政治でなければならない。これからの日本は優秀な法律の専門家が必要な時代になる。そうだ。これから法律を一生懸命勉強して、国家有為な人間になろう。これは自分に課せられた天命かも知れない、と燃える思いが峰一郎青年の胸を焦がしていたに違いない。
峰一郎少年が十五歳で友人に書いた手紙がある。
「我ガ家ノ先祖ハ最上義光ナレバ、勉励シテ、其ノ御業ヲ回復スベシト祖母、父親常二教訓コレアリ。是ヨリ発奮シテ…」 と覚悟のほどを披渡している。また、峰一郎は鏡子宛の手紙に、坂上田村麻呂の蝦夷征伐、奥州藤原氏の滅亡、戊辰戦争の敗北など東北人が西南人に連戦連敗している史実に基づき「小生ハ、常日頃、東北の不振を苦々しく思ひ何とかして一生中ニハ回復致したきものと思居候故、西南人などと共生することハ余り好まざる所ニテ御座候…」と書いて、発奮を約束している。
言うなれば、三島県令の専制君主的政治手法が、正義感溢れる峰一郎青年をして法学を目指すきっかけとなったのである。この遠大な人生目標に向かっての第一歩が山野辺学校の教員助手辞任であった。
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