安達峰一郎博士の話


1993年(平成5年)8月14日土曜日 朝日新聞の記事より

安達峰一郎博士ゆかりのTAIKEN堂

 法学博士安達峰一郎は一八六九年(明治二年)、山辺町(当時は山辺村)西高楯に農家の長男として生まれた。父の久は、小学校長や村長を務めた。また祖父・久左衝門は、「対賢斎」という号を持ち、自ら開いた寺子屋を「対賢堂」と名付けた。これが「TAIKEN堂」の由来だ。
 十五歳で山形師範学校中学科(現在の山形東高)に入学したが、学費が自費制になったため、一年で退学した。その後、官費制の司法省法学校などを経て、東京帝国大学法科に入学、国際法を学んだ。
 東京帝国大学を卒業した峰一郎は、世界を舞台に活躍した。外交官になり、一九〇五年(明治三十八年)には日露戦争後のポーツマス講和会議の日本全権委員随員として出席。三〇年(昭和五年)には、オランタ・ハ−グの常設国際司法裁判所判事に選ばれ、翌年所長に就任した。三十四年(同九年)アムステルダムで死亡、オランダの国葬が執り行われでいる。

 山辺町高楯に今も残る峰一郎の生家を訪ねた。生家と敷地は昭和三十七年ごろ、峰一郎の妻鏡子(かね)さんによって同町に寄付され、現荘は敷地内に「安達峰一郎記念保育所」が建てられている。
 かやぶき屋根の家は、子供たちの声が響く保育所の裏にあった.たわわに実るキウイの門をくぐると、色とりどりの花が咲く手入れの行き届いた庭に迎えられる。
 生家に、管理も兼ねて住む豊原やのさん(七四)は、「いろいろな人が訪ねていらっしゃるから、きれいにしておこうと思って」と話す。笠原さんは、この家に、寄付される前から住んでいる。峰一郎の名前は、小さい時からよく聞かされたという。
 生家の欄間には、峰一郎が書いたという「学不可安小成J (学は小成に安んずべからず)という文字が残されていた。時おり裏山へ遊びに行く子供たちが庭を横切るほかは、降るようなせみの声が聞こえるだけの部屋。峰一郎が生涯抱き続けた、強い意志と向学心が静かに伝わってきた。

 学は小成に安んずべからず−。TAIKEN堂の基本もそこにある。
 九〇年に始まった「TAIKEN堂」は、働き盛りの世代が対象だ。そのために、託児所も設けている。年をとるごとに、せまくなりがちな視野を広げ、生涯学習を実践しようという主旨だ。
 初年度のテーマは「学ぶ人になろう」。ちらしには、「学ぶことは、お菓子を食べるみたいに簡単ではないけれど、寒い日の朝にランニングするみたいに辛抱もいるけれど、とても楽しい」とある。
 同町政委の峰田順一さん(三六)によると、運営委員はすべてボランティアで、会社員、主婦、自営業など職業はきまざまだ。ポスターやちらしは手作りで、年間の企画立案の時期には、毎日のように熱のこもった話し合いが持たれるという。
 これまでに招いた講師は、山辺町出身で、細菌学の分野で活躍する山口英世氏、秋田県在住のジャーナリストむのたけじ氏、精神科医師なだいなだ氏、「川口方式」で有名に在ったゴミ研究家松田美夜子氏ら。そうそうたる面々が同町中央公民館で講演した。
 峰田さんによると、町の予算もつくが、講演料は十分に出せない。「きていただきたい方には、わたしたちの気持ちをつづった手紙を書くんです。講師は講演料が安くても、賛同してくれた方なんです」と峰田さん。
 三年目は、より深く掘り下げた学習を、と環境と国際をテーマにした小人数のゼミを同時進行した。四年目の今年度は、七月の小中陽太郎氏を皮切りに、無着成恭氏らの講演と、郷土史や「自然から学ぶ」と題したゼミを聞く。

安達記念会館町が建設検討

 峰一郎の記念館は、東京都新宿区にあるが」山形県内にはない。現在、同町は安達峰一郎記念総合文化会館の建設を検討している。ふるさと創生事業の一環として、記念館や町の特産であるニットの博物館、文化センターなどを併せ持つ、敷地約四f、総事業費約四十億円の計画だ。

 同町企画開発裸によると、ふるさと創生の一億円の使い道について、町民からアイデアを募集したところ、最も多かったのが安達峰一郎記念館の建設だったという。

 「TAIKEN堂」は、十月、アルゼンチンから鍵盤(けんばん)の幻想家」と呼ばれるタンゴの演奏家ホルヘ・アルドゥ氏ら八人を招く。三井海上文化財団が募集した国際交流助成金の対象団体として、全国八十あまりの中から選ばれた企画だ。
 今秋、山辺小学校の体育館に世界でもトップレベルのタンゴが流れる。山辺から世界へ、世界から山辺へ。峰一郎の向学心をはぐくんだ町の心意気は、今も健在だ。