用水池にたたきこまれる
−意地を張った工兵学校時代−

1

 加山雄三の演ずる「姿三四郎」を見た。戦前の黒沢作品は、藤田進が姿の役であったと思う。印象に残る作品であった。
 新「姿三四郎」を見て、三四郎に関する私の記憶に誤りがあったことがわかった。三四郎が蓮池につかるのは、自分から跳び込んだのではなく、師範から投げとばされたためと思っていたのである。
 ところで、戦争中、私は工兵学校(予備士官学校、松戸市)で 「姿三四郎」 というあだ名を頂戴した。私は体格も貧弱な方であったが、山形高等学校在学中、柔道部に所属し、兵隊検査の調書に柔道初段と書いたばっかりに、工兵隊(盛岡)にとられる破目になった。文科の学生が工兵になるというのは元来筋違いである。だが学徒徴集(第一回・昭和十八年十二月一日)は文科の学生だけだったから、文科学生の中から工兵も選ばなければならない、そこで武道をやった者を優先的に選んだらしい。柔道五段だの剣道四段だのという猛者連がごろごろいた。入隊してから柔道初段と書いたことを悔んだが、もう遅かったというわけである。工兵隊には、土方や鳶職、船頭な
ど気の荒い連中ばかり集まる。訓練も制裁も想像を超えてきびしいものであった。私も何度ビンタをくらったか知れない。或時などは間に用便をはさんで(無論先方の)数え切れないほど殴られたことがある。五十位までは数えていたが、面倒くさくなって止めると、先方の手もとまった。やれやれ終ったかと思ったら其処に立って居れと言って、用便を足して来てまた改めて殴りはじめたものである。それが廊下で薪を割ったというだけの些細な理由によるものであった。
 こういう荒っぽさは、盛岡の工兵隊から松戸の工兵学校に移ってからも続いた。訓練をやるのは将校だが、宮崎少尉の制裁などは度を超していた。そして私はこの宮崎少尉から防火用水(と言っても小さなプール位ある)にたたきこまれ、「姿三四郎」の渾名をつけられる事になったのであるが、その顛末はこうである。
 その朝、私は使役にかり出され、皆に遅れて食事した。食器洗いに行くと、下駄箱から自分の靴がほうり出されている。靴検査にひつかかったものらしい。だがこの時私はむらむらと来た。使役にかり出してどぶざらいをさせておきながら靴が汚いというのは聞えない話だ。私は食器を左手に持ちかえると、つかつかと自分の靴に近づいて手にした。その時私は宮崎少尉が二米位はなれた場所に立っているのを知った。手入れの悪い靴を下士官にほうり出させているのだ。途端に私は、手を触れた靴をどう処置すべきか迷った。が、やりかけたことを中途でやめるのは男らしくない。卑怯でもある、と思って靴を自分の箱に直した。宮崎少尉が睨みつけているのを知りながら。それから私はおもむろに敬礼して、彼の傍をすりぬけて食器洗い場へ行った。その時一言弁解でもしておけば、防火用水に叩きこまれなくとも済んだかも知れない。だが工兵学校での私は、弁解は一切しないという方針を決めていた。非は非、是は是、弁解は自分の心を腐らせるだけで益がない、という考え方であった。人一倍不器用で行動の遅い私はしょっちゅう失敗をしでかしながらも「事故報告」 (これは幹部候補生に義務づけられていることであったが)を一度もした事がなかった。だからこの場合もその節を曲げることが出来なかったのである。
 靴の手入れの悪い者は百人近くいたであろうか、私以外は上靴(じょうか)ビンタ一つずつで済んだ。私だけが最後に防火用水につき落された。というよりつき飛ばされた。プロレスの体当りよろしく、二十貫もあろう宮崎少尉が走って勢いをつけた上で、渾身のもろ手づき一をくらわしたので、小柄な私は二、三間先までとんで水に落ちた。背のたたない深さで下の方の水は六月とは言えまだ冷たい。三四郎の蓮池には棒杭があるが、コンクリートで造られた防火池には、それさえない。縁に手をかけようとすると宮崎がとんで来て軍靴でふんづける。そんな事を二、三度くり返し仕方なしに立ち泳ぎしていると、よい、と言うまであがるなと言って宮崎が去った。それからやや暫らくして下士官が来てあがれと言う。私はあがらんと答えた。宮崎少尉が来てあがれと言うまでは絶対あがるまいと思っていたから、何度かその下士官の手を振りはらった。然し泳ぎの不得手な私はそうそう水中に浮いていることもできない。何度目かに縁につかまった時、到頭手をとられてひきずりあげられてしまった。
 この防火用水は中庭にあったから、中隊のどの窓からも見えた。今考えると「あがらぬ」と言って抵抗したことが姿三四郎のニックネームを生んだ理由であったようだが、私は新らしい三四郎の映画を見るまで池にほうりこまれた事がその渾名につながるものと誤解していたのである。ところでその翌朝、点呼の暗また靴の検査があった。当番の将校が藤原少尉に代っていた。「編上靴(へんじょぅか)を手入れしていないものは一歩前へ出ろ」と言う。私は咄嗟に自分の靴を見、あたりの者の靴を見た。ところが、どうであろうか。連中の靴はたっぶり油が塗られて光っているのに、私の靴は毛羽だってかさかさである。その朝はそれでもほこりだけはおとしていった積りだったが、周囲のそれと見較べると到底手入れしたなどとは言えたものではない。思い切りよく一歩前へ出た。今度はさすがに中隊で四、五人きりいなかった。大股で検閲して来た藤原が私の前まで来てぴたりと止った。叉二嵐来るかと思っていたら彼は急に白い歯を出してニヤリと笑った。それきりであった。工兵学校でユーモアを解する将校は、この藤原だけであった。

