江尻丸遭難

1

 工兵学校に入学して四カ月位経ったころに、約三分の一の候補生が南方に送られることになった。米軍がレイテ湾攻撃を始めた頃で、輸送がにわかに困雉になるとの見透しから、残りの教育を南方で受けさせる事になったのだそうである。区隊長に手を焼かした私が、その一員に選ばれたことはいうまでもない。早々と茶目といたずらまじりの反抗のお返しを受けることになったわけである。そして私たちは三日間の休暇を貰い、家に帰った。軍刀を用意したり、路銀を調達するためである。
 私には家郷のことで気になることが一つあった。それは入営時、書き残した遺書の中の歌である。それが、どうも出来がわるいように思われ、なんとか機会があったら訂正したいと考えていた。今はその歌も忘れてしまったが、防人歌を倣ったような勇ましいものであったことは覚えている。それで家に帰った私は早速遺書を開封して、書き改めようとした。しかし読み返してみると、一字も改めるところがない。結局もとのまま封をして残すことにした。 − 送別会のとき、私が真先に指名されたので、そのいきさつを説明し、その歌を朗詠した。あとで残留組の戦友から、さっきの歌を書き残してくれと言われ、書いて与えた事も覚えている。
 かくて門司を出航したのが、十九年の九月十日頃であった。江尻丸という貨物船で、七千七百トン、ぎっしり貨物を積んだ上に三千人の兵員を乗せていた。急造の部屋は何階かに仕切られ、一坪につき十三人半ずつの割合で押込まれた。しかし大きな装具を持った人が、立つことのできない低い部屋に、そういう密度で入ることは到底不可能である。五六人がせいぜいである。あとは甲板に立ったまま。私も立ちん坊組、夜になってどうにか腰をおろすことができたが、足は伸せない。無理に伸すと相手の体の上にゆく。そんな状態で航海はつづいた。輸送指揮官から、船団のうち三分の一が任地に着けばよいというのが、上層部の目算であるということを聞いて、板子一枚地獄の上といった感慨をもよおす。こうなっては運を天にまかせる外はない。
 門司からマニラまでは当時の船足でも、十日もあれば行く。それが一カ月もかかった。敵の潜水艦を避けてジクザク航進をし、その上あっちの島影により、こっちの岩礁によるといったあんばいだからである。それでも魔のバシー海峡は無事通過した。それは暴風のおかげであったといってよい。普通此処で船団の半分はやられていたのである。北サンフェルナンド港に全船無事着いた時はやれやれという気がした。暴風−−おそらくは台風であったろう−をついて、バシー海峡を突破したのは、大変賢明な策であったといってよいと思う。だが、まだ安心はできなかった。もう大丈夫と思っていたところを翌日湾から沖合にでたところを、我々の江尻丸は魚雷にやられてしまったのである。その時私は呑気に裸になって講談本に読みふけっていた。朝一回雷撃を受けたが、うまくかわしてくれたので今度も大丈夫さと高をくくっていた。だが、二度目は見事に命中してしまった。船はゆらいで炎上する。「爆薬が積んであるから退船しろ」という声がする。大部分の人は朝の雷撃の暗から身なりを整えていたが、私は裸である。あわてて襦袢だけつけ、その上に救命胴衣をつけた。そのころ、あたりにはもう殆んど人がいない。舷側にかけよって下を見た。高い!三階から下をのぞいたときより、もっと距離がある感じだ。とても飛込めないなと思った。一寸した飛込台からも飛び下りた事のない人間が、尻に火がついているからと言って一気にとびこむことなど出来るものではない。うろうろしている間にも、遅れた人達が次々飛びこんでゆく。手をのばし頭から飛びこむ人、四、五歩走って気合もろともとびこむ人−−私は半ば唖然とし半ば恍惚として、それらを眺めていた。だが、甲板上に全く人影が無くなったのに気付いたとき、私は吾にかえり、このままでは船もろともふっとんでしまうぞと思ってあわてた。そして何処かに縄梯子がある筈だと思って探したら、すぐ近くにある、しめた!と思ってそれを伝わってゆくと、何ということであろうか、一間ぐらいで切れてしまっている。南無三、仕方がないと、さすがの臆病者三四郎も、かんねんの眼をとじて、縄梯子から手をはなしたのである。

