脂 汗
−「妙義」沈没をまぬかれる−

 当時(昭和十九年)のマニラは、ひどいインフレであった。軍票の一ペソが内地円の一円というのが、規定の交換率であつたが、実質的には内地円の百分の一の値打しかなかった。内地で十銭位の煙草が十円でも買えない始末である。われわれの月給は八円、煙草一つ買えない安さであった。闇の交換屋が十円を十一ペソに替えてくれたが、それでも桁ちがいの安さに茫然とするばかりであった。そしてたまたま交換すると、それが贋の軍票であったりした。正規のところで交換すると贋をつかむ心配はないが一ペソ損をする。それで闇屋を利用するわけだが、三度に一度は贋軍票である。−−それでもその贋軍票が結構通用した。子供の物売りなどは吟味することなく売ってくれる。交換すべき物をすべて失ったわれわれは、悪いと知りつつも、そうせざるを得なかった。
 マニラの街は末期的表情を呈していた。贋軍票の話にしてからがそうだが、民心が完全に日本軍から離れていた。無関心、冷胆を通りこして憎しみの感情さえ読みとられた。彼らが気嫌よく近づく場合は、物を盗みとろうという魂胆をもつときだけだった。例えば誰かが法外に安い交換を申しでる。それにひかれて兵隊がその物を見たりしている間に、うしろにまわったフィリピン人が図嚢から物を盗むといった場合である。
 こういうマニラに再び戻るのは、気が重かったが、しかたがなかった。われわれは城内にしばらくいて、それから郊外のニッパ椰子でつくった粗末な兵舎に移り、一カ月余り次の便船を待った。そして十一月の半ば過ぎ、再度シンガポールをめざす船団に乗りこんだ。今度は「妙義」という名の三千トン級の船で、船団の中でも最小の船のようであった。夜中に乗りこんでマニラ湾の真ん中で翌朝の出発を待っていた。
 ところが出航のエンジンをかけるまえ、夜明け早々、敵の飛行機が群をなして襲ってきた。この日は午後四時頃まで敵機が絶え間なく襲ってきて、マニラ湾にいた船や軍艦の大部分がやられてしまった。われわれの妙義も早々に爆弾を二発うけて甲板上の人の大部分が死んだ。私も爆弾が当る十秒位まえまで甲板にいたのだがあやうく救かった。
 前夜私は財布をはたいてビールを飲み、ビーフステーキと称する肉片を食べた。これが飲みおさめ食べおさめになるかも知れないと思って、長い行列に加わって漸くそれらのものにありついたわけだった。その時の肉のせいか下痢ぎみであった。朝、甲板上の便所に行くと二つあるのが満員である。仕方なく待っていると飛行機がこちらに向ってくる。それであわてて船室にかけこんだのだが、かけこむや否や爆弾が命中した。私のすぐうしろをついてきた人は爆風で眼鏡をこわされてしまった。あとの話になるが爆撃が終ってから、私は便所へ行ってみた。(人の生理とは変なもので爆撃の間中は便意を忘れてしまっていた。)すると私が入ろうとした便所の中で、兵隊.が死んでいた。無傷であったが爆風でやられたらしい。若し私がそこに入っていたら、同じ運命にあっただろうと考えると背筋が寒くなった。そしてまた便意がひっこんでしまった。
 この日の空襲の恐ろしさは表現しがたいものがある。敵機が低下してキーンという音をたてるたび、命が縮まる思いがした。脂汗というものは、言葉としてだけでなく、現実にあるものだということをこのとき知った。今にふっとんでしまうだろうと思う数瞬間体中から汗がふき出るが、それが脂である。朝から飲まず食わずだから水分はとっくに 涸れてしまっていた。
 妙義は何度も狙われたが、船体が小さいことと防空隊員が必死に活躍してくれたため、重ねての被害を受けずに済んだ。大きな船や軍艦は皆火災をおこし、マニラ湾は火の海であった。私たちは今度もあぶない命を助かることができたわけであった。