2

 かなり暑い日の宵であったから、七月に入っての事であったろうか。何かで汗をかいた私は洗面所に行った。見ると一人の候補生が体をふいている。長身の男で、頭の方が暗いため、誰かはっきりしないが、洗面器を使っているのが目についた。「おい。終ったらその洗面器、貸してくれんか」と言ったが、黙っている。聞えなかったかなと思って、また同じ事を言ったが、やはり無言である。おかしな奴だなと思ったが、我慢をして、相手が使いおわるのを待って、「一寸借りるよ」とその生徒の手から洗面器を取りあげた。廊下を立ち去る後姿に、「使ったら、此処に置いとくぞ」とどなったが、それでも一言も発しないまま、その男は行ってしまった。− 三、四日過ぎてから、戦友の戸田が、「おい。後藤候補生はひどいと藤原少尉殿が言っていたよ」と言う。何かと思ったら、「わしの洗面器を取りあげおったと言っていたよ」と、戸田自身何の事かわからぬ風情で教えてくれた。これがユーモアを解すると前号に書いた藤原少尉であった。考えて見ると候補生は洗面器の使用を許されていないから、持っている筈がなかったのだ。
 この時、余程詑び(事故報告)に行くべきかどうか迷った。だが結局やめにした。戸田に事情を説明して「済まなかったと言っといてくれよ」と頼んで、済ましてしまった。
 整頓の検査でも、毎回私のがひっかかった。崩されていないのは、検査の無い時であった。服も襦袢も長方形の板のようにして積み重ねておくのだったが、それには手箱の蓋でゴシゴシこすらなければ角がつかない。原隊の時から、私はそれに反撥を感じていた。少なくとも知識人のやるべきことではない。だから、工兵学校では、そういうくだらない整頓の仕方をやめることにしたのであった。
 このようなことを書くと、いかにも私が厚顔で大胆であるかのように聞えようが、事実は反対であった。小心で無類の恥かしがり屋で、区隊長室の前まで行っても、ノックして中に入ることができない。事故報告をするのも恥かしいが、そういうことをする自分を想像すると、なお恥かしくなって、あれやこれや心の中で理屈をつけて、引き返してしまうのが実態であった。

3


 工兵学校でわたくしは第一区隊に所属し、区隊長はW中尉であつた。このWは区隊長では唯一の士官学校出であり、中尉でもあった。五尺そこそこの小男で、痩せぎす、面相は甚だじじむさく、声だけ馬鹿でかかった。最初五十過ぎの予備役将校でもあるかと思っていたのに、二十代の現役と聞いてびっくりしたものである。南支戦線から帰ったばかりで、戦争のことなら何でもわかるといった話振りをし、面つきをしていた。それに士官学校出を鼻にぶらさげた態度も気にいらない。
 夜の自習時間中に葉書を書いていたら、此のWが猫のように背後にしのびよって、書きかけの葉書と共に葉書入も取りあげ、黙って行ってしまった。葉書入は母から貰ったもので、郷里の匂いのしみこんだ唯一の持物でもあった。1自習時間に葉書を書いていたのは確かにわるい。葉書を取上げられても仕方がない。然し葉書入まで没収してしまう要があるのか。この事があって以来益々Wに好感がもてなくなってしまった。普通の候補生なら、早速区隊長室に行って詫びを入れ、油をしぼられた上で、没収品を返してもらうところだが、私にはそれができなかった。言訳と詫びとは別物だとは思ったが、先方にも理不尽な点はあると思ったので何か言ってくるまでは黙っていることにした。一カ月以上も経ってから戦友の一人が「後藤、区隊長が葉書入を返すから来いと言っていたよ」と伝えてくれた。だが、もう私はそれを返してもらいにゆく気がしなかった。「あの葉書入なら、いらないからと言っておいてくれよ」 ということでけりをつけてしまった。
 こんな風に意地を張ってきた私も、とうとう区隊長室の扉を叩かなければならない事態に追い込まれた。それは親不知歯が出かかって熱が出、食物がとれず、演習を休まなくてはならない状態になったからであった。顎がかみあってしまって、歯と歯の問が飯粒を通す隙間がないので、汁を吸うだけの日が三日も続いていた。あたりまえに飯を食べていてもきつい演習に、これ以上は耐えられないと思って、とうとう練兵休を願いでることにしたのであった。「なに。親不知がはれたから、演習を休ませてくれって。」 とW中尉は軽蔑したような目で私を睨みつけながら言った。それからも何かごちゃごちゃ言いかけたが、私はもう聞いてはいなかった。彼の面相を見、言葉つきを聞いている間に痛みは、すっかりとれていた。「申出を撤回します。演習に出ます」と言って、Wの話の終るのを持たず帰ってしまった。
 それからも三、四日飯の食えない日がつづいた。脚がふらふらしてまるで夢遊病者のようである。倒れそうになるたび、私はじじむさい猿のような顔を思い浮べて「糞ッ」と、くいしばれな
い歯をくいしばって耐えた。そして耐え通した。
 それにしても松戸というところは人情味の薄い所であった。演習が終ってから二度ほど私は歯医者に駈けつけたが、「五時で終りました」と言って受けつけてくれない。「軍隊も五時まで演習があるので。」といっても、「それはそちらの都合でしょう」と玄関ばらいをくわせる。全く癪にさわる町であった。