安達峰一郎博士の話


山中(山形中学・山形東高)の誇り 同窓会一回生【安達峰一郎博士】の話

 

60代のブロンズ像
雪の生家
了廣寺 の写真


2006/02/08
 

安達峰一郎が法学を志した動機 2006/02/10
− 三島県令と自由民権運動が発憤を促す − 安達尚宏(高楯)

ポーツマス講和会議秘話C D  2005/09/05 
生家の中を撮らせてもらいました
 2004/07/28 
安達峰一郎博士直筆の外務省への履歴書 
2003/10/15 
東子明(東海林寿庵)先生のこと A B お願い
2003/10/15
安達峰一郎博士豆知識 3 25 26  2005/09/05 
安達博士の年譜出版 2003/08/20 山新
「古里からみた安達峰一郎略年譜」作成中。伝記も出版か。
2002/10/27 
直筆の掛け軸72年ぶり生家に帰郷 2002/03/06 山新
なぜ安達峰一郎博士?
 作成理由とかいろいろ
2002/02/16
博士と国際司法裁判所長と満州事変について 館長への質問
2002/02/16
200/06/02作成 2003/08/29 更新 

画像クリックすると大きくなり読めます 『戻る』で戻ってください
博士 ポーツマス会議(露国側と)
向かって左より  佐藤愛麿  高平小五郎  小村寿太郎  落合謙太郎  安達峰一郎 
生家
生涯学習施設完成前
峰一郎展ポスター
この像は遊学館にある
山辺町生涯学習施設
案内@
生涯学習施設
案内B
峰一郎展ポスター裏
生涯学習施設
案内A
生涯学習施設
案内C
ポーツマス条約秘話
漫画  @  A  B  C  D  E  F  G  H  I
『安達峰一郎博士と日本の外交』 2001/02/09 公開講座資料
  @  A  B  C  D  E 
『世界の良心・安達峰一郎博士と国際法への志向』 2000/09/26 職員研修会資料
  @  A  B  C  
東京遊学の許可をもらうために父親に書いた手紙 (峰一郎少年十五歳) 原文 
山中在学中に書いた『斎藤校長送別の辞』 (峰一郎少年十五歳) 原文 
朋友 安達英次郎に送った手紙 (峰一郎二十一歳) 原文@ A B 訳@ A

2002/01/26 撮影
生家
中も見せてもらえる
生家と生涯学習施設 生家前の
『博士のこと』
生家前の石碑 同級生若槻礼次郎元首相の書による石碑 展示会のポスターが
生家にかけてあった ポーツマス条約で この時34歳  これは複製

経歴
明治 2 山辺町山辺生まれ
明治25 東京帝国大学法科大学卒
明治38 ポーツマス講和会議全権委員随員
明治40 法学博士
大正 2 メキシコ公使
大正 8 パリ平和会議代表代理
大正10 ベルギー大使
昭和 2 フランス大使 平和条約実施委員長
昭和 3 パリ不戦条約締結に参与
昭和 4 ハーグ対独賠償会議日本代表
昭和 6 国際司法裁判所長
昭和 9 没

昭和9年12月29日 勲一等旭日桐花大綬章

安達峰一郎記念館
Dr. M. Adachi Memorial Hall 
Zaidan Hojin, Adachi Mineichiro Kinenkan 
CATEGORY Society:Grants and Aid:Scholarship (Humanities) 
TYPE Incorporated foundation 
ADDRESS 1-16-12 Wakaba, Shinjuku-ku, Tokyo 160-0011 
PHONE +81-3-3341-5036 

安達峰一郎記念保育所 990-0301 山辺町大字山辺2212 (023)664-5066

1993年(平成5年)8月14日土曜日 朝日新聞の記事より

山辺町の博士の紹介ページ  telework.or.jp/yamanobe/ym0301.html
下も英語だからよく理解出来ませんが博士のことが書かれているのだと思います。
http://www.reul.ucl.ac.be/louvint/decembre98/chapter.html
http://akira.arts.kuleuven.ac.be/intro/history1.html

2002/02/05
 安達館長が翻訳してくれました
 安達博士がベルギー公使時代にベルギー国のために行った安達博士ならではの、すばらしい業績を紹介したものです。
 即ち、安達博士が着任して間もなく、同国より、ルーベン大学法学部名誉教授{又は、名誉法学博士かもしれませんが・・・}の称号を与えられた。この恩返しという訳でもないでしょうが、安達博士は、第1次世界大戦の戦乱で破壊されたルーベン大学に、図書館を建設し、それをプレゼントする事を申し出たようです。そして、同大学の承諾を得て、それを実行した。このことが切っ掛けになって、同大学に、それまでは無かった、日本についての講座が開設されることになり、ベルギーの東洋学研究が開始され、今日に至っている由。この事を含めて、ベルギー国の苦難の歴史を紹介したもののようです。