不沈船アラビア丸雷撃される

1


 江尻丸遭難後の六日間は、マニラの城内(スペイン続治時代の石造りの大きな城郭)で過した。外米のくさい飯とさつま芋の葉を塩で煮た汁が、椰子の実を二つ割りにした食器で支給された。それにたまにおしんこらしきものがつく程度。まずい。毎食毎食くさい飯によどんだ塩汁、これではたまらない、なんとかフィリピンから逃げ出したいものだと思っていたら、指揮官から十月十七日マニラ出港、昭南(シンガポール)行の輸送船に乗るよう伝達された。我々はマニラの街を裸足で歩いて、兵站司令部まで装具をもらいに行った。まさに乞食の行列である。
 今度の船は、半客半貨物船のアラビア丸一万トン、数度の攻撃をかわしてきた不沈船で、敵の懸賞つきになっているという話であった。乗船した者総数五千。船が大きいので、江尻丸の時より大分楽で、足も伸ばせた。食事も、くさくない内地米の飯が支給されたし、便所も屋根があり囲いがあった。江尻丸の時より、だいぶ人間らしい扱いになってきたことを喜んだ。
 しかし、それも束の間、マニラを出航してわずか一昼夜しか経たない十月十八日の早朝、不沈船アラビア丸は魚雷攻撃を受けて航行不能に陥ってしまったのである。そのとき私は、対潜看視を交替するため、甲板に向っていた。ガクンと衝撃が来て、忽ち船は左舷に大きく傾きはじめた。「やられたな」と思った私は、あわてて右舷の方へ、四つん這いになってよじ登った。こういう場合、高い方へ進もうとするのは、人間の本能なのだろう。一気に船が沈めば、何処にいても大差はない筈だが、夢中で高い方へと向ってゆくから不思議である。
 船の傾き方が急なため、今度はこのまま沈んでしまいそうな気がした。そして、それにつけても早く退船して、船から離れないと、海中にひきずりこまれるおそれがあると思った。(大きな船が急に沈む場合、海の中に穴ができたようになって、近くのものを呑みこんでしまう、何れは浮くにしても、道中が長いのでその間に窒息してしまうということを聞かされていた。) だが今度は、江尻丸の時とは反対で、私にとって間がよくいったものだという思いがちらとかすめた。大部分の戦友達は裸のまま寝ているだろうに、私は服装を整えている。彼らは船室にいて出てくるのに手間どるだろうが、私は甲板にいる。退船も真先にできる。このまま船が沈めば、船室にいる連中は船と共に海底に沈むこと必定であるが、私は浮上するであろう。天佑か幸運か…などと思いつつ右舷の隆起した方向へ、足をすべらしながら、這いあがっていった。
 しかし船は三十度位傾き、左舷が海面のすぐ上まできたところで止まった。これ以上は沈まぬらしい。漸く左舷の一番高いところまで登った私は、退船すべきかどうか迷った。すでに百名近い人が海の中に飛込んでいて、定員十何名かの艀(はしけ)に次々収容されつつあった。これ以上一隻の艀に乗ることは無理である。しばらく模様を見ることにした。すると間もなく、もうもう蒸気の吹き出してくる汽缶室の方から、一人の男が出てきて、「退船を待て!!船はこれ以上沈まない」と叫ぶのを聞いた。その頃になると、戦友たちも次々と甲板に出てきた。私以上に装具を整えて出てくる者もいる。私はまた何か損をしたような気がしてならなかった。
 海防艦一隻を残しただけで、船団はとっくに立ち去っていた。あたりは島影一つ見えない南支那海の真只中である。海の色は黒潮に劣らず黒く無気味である。こういう海面に目標が停止しているのであるから、敵から狙われたら、一たまりもない。何時次の魚雷が当るか、それを待っているような態勢だった。しかし一時間たっても二時間たっても情況に変化はなかった。 そんな中で、私は船室に戻った。水筒を探すのが目的であった。自分の水筒は江尻丸で無くしマニラでも配給してもらえなかったから、誰かがあわてて置去りにした水筒があったら、それを拾おうという考えであった。一種の火事場泥棒を思いついたわけである。船室にいる問に船が沈んだら、一巻の終りである。無気味だが祈る気持で、うす暗い船室を手探りした。が大事な水筒を忘れていくような奴もいなかった。漸く竹筒で造った水筒の代用品を見付け、急いで甲板にひきあげた。

