危機一髪

 十二月一日、マッキンレーから引きあげたわれわれは、マニラ東北方のトンコマンガという所に行った。この頃になってわれわれ候補生は、方面軍の築城本部所属がきまり、トンコマンガに行って教育を受けながら、壕掘りをすることになったのである。そこはマニラが陥落した際、次の第一線になるだろうという見込みの台地で、人家もまばらな寒村であった。教官は栃尾少尉という二十数貫はあるであろう鬚を貯えた偉丈夫であった。そして、その上司が小川少佐であったが、我々と同居し、教育に当ったのは栃尾少尉と助教の軍曹Yであった。
 訓練は戦車攻撃一点ばりであった。黄色火薬を背負って体ごと戦車に体当りするという方法だけがくり返された。他の迂遠な方法は間に合わないような戦況であった。
 レイテが落ち、ルソン島への上陸も間近に迫っていた。地下壕掘りと、戦車攻撃にあけくれる毎日であった。
 そんな或日、壕近くの谷あいの雑木林で稲が生えているのを見付けた。さすがに南方だなあ、こんな所に稲が野生しているわい、と感心したことだった。(復員後、植物の先生にこの話をしたら、それは籾をこぼしたのかも知れない、稲の原生地は、今のところ不明だと言われた。)
 トンコマンガでは、夕暮れになると、さかんにカッコ、カッコと鳴くものがいた。とかげだということだった。大きいのになると二尺以上のもいて、肉は芙味だというので、何とか掴まえて食ってやろうと思ったが、一度も姿を見ることができなかった。マニラ周辺と同様、ここでも現地人が蛙釣りをしている姿が散見された。水のない草原に釣り糸を垂れて蛙を釣り、それを食料にする。豚や鶏などは日本軍から徴発されて、彼らの口へはなかなか入らない。蛋白源を蛙に求めたものであったろうが、私共はさすがに蛙を食べようとはしなかつた。
 トンコマソガの訓練も一カ月足らずで終った。十二月二十九日、私共は一台のトラックに鈴なりに乗ってバギオに出発した。方面軍司令部がバギオに移ったことにつれての移動であった。トラックには三十数名の人間と黄色火薬、ダイナマイトが満載されていた。場所がないので、われわれは火薬箱の上に突っ立って乗った。
 マニラ街道をまっすぐに北上し、三、四時間行った。パニキというところで、このトラックは乗用車に正面衝突されて急停車した。三、四人ふりおとされたが助手席のわきのステップに、雷管を持って立っていたY軍曹も、路上にほうり出されて仰向けに倒れた。さすがに雷管をもった手を上に挙げたまま転んだので、爆発の憂き目にあわずに済んだが、全く危いところであった。ダイナマイトは衝撃を与えると、雷管なしにも爆発する。すんでのところで体が粉々になるところで、危機一髪とはまさにこんな時のために用意された言葉と思われる。
 トラックがこわれたので、われわれはパニキの民家に一泊し、夜は現地人相手に演芸会を開いた。私はこのとき新庄節を歌った。命の拾いものをしたあとで歌をうたう。戦争とはこうしたものかと思われる一時であった。
 明けて三十日に別のトラックでバギオに向かった。経路のベンゲット道は名にし負う難路である。フィリピン人もアメリカの労働者も造りかねて、日本の労務者が多数の犠牲者を出して完成させたという、いわれのある山岳自動車道路である。そのときの飯場の名が、そのまま地名になり、入口からキャンプ1、キャンプ2……キャンプ6と進み、最後がジグザグロードと呼ばれる。このあたりにさしかかると国産車はたいてい動かなくなってしまう。フォードなど米車は難なく登ってゆくのに国産車の性能は悪かった。われわれのトラックもエンコし、後を押したり綱で引いたりして、ようやく千五首米の山上にある国際観光都市で、マニラに次ぐ第二の都市バギオに入ることができた。バギオはさすがに夜になると空気がひんやりする。平地でどろどろだった椰子油も、ここでは石鹸みたいに固く凍った。二、三日前までドイツ人がいたという 瀟洒な宿舎に落付き、それからゴルフ場の中の寄宿舎みたいな造りの建て物に移った。
 仕事はここでも壕掘りが主だった。大統領の別邸がある西南の方角には陸軍病院があり、その前面でベンゲット道をのぞむあたりに、次々と壕を掘った。仕事を終えると、直下に見える民家に、石鹸などをもって食料求めに降りていったりした。米軍が上陸するまでは、ただでまき上げるようなことはせず、必ず代償を持参した。軍票は住民も欲しがらなくなっていたので、わずかに配給を受ける物品を持参した。四十五度傾斜ぐらいの岩壁を猿(ましら)のように昇り降りして、わずかに手に入れるサツマイモを私は大急ぎで煮て食った。配給の食事だけでは空腹にたえきれない毎日であったからである。
 そんな或日、敵機の爆撃の目標になるからというので、鉄柱の爆破を頼まれた。頼んだのは何処だったかは忘れた。小高い丘の上にある二十米位の鉄柱だったように思う。爆薬を仕掛けてから栃尾少尉は暫らく考えて、仕掛けた方と反対方角に我々を避推させた。木を切る際、鋸を入れた方に木は倒れる。だがら爆薬を仕掛けた方向に塔も倒れると、少尉は判断したに相違ない。ど うも反対のような気がするがと言いながらも我々は、言われるまま避難した。
 爆発と同時に、数米大の鉄の大破片が、我々の頭の上をすれすれにかすめて、二米先位につきささった。ほんの一寸下を通れば、休の半分が削ぎとられる近さであった。これも危機一髪といえるぎわどさであった。バギオに移ってから暫らくして、マニラに連絡に行った小川少佐が遺体で帰って来た。途中ゲリラに狙撃されたということであった。われわれはゴルフ場の隅を掘って少佐の遺体を埋め、石を三置いて黙祷した。栃尾少尉をトツオと発音する東北出身の教官であった。
 一月九日、米軍はリンガエン湾に上陸した。そしてバギオも爆撃されるようになった。最初の爆撃で陸軍病院や教会がやられた。「人道主義などといいながら、ひどいことをしやがる」と言いながら、我々は近くの壕から時々顔を出しては、病院などがやられるのを見ていた。陸軍病院の屋根には、日本軍の進攻当時、抑留者が挺身して書いたというペンキの赤十字がそのまま残っていた。それが却って爆撃の目標となったようだ。日本軍は陸軍病院として、多くの患者を収容しており、大門候補生もここにいた。四分の一位の患者が第一回目の爆撃でやられたらしかったが、大門候補生は無事であつた。
 教会には、フィリピン人が密集していたという。米軍は日本兵の施設になっていると判断して爆撃したものであろうが、被災者は現地人ばかりであった。その後も各地で同じ悲劇がくり返されたらしかった。現地人は、アメリカ人がこんなひどいことをするはずがない。あれは日本軍の飛行機がやったことだとして、反日意識をあおったようであったが、「勝てば官軍」は異国のこの地にもあてはまる格言であった。我々は友軍機の反撃を今か今かと待ち望んだが、友軍機らしいものは遂に一機も飛来しなかった。