2

 山形大学名誉教授の柳原吉次先生が、日大山形高の前身、山形一高の校長になられて間もなく私は学生の就職を頼みに、先生の新宅を訪ねた。応接間に通されて少し固くなっていると、座につかれた先生が、次のような質問をされた。
 「後藤さんは、一寸四方の紙で尻をぬぐう方法を知っておられますか。」
 「いいえ、知りません。」
と答えると、先生はわざわざ一寸四方ぐらいの紙を用意されて、実技まじりで講釈してくれた。
「うちのおとうさんの話を、まじめにお聞きになると、たいへんな事になりますよ」と、傍で奥さんが笑って居られた。
 一寸四方の紙で尻をぬぐう方法があったら、戦争まえに聞いておけばよかったと、その時思った。戦時中に私は、尻をぬぐうのに困り、実際一寸四方位の紙を使用した経験があったが、その方法は普通と変らなかったからである。−−それは遭難した江尻丸での事であった。用を終えてポケットを探ると紙がない。それにかわるものもない。船の便所は舷側から海上につき出して足場を組んだだけの吹きさらしのものであったから、舷側を行ききする誰かに呼びかければよいのだが、あいにく一人も知った顔がない。誰かと呼びかけたら何十人かの人が 一斉にこちらを向くであろう。いくら野郎共だけでも、それには耐えられないので、再び三たびポケットを探るが無い。ゴミさえも無い。何としたものかと途方にくれて、黒潮の上に跨がること久しく−−ハッと思いついたのがお守り袋であった。お守りは確か紙に包まれてある筈だ。
 首の紐をたぐって袋をあけてみると、六七通りあるお守りの中に、四つ五つぐらいは紙に包まれている。一寸四方位の紙に。それをはがした。○○神社などと印刷してあるので尻をぬぐうのに気がひけたが、苦しい時に助けてくれるのが神々の役目だろうということで、勘弁してもらうことにした。御神体だけを袋に戻し、辛うじて用を済ますことができたのであった。
 しかし神様の衣を剥き取った報いはてきめんであった。それから何度となく私は裸にされる事になるのである。その第一回目が前回記した江尻丸での遭難である。共に救助されてマニラで再会した大原候補生は、吾々の小隊長であったが、
 「お互に救かってよかったなあ、おい。」
と呼びかけると、いかにもという顔をして彼は、自分のお守りの話をするのであった。彼がお守り袋をあけてみると△△神社のが、二つに断ち切れている。外のは何ともないのに、それだけが折れるのは不思議だ。きっと吾々の身代りになってくれたんだろうと厳粛な顔をして言うのであった。
 彼の話を聞いて、私は何か見透かされたようなバツの悪い思いをした。もちろん彼は、私がお守りの上紙で尻をぬぐったことは知らない。だが、そのギラギラ光る眼を見ていると、咎められているような気がして仕様がなかった。神様の着物を剥ぎ坂って、それを穢し、海の上に捨てた − 遭難したのは貴様が神様を怒らせた為だぞといっているように。
 ところで柳原先生の方法は、どうも実用的でなかった。真申に穴をあけ、指を通して始末し、その指を一寸四方の紙でふきとり……−−そんな方法は江尻丸では役立たなかったろう。手を洗う水もなければ石鹸も無かったからである。もっと実用的な方法があって、一寸四方の紙で用を足すことができていたら、或いは私の遭難もー度で済んでいたのではないかとも思う。なぜなら一枚の包み紙で間にあっていた筈だから。一方こんな風にも思う。私が四つも五つもの御神体を裸にしたため、命だけは助かったのではないかと。つまりこの小癪な野郎を、何度でも裸にしてやれと、諸々の神々達がお考えになったとしたら、殺してしまったのでは報復できない。命だけは助けておかなければならない。そのような神々の密議があったから、どうやら命だけは拾って戻れたのではないかと考えたりもするのである。

3

 海は意外に柔かであった。鉛色にうねって、怪物のように見えた海に、私は錐のように突きささり、次いで真一文字に押上げられた。そこではじめて私は眼を開き、袴下のポケットから眼鏡を取出してかけた。江尻丸の行方を追うと、炎上しながら大分先に行っている。それから時計を見ると、二時十分でとまっている。私のまわりには殆ど人影がない。はるか後方には、海水浴場のように、頭が浮んで見える。やれやれと思った。南海の澄んだ水が快った。一ヵ月間湯浴みも水浴もできず、垢がたまり虱のわいた体を、思い切り伸ばした。カポックの浮力は私の体重を支えて余りがある。そこには一仕事終えた者の安堵感に似た気分さえあった。
 間も無く私は、海面に浮ぶ一本の柱を見つけた。四寸角位、九尺はあろう。潮の加減で流れ寄ってきた、この柱をつかまえて、これで大丈夫という感を深くした。カポックの耐久力は一昼夜という。だがこの柱にすがっていれば何日でも持ちこたえられる−−だがこの考えは甘かった。やがてこの柱をめざして一人寄り二人寄りし、夕方までには二十人位の人が集まることになったからである。一本の柱が二十人もの人を支える力は無い。カポックの浮力が衰えるにつれて、不安は増してくる一方であった。−−しかし結果的には、この柱のために救助されることになったのであるから妙である。
 雷撃を受けて、一、二時間経った頃、貨物船が救助にきた。海防艦が一隻あたりを巡っているのも見える。救助船は大分離れたところにいたが、だんだんこっちにも来て、救助してくれるような気がし、呑気にかまえていた。われわれは浮上者群の外縁にいたわけだが、そのことは忘れていた。一番最後に退避したのであるから、当然緑の方にいた筈なのに、気持が動転していたため、自分が中心部にいるような錯覚にとらわれていた。だから、ほんの一、二粁しか離れていない位置に救助船が来た場合も、それに向って泳ごうとする努力をしなかった。
 やがて日が没した。つるべおとしの秋の太陽は南海では、よりスピード感があって、最逆様に暮れてゆく。途端に夕闇が迫る。そのとき誰かが陸に向って泳ごうと言い出した。ルソン島から二、三十粁しか離れていなかったので、日が暮れるまでは島陰が見えていたのだ。「そうしょう」という声が忽ち唱和する。カポックの衰えが気になり出していた時だったから、出来たら私も泳ぎたかった。しかし何せ私の游泳力は三十米かせいぜい五十米である。その百倍もの距離をどうして泳ぎきることができよう。気の早い連中が、次々に一列縦隊で泳ぎ出した時、自分だけが取残される淋しさにおそわれた。だが泳ぎ出したのは五、六人に過ぎなかった。そしてこの連中も間も無く引き返して来た。暗闇では方向を維持するのが難しかったようである。
 その頃、私は死の影を見た。黒いヴェールをふわりと海面一杯に引きずって、頭部が丸く茜色に光っている。それがすうっと水平線から音もなく寄ってきて、近くで止った。ちらと家郷の事が念頭に浮ぶ。いけない、私は頭を大きく二三度横に振った。こんな所で死んでは犬死である。おれは陸軍だ。海の上では死ねない。何としても助かるぞ。
 暗闇の中で志気とみに衰えた連中に、私は声をかけた。このまま黙っていては、救助船が来ても見過される。二班に別れて、絶え間無く「お−い」と叫びつづけよう。−−この提案が受入れられ、この方法がまんまと図に当った。海防艦が聞きつけて救助のボートを出してくれたのだ。このボートの有難かったこと、もし神様というものがいて、闇の中から忽焉と現れるものであったら、それは神様そのものであった。やにわに船べりを掴む、幻影ではない。助かったのだ。仮にそのまま一晩中浮いていたら吾々の半数以上のものが、海中に没していただろう。海は波だってき、カポックは唇の線まで沈むくらい浮力が衰えていた。それを思うと、私が死の影と思ったのは生の影であり、救いの手であったのかも知れない。海防艦にのぼって時刻を聞くと、八時を過ぎていた。約六時間の浮游であった。
 (石田徳氏の『ルソンの霧』には、江尻丸を「一万トン級の戦時標準型貨物船」と記してあるが、これは私の記憶の七千七百トンの方が正しいと思う。ただし雷撃を受けた時刻を昼前とするのは、石田氏の記憶が正しいかも知れない。昼食前だったような気がするからである。とすると時計の針はニ時十分ではなく、十二時十分でとまっていたことになる。)