2

 早朝に雷撃にあって昼過ぎまで、われわれは甲板上に群がって、なす事もなくいた。今から考えると、この時に筏を作るか、浮ぶ物を甲板上に運び出すか、何らかの方策を採っていたら、損害があれほどまでにならずに済んだのではないかと思うが、その時は何の考えも浮ばなかった。輸送指揮官もそうだったのだろう、何の命令も指示も出さなかった。何一つ食べもせず、飲みもせず、茫然と突っ立ていたわけだが、不思議に飢えを感じなかった。
 そして昼過ぎ−−突如、私は猛烈なかわきに襲われた。それは近くにいる兵隊の一人が、サイダーを飲んでいるのを見た時である。奔流の如くというのは、こういうのを言うのだろうか。熱帯の太陽にじかに照らされて、何時問もいたのだから、かわきを覚えないのが不思議だが、今まで感ぜずにいた分も一緒になって、一度におしよせてきたというかっこうであった。−−その兵隊は周囲の凝視をはねのけるように、「飲みたけァ船倉に行けば、いくらもあるワイ。」といって一人で飲みほしてしまった。
「船胎にゆこう〃‥」と私は叫んでいた。すると「ゆこう!」という声が二つ返って来た。私が誘った候補生からでなく、他の部隊の兵隊からであった。候補生の同意者がないのは意外であったが、二人の兵隊を連れて私は出かけた。薄暗い廊下を伝って行ったがかなり遠い。倉庫は船尾近くにあるらしい。しかも廊下が右に曲り左に曲りしている。二、三先客がいて、それらに場所を聞きながら進む。船体が傾いているから、片手で壁を押えながら行かねばならない。まごまごしていて船が沈んだら、それこそ一巻の終りである。そう思うとかわきも癒えてきた。そして「引返せ引返せ」という内心の声を聞いた。しかしそれよりももっと力の強かったのは「 船艙に行こう」といった私自身の言葉であった。言葉が先に立って、私をひっぱって行くというような感じであった。一万トンからの船になると長さも、百米はある。船首の甲板から船尾の倉庫へと、私は自分の言葉にひかれて進んだ。
 そしてようよう倉庫にたどりついて見ると、もうサイダーもジュースも無かった。あるのはビールの小びんだけ。それを二本つかんで戻った。平和な時なら水よりサイダーが、サイダーよりビールが価値があるが、しかしかわいている時は価値が逆になる。何より真水が欲しくなるからだ。甲板に戻った私は、小壜の三分の一位を飲んで、あとは周囲の人たちにわけてやった。
 その後で、私は一人の軍属が意外なものをかかえているのに気付いた。見るとセメント袋のようなのに一杯の煙草である。それを誰にもわけようとしないで、両手で抱くようにもっている。海に入ったら、どうする積りだろうかと、おかしくなったが、濡れずに救かることを前提としているらしい、この男の行為に、救いに似た感情が走ったのも事実であった。 それから更に一、二時間−−われわれ候補生は全員濡れずにたすかった。海防艦が横付けになって、それに乗り移ることができたからである。輸送指揮官は二箇部隊を指揮している大佐であったが、自分の部隊の兵隊を一人も乗せようとせず、少尉候補者、見習士官と幹部候補生だけ、乗り移るよう指令したからである。
 このときの遭難で、五千人の乗組員中、約四千五百人が海没した。われわれが乗り移って間もなく、アラビア丸と救助のため接舷しつつあった油槽船とが、同時に撃沈されてしまったのである。救かったのは二割の五百人。内わけは早朝命中の当初に艀(はしけ)に乗り移った者、八十名ほど。海防艦約三百。翌日救助されたもの約百であった。輸送指揮官の指令が一寸ずれていたら、吾々も海没者の仲間入りをしていたろう。九死に一生という言葉通りのきわどさであった。

3

 先ず救助に赴いた油槽船が、舶を上に直立し、一直線に沈んだ。それからアラビア丸がぐんと直立し、静止したと思った瞬間、するすると沈んだ。私たちが乗り移った海防艦もねらわれたが、これは百八十度廻転して魚雷を避けた。そしてその後で爆雷を三、四発つづけざまに投下した。そのうちの一発が海中の潜水艦に命中したらしく、むくむくと重油が浮いて拡がった。そのさまを甲板で見ていた私は「戦争とは馬鹿みたいなものだな」とつぶやいた。そして「馬鹿みたいなものだ」というのは、山高時代の恩師森瑞樹先生の口癖であったことを思い出していた。
 結果的にともあれ、海の上にほうり出された人は、少なくともすぐは死ぬことがない。しかし撃沈された潜水艦の乗組員は、二度と陽の目を見ずに海底に沈んでゆく。敵ながらあわれだという気もした。 −− そして敵とは一体何なのかと思った。全然顔も知らない連中、個人的には何の憎しみも利害関係もない連中なのだ。それが殺したり殺されたりしている。これが戦争なのだ。目の当りに見る戦争の姿そのものなのだ。 −−馬鹿みたいなものだという意外の評語があり得ただろうか。
 間もなくあたり一面が海水浴場と化した。五、六人かたまっているのもあれば、一人で浮いているのもある。海防艦のすぐそばにきた一団は、旗を立てて「海ゆかば」を歌っていた。ウミユカバ、ミイヅクカバネ………大君ノヘニコソ死ナメ……何という情景そのものの歌詞であろう。江尻丸で遭難した際は我々もそれをうたったが、その歌の意味するものを考えて慄然として口をつぐんだものだった。ここでこの歌をうたっている人たちは、おそらく最初の漕難経験者たちだろうか。
 海防艦上は満員電車の混雑である。これ以上収容する余裕はない。悲しい合唱を背に艦は現地を離れたが、この頃はもう暮方近かった。そして日中はおだやかだった海面に大きなうねりが見えはじめていた。夜に入ってからは、もっと荒れたに相違ない。 私はこの晩の光景を想像する。丸太や板につかまっている人を中心に集団がいくつも出来ただろう。カポックの浮力が衰えるにつれて、人の体につかまる。その人も一緒に沈む。だから寄ってくる奴はけっとばし、或いはつきとばす。叉つかまる。沈む。水を飲む。丸太を中心に乱闘がおこる。それを待っていた別の誰かが丸太を盗んで群を離れようとする。すると今まで争っていた連中が結托して、そいつを沈め奪いかえす。突然鮫におそわれた人の悲鳴が聞える。そこここから悲鳴がおこる。丸太争いをしていた連中も、今度は鮫を避けるために、群の中に入ろうとして輪が小さくなる。その集団の一人も鮫にやられる。もう丸太どころでなくなり、四散して逃げまどう。波はますます高くなる。空腹感とかわきがおそう。疲労と寒さとで、泳ぐ手足がきかなくなってくる。絶望感と共に睡魔がおそう。−−やがて海面を音もなく滑ってきた死の影が、その黒い柔かなヴェールに包んで海底へといざなう……。
 もう一歩のところで、われわれもその仲間入りをするところであった。あの黒ずんだ南支那海の深い海底に、永久に屍を横えることからのがれ得た運命のひもは、遊糸のように細く、玉の緒よりも短かかった。海防艦でマニラに引き返し、又城内に起居する事になったわれわれは、命のひもを私たちに与えて沈んでいった輸送指揮官の霊に長い 黙祷を捧げたのであった。