博士と国際司法裁判所長と満州事変について
2002/02/16
館長とのメールのやりとり
2002/02/06 山変人の質問
博士は昭和6年(1931)に国際司法裁判所長に当選しましたが、その時はまさに満州事変の年であり国際的に日本たたきの最中であったと思います。 そんな中で博士はなぜ大多数の票を獲得できたのでしょう。 また亡くなった昭和9年(1934)あたりはまだ日本とオランダの関係は良好だったのでしょうか。多分それほどに立派だったからなのでしょうがどうして仮想敵国(?)の人を国葬までしたのか多少不可解です。
その時代あたりのエピソードや考察でもあれば是非教えてください
2002/02/06 館長のお答え
ご質問の件、私も大いに関心のある所ですが、この事に関する、立派な学者さんによる明快な回答には、未だ出合っておりません。
従って、以下の見解は、あくまでも私の勝手な推測の域を出ない珍答案かも知れませんので、鵜呑みになさらないで、貴殿も研究してみて頂きたいです。
安達博士が、国際司法裁判所判事に当選したのは、昭和5年秋のことです。そして、同裁判所長になったのは昭和6年1月です。満州事変の勃発が昭和6年9月ですので、満州事変は、安達博士の判事当選には何らの関係も、影響も及されなかったわけです。当時は、国際関係が年々複雑化していった時代でした。第1次世界大戦が終了し、ドイツの賠償問題の会議を重ねる過程で国際連盟が発足し、国際紛争解決の手段として常設国際司法裁判所が設置される事になりました。そして9年目を迎えた昭和5年は、1期9年の裁判官の任期が満了となる年でもありました。1期目の国際司法裁判所判事の一人に、織田萬という日本人がおりました。時の日本政府は、この織田さんでは、2期目の判事として当選するのは、到底おぼつかないと判断し、安達博士を候補者に立てることにしました。
安達博士は、第1次世界大戦の戦後処理の会議に、日本代表として各種会議に連続して出席し、重要な役割を果たしてきた人ですし、国連が発足した後も10年もの長い間、日本代表として国連総会などの国際会議に出席し、その実力は、国連関係者のすべてに認められておりました。
選挙結果は、日本政府の思惑どおり、安達博士は、ほぼ満票に近い最高得票で当選。さらに当選者の初会議の席上、互選により所長におされ就任しました。
次に、オランダが、なぜ安達博士を国葬で送ったかについて所感を書きます。
安達博士は、先に述べたような経過でトップ当選をはたしました。その実力もさることながら、オランダは、自国に国際平和維持のための国連機関がある事を、今も大変誇りに思っており、この国際司法裁判所のことを、オランダ国民は平和宮(ピースパレス)と呼んでいます。
国際紛争解決のために、国連に常設国際司法裁判所を設置する必要があると熱心に説いたのが安達博士であったし、その発足にあたり、世界中から優秀な法律家を5人選び、規約を作ることになりましたが、この法律家5人の中に、安達博士がいたのです。こうして安達博士は、国際連盟と常設国際司法裁判所の生みの親の一人に数えられる人物となったのです。その人が、亡くなったのですから、オランダとすれば、当然、国葬を考えるのではないかと想像しますし、一人オランダのみならず、このオランダの対応に、万感を込めて拍手を送ったと私は思っております。
安達博士の国際的信頼を物語るエピソードは、たくさんあります。
最も分かりやすいのは、ある重要な国際会議で、チョットした言葉遣いがもとで、イギリスとフランスの代表が、お互いにすっかり感情的になってしまいました。このままでは、会議が決裂し大変なことになってしまう、と心配した双方の国から個別に、「何とか2人を仲直りさせてもらいた」と安達博士に依頼してきました。次いで、イギリスとドイツの代表からもそれぞれに懇請があったので、安達博士はそれを引き受けることにしました。
安達博士は、いろいろ考えた末、日本の茶道で2人をもてなして仲直りさせることにしました。それが大成功で、以後、2人は、すっかりうち解けあって仲良くなり、会議が以前にも増してスムーズに進行したといいます。このエピソードは、たちまち国連加盟国の各国代表たちの間で大評判になりました。
今日の所は 、このくらいにしておきます。そのうちまた・・・・・・。
こんなのも見つけました。安達博士研究者の東北大学名誉教授。前述の織田さんと奇しくも同じ苗字
小田滋裁判官 法学部特別講演会
国際司法裁判所は国家間の紛争を裁判で決着するもので、一八九九年ロシアのニコライ二世の提唱で、オランダのハーグで二十六カ国が集まり、世界最初の平和会議が開催されたのに端を発する。制度として常設仲裁裁判所ができ、今年はちょうど百年目にあたる。だが初期は円滑に運営できず、一九二二年国際連盟の成立とともに常設国際司法裁判所として発足した。ベルサイユ条約がもたらした法律の歪みを修正する裁判が多かった。三〇年代になってナチズムがヨーロッパを席巻すると、本部をハーグからジュネーブに移設、国際司法裁判所の機能はほとんど停止した。戦後四六年に国際連合の成立とともに国連の主要な司法機関としてハーグに設立。以来五十三年の歴史を持